雲南、見たり聞いたり感じたり

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雲南の酒・パイチュウ編11 最新の飲み物!

2016-12-20 10:18:39 | Weblog
雲南各地に根付く蒸留酒の一つ。上記の酒・那榔(ナーラン)酒は雲南省中南部の文山の銘酒。那榔村で700年以上前から造られてたという。原料はトウモロコシ、米、小麦と水。米は大粒で知られる文山州広南県の特産の八宝米(清代の宮廷御用達米)を用い、名水と評判の高い水を用いて、低温発酵させたもの。1996年には中華人民共和国酒文化研究会より「中国地方歴史銘酒」の称号を得た。
清代皇帝の道光帝の家庭教師が広南知府に任じられて行ってしまったので、先生を偲んで、皇帝が取り寄せて飲んだため、当時の宮廷でも名声が高まったという。
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【熱くて早く酔う】
「ワイン」の水割り話で脱線しました。
さて「パイチュウ編7」からの続きです。

この昆明の記述は、フビライ・ハンの使節としてマルコ・ポーロが「大都」(北京)より西の地域に四ヶ月かけて旅したとされる文章の一節です。この旅では北京の盧溝橋から山西省の太原、平陽をへて、陝西省の西安、四川省の成都、チベット、そして雲南からミャンマー付近までの行程が書かれています。

山西省太原が葡萄酒の生産地であること、あとは各地で葡萄酒の消費地について細やかに記述されていますが、不思議なことに酒の味まで言及されているのは昆明だけです。よほど、お酒が印象的だったのでしょう。

昆明の酒を考えるために『東方見聞録』全体を俯瞰してみましょう。すると、四ヶ月の西への旅の直前に書かれた元の都・大都(北京)での酒の描写が詳細です。

「彼らは米と他の多くの美味しい香料から飲み物を作り、それをとても上手く作るから、飲むと他のどんな酒よりも美味しい。それは、とても澄んでいて綺麗だ。またとても熱いから、他の酒よりもはやく人を酔わせる。」

セラド稿本も、この箇所については一致しています。

大都の酒は「澄んで」いて「とても熱いから、他の酒よりもはやく酔う」。ほぼ、といっていいぐらい蒸留酒を表したらしい記述です。

じつはモンゴル帝国期に蒸留酒造りが中国で盛んになったという説が歴史学、考古学でも最有力なのです。(※)10世紀ごろに西アジアのアラビア世界ではじまり、それが元代に中国に伝播したというもの。モンゴル帝国として、チンギスハンの家系が中国から西アジアを一つの世界にまとめ上げていたことから考えると、伝播は当然の帰結です。

※楊印民『帝国尚飲:元代酒業与社会』(天津古籍出版社、2009年p9)

蒸留酒がマルコ・ポーロはいうまでもなく、ヨーロッパの人にとって、また中国の人にとっても、新鮮な香りと味を持つ、珍しくて新しい飲み物だったのです。

つまり、大都の西方の紀行文でわざわざ昆明1カ所のみで酒の味わいまで触れているのは、当時の新モード・蒸留酒に出会った驚きが記した動機と考えるのが妥当です。その点ではこの箇所はセラド稿本の方が、よりオリジナルで書かれている可能性が高いでしょう。
                                     (つづく)
※次回の更新はお休みします。風邪、その他、はやっております。体調にくれぐれもお気を付けてお過ごしください。
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雲南の酒・パイチュウ編10 マルコポーロのワインの味

2016-12-11 14:55:42 | Weblog

ヴェネツィア名物の飲み物スプリッツ(SPRITZ)。白ワインに炭酸水とアペロールというリキュールで割った飲み物。食事とともに、というよりも夕暮れ時に店先で軽く一杯飲む感じ。ワインを割る風習は今も続いていた。ただし、食事の際はワインそのものを楽しむことは周知のとおり。

【古代ギリシャは水割りで】
 古代ギリシャではワインは水割りが普通でした。

 たとえば古代ギリシャのホメロスの長編叙事詩『オデュッセイア』(松平千秋訳、岩波文庫、1994年)にはワインに水を割る様子が頻繁に登場しています。

「酒に水を割っていただけぬか。ポセイダイオンならびに他の神々に神酒を献じた上、眠りにつくとしましょう。」(P75)

「給仕役の若者たちが、混酒器になみなみと酒を満たし、先ず神々への献酒のために、数滴を一同の盃にたらす。生贄の舌を火にかけると、一同は立ち上がってその上へ神酒を注ぐ。献酒を終えて一同が心ゆくまで盃を傾けた時、」(P75)

「すでに給仕人たちは料理を分け、酒に水を割っているところ、」(P210)

ごくごく自然にワインを水で割っていますね。


やがて、ローマ人の時代になると、ワインの製法が飛躍的に向上し、そのものの味を楽しむようになっていったようです。イタリアでの料理の味の深さ、繊細さ、素材の味を重視するあたりが日本人の舌に似ているように思っていたのですが、味へのこだわりが飲み方を変えていったのかもしれません。

そして、マルコ・ポーロの時代。アントニー・ローリー著、池上俊一監修、富樫 瓔子訳『美食の歴史』にはこのように書かれています。

「13世紀料理研究家の医師たち(イタリア)はさらに多くの食に関する勧告を行った。たとえば、ワインは若者には滋養に、老人には治療になるので、両者には勧められるが、気持ちを和らげるというワインの性質は、困難な職務を成し遂げることとは相容れないので、成人はむしろ水で割って飲むべきである。女性に関しては水にワインを一滴たらすのは大目に見られる。」

医師が成人は「水で割って飲むべきである。」と強く推奨していると言うことは裏返せば、それはあまり行われていなかった、ということ。
 
 マルコ・ポールは13世紀の人なので、まさに現代風の「割らない」ワインを飲んでいたといえるでしょう。

参考文献
奥田和子「ぶどう酒をワインで割る-神との関わり」(甲南女子大学研究紀要第39号 人間科学編、2003年3月)
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雲南の酒・パイチュウ編9

2016-12-03 10:48:53 | Weblog
写真は雲南北部徳欽県明永村のブドウ棚。ブドウ酒はかつてこの地域の茨中村に教会を建てたフランス人伝道師が、19世紀に伝えて、村ではブドウ酒用のブドウ栽培も行われていた。1905年の大火および文革でだいぶ破壊されたが、ブドウ酒への思いは他地域よりもは深いよう。明永村のぶどう棚は観光で潤った人々が始めた新たな畑だったが、いまでは大きく育っている。(写真は2004年撮影。)

【大都(北京)の強い酒】
前の回の昆明の記述は、フビライ・ハンの使節としてマルコ・ポーロが「大都」(北京)より西の地域に四ヶ月かけて旅したとされる文章の一節です。この旅では北京の盧溝橋から山西省の太原、平陽をへて、陝西省の西安、四川省の成都、チベット、そして雲南からミャンマー付近までの行程が書かれています。

山西省太原が葡萄酒の生産地であること、あとは葡萄酒の消費地については細やかに記述されていますが、不思議なことに酒の味まで言及されているのは昆明のこの箇所だけです。

よほど、お酒が印象的だったのでしょう。

昆明の酒を考えるために『東方見聞録』全体を俯瞰してみましょう。すると、四ヶ月の西の旅の前に書かれた元の都・大都(北京)での酒の記述が詳細です。

「彼らは米と他の多くの美味しい香料から飲み物を作り、それをとても上手く作るから、飲むと他のどんな酒よりも美味しい。それは、とても澄んでいて綺麗だ。またとても熱いから、他の酒よりもはやく人を酔わせる。」

セラド稿本も、この箇所については一致しています。

大都の酒は「澄んで」いて「とても熱いから、他の酒よりもはやく酔う」。

つまり、蒸留酒の可能姓が高まります。じつは前回、マルコポーロが飲んでいたブドウ酒は、今と同じだったのか、どうか、質問がありました。今より、よほどアルコール度数が弱いお酒だったのではないか。それなら、普通に中国の醸造酒を飲んでも「強いお酒」と思うのではないか、と。

実は、古代ギリシャの時代には、ワインは水で薄めて飲むのが普通だったのです。理由は。すごく、濃い味だったから、酔いを防ぐため、ワインは貴重だったから、など様々に言われていますが、実際のところはよくわかっていません。 それが、マルコの時代もそうだったのかどうかについて、少し脇道にそれますが、次回、触れてみます。 (つづく)




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