雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

カワクボ2

2008-03-29 01:57:46 | Weblog
せっかく徳欽の話になったので、今回は日本人との交流のお話です。

 写真は梅里雪山とそこから流れる氷河から流れる川。
 チベットと四川省に挟まれた雲南省徳欽県を含む一帯には「梅里雪山」をはじめとして6000メートル級の山だけでも、蓮の花のように13峰ある。この峻険な峰の間を縫うようにして東西40キロの間に3本の大河の源が激流となって南北に流れる。東から長江の上流となる金沙江、メコン河となる瀾滄江、サルウィン河となる怒江だ。徳欽県にはそのうち東からの2本の大河がある。

【カワクボののど元】
 漢語名「梅里雪山」のチベット名「カワクボ」の意味は「白い雪山」。氷河と聞くと、スイスのアルプスや北欧を思い浮かべるが、この山にも、その名の通り雪どころか白い氷河が舌のように伸びている。海抜5500メートル付近から海抜2600メートルの森林地帯までを急降下し、メコン江の上流である瀾滄江へと溶けて流れ出す。世界的にも希有な、低緯度で発達する氷河である。高海抜とインド洋の季節風(サイクロン)が作り出した現象だ。近年、この氷河観光で売り出し始めた麓の村・明永村に行った。

 徳欽の中心地から霧の巻く中、崖崩れの跡を迂回し、ヤクや山羊の群れの通り過ぎるのを待って2時間、直線距離で10キロほどのところに明永村はあった。ここから、急峻な森林地帯を徒歩もしくは馬で上がると氷河が、その上に梅里雪山が見えるという。

 娘を夫に預け、縁あって青海省からきたというチベット仏教の高僧の方々と徒歩で登ることとなった。霧雨の中、泥と馬フンがほどよくこねられた道を行く。急坂のため、体力のない私はあえぎながら、ようやく登っているのだが、さすが高僧は青海省の野山を巡礼しているためか、底がつるつるの革靴でスタスタと平地を歩くかのように登ってしまう。3時間もすると、突然、冷気が濃くなり、杉林を抜けたところに氷河があらわれた。上下に裂けたあたりは青白く光り、上空には瑠璃色の小鳥が飛んでいた。

 私の祖父に微笑む顔がそっくりな高僧はチベット仏教の崇拝の山、「カワクボ」を見たいと雲が晴れるのを2時間近く待っていた。すこーし、山の姿が霧の晴れ間に見えたところで、自分を納得させ、祈りをささげると、また飛ぶような速さで麓の村まで降りていった。

 20年ほど前までは登らなくとも、村まで氷河が達していたという。温暖化のためか、年々、村から氷河は遠のいていた。その一方で、氷河まで馬の背にのせて往復で80元を稼ぐビジネスが発展し、稼いだお金で自宅を民宿へと改造していた。

 村の民宿は、ベッドも個室もあり、太陽熱温水器によるシャワーも備わっている。ただし、地元の人に入浴の習慣がないため、夏場は滅多に太陽がでないので温水シャワーにはならないことも、また太陽熱を通すはずのガラスのパイプが破損していることも、宿の主はなかなか気づかない様子だった。

 さて、その日、徳欽へと帰り、街の人に、山頂を見られなかった、とこぼすと「それは日本人だからだ」といわれた。
「以前、日本から我々が聖山としてあがめ、入山を禁止している梅里雪山に登った団体があった。我々は断固、反対したが、登ってしまった。彼らは山頂付近で雪崩にあい、死んでしまった。その後、村は不作にみまわれた。山の祟りに違いない」と真顔で話す。我々がもう一度、明永村に行き、滞在する予定だと話すと、「日本人には、その村は危険だから、やめたほうがいい」とさとされてしまった。   
(つづく)
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閑話休題・カワクボ

2008-03-22 00:18:55 | Weblog
すみません。今回は長いです。目を休めながら、お読みください。

写真は徳欽の街の全貌。シャングリラへと通じる道より撮影。標高の中心は3400メートル。雲間に浮かぶ緑に囲まれた街は遠目でみると幻想的。

【神います山】
 雲南省北部の奥座敷・シャングリラからひらすら標高4000メートルの高地を走るアスファルトの車道を一日走破すると、夕刻、濃霧の中から徳欽の街が突然、現れた。山の中腹にへばりつくような美しい町並みは、まるで「天空の城ラピュタ」だ。そこを見下ろすようにそびえる万年雪に覆われた標高6740メートルの梅里雪山。雲南省最高峰の山であり、地域の人々には「神の住む山」として神聖視されている山である。この峰より続く山の先にはヒマラヤ山脈があり、この街からバスでゆっくり2時間もすすむとチベット国境に到達する。

 そのど真ん中にあるホテルに泊まった。シャングリラの5つ星ホテルで日夜、カラオケの大音響に悩まされていたので、ちょっと傾きかけたこのホテルならゆっくり眠れる、と喜んだのもつかの間、今度はズンズンと腹を突き上げるような音に悩まされることに。黒い布で仕切られた隣の建物はディスコ場だったのだ。

 翌朝早く、霧に巻かれた幻想的な街を歩くと、長い黒髪を三つ編みして頭上に巻き付け、黒、ピンク、緑、白、などのカラフルで長い直垂をロングスカートの前に着けたチベット族の人々が馬の手綱を引いて歩いていた。徳欽やシャングリラを含む雲南省のチベット族自治州では人口の3分の1をチベット族が占めている。その奥座敷にあるのだから正確な数字はわからないが、その人口の相当数をチベット族が占めているはずだ。

 日が高くなると、高地のためか酸素不足で不完全燃焼により黒い煙を吐く車が行き交い、一見して一般的な中国人の顔立ちをした人々が行き交う街となっていた。じっさいにタクシーの運転手やホテルの従業員に聞くと「漢族」との答えが返ってきた。

【花いちもんめ?】
 そんな漢族とチベット族が共存する街で、あえて梅里雪山のチベット古称「カワクボ」を名乗る青年団のリーダーに話を聞いた。
 シャングリラを経て都会へと若者の頭脳や出稼ぎ人夫の流出が続く中、あえて地元に残った骨のある美青年だ。彼は2002年よりチベット族の人々のためになる活動を目指して、靴さえ履くことができない人には靴をプレゼントし、またチベット族の歌をテープに残そうと機材を抱えて、山の上まで行っては、おじいさん、おばあさんの歌を録音してCD化するなどの活動を行っていた。

「でも一度、靴をプレゼントすると、次には革靴を要求される。人々の要求にはきりがない」と嘆いてもいた。

 チベット族と一口にいっても一つの家のなかにもイスラム教、仏教、チベット仏教が混在しているそうだ。何事につけ一筋縄では行かない状況のなかで、先鋭的な民族主義に陥ることもなく、じつに考え深く、柔軟に活動していた。
その彼が街のディスコに行った感想は、

「あそこは一人でも踊れて、仲間もできず、ケンカさわぎまで時折おきる上にお金もかかってよくない」。そこで週に2回、街の真ん中でチベット族独特の手をつないで、輪になってダンスしながら、男女が即興で歌の掛け合いをする「花いちもんめ」によく似た踊りの会を催しはじめた。

「あのダンスだと歌の掛け合いもあって、仲良くなれるし、楽しいよ」。私たちも誘われて、夜、野外で行われる踊りの会に参加した。

【勇壮に跳ねながら弦楽器を奏でる】
 水曜の夕方、車通りの途絶えた街の中心街にいくと、さっそくリーダーがチベット族の正装をして、チベットの男性の持つ二胡に似たピワンと呼ばれる弦楽器を持ち、待っていた。リーダーのじつに寂しげで暖かみのある独特のリズムで揺らしたピワンの演奏が始まると男女四人ずつでのダンスが始まった。

 ジーパンで参加している若い女性もいた。子供たちはうれしそうにその回りを踊る。男性は楽器を演奏しながらはねるように踊り(演奏の技術にも踊りのレベルの高さにもびっくり。体力も使いそう・・。)、女性は地声を生かした独特の歌唱法の歌を歌って、広場をぐるぐると回る。男性は踊りと演奏のうまさでモテ度が変わるというのだから、リーダーはさぞ、もてることだろう(といったら、「そんなことない」と照れてしまった)。なんということはない平和な会に見える。

 広場にギャラリーは多いが、輪に入る人はいない。それもそのはず広場の横には公安の車がぴたりと止まり、公安の人がにらみを聞かせていた。これでは踊りの輪に入るにはさぞ、勇気がいることだろう。平和な2004年のことだ。

 こんな時でも踊る人々は、結構な覚悟を持って踊らざるをえないのだ。我々も微妙な緊張を感じつつも、リズムにうずうずしている娘に手をひかれて、一緒に輪に加わった。ゆったりとしたステップで踊っているようにみえた、足の動きは存外難しく、私にはとうとうマスターできなかった。


 いま、チベット暴動という名でラサからチベット自治区、四川省など各地へ波及している映像を見ていると、どうにもつらい。あのとき、一緒に踊った人達は大丈夫だろうか。今年三月二〇日付けの「東京新聞」にはシャングリラ県で武装警察官が厳重な警戒にあたっているとの写真と記事が掲載されていた。
許可申請を出してはいても、ただ踊るだけで、公安の見張りがつく窮屈なチベット族の人々。文化は抑圧され、西部大開発が行われても、青蔵鉄道が通っても、生活圏は蹂躙されるばかりで、お金は地元の人の手元には残らない。やりきれない構造。
 せめて、日本にいる私ができることはわずかでも見たことを伝え、チベットの人々のために非暴力で行動する人々を支援したいと、魚の項に割り込みました。

 もし賛同いただけたら、下のホームページのファックス用紙から日本政府および、各国大使館にサインをして、ファックス等で送ってください。(二二日には六本木でデモ行進があるそうです。)チベット旅行作家の渡辺一枝さんらも参加しています。
 http://www.geocities.jp/t_s_n_j/index.html
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魚料理5・大理砂鍋魚1

2008-03-15 00:29:32 | Weblog
写真は大理の名物、「沙鍋魚」。大理に多く住むぺー族の名物料理の一つだ。総じてぺー族の料理は塩味ベースの、さっぱりとした味のものが多い。本物のぺー族料理店では、現代の雲南には珍しく、唐辛子で真っ赤になった料理というのは、見あたらない。

【魚の豊かな街・大理】
 雲南に住む少数民族で今なお、豊富な魚類資源に恵まれた民といえば、大理のペー(白)族だろう。大理には耳の形をした洱海という巨大な湖がある。面積246平方キロメートルは、テン池の300平方キロに次ぐ雲南第2の広さを持つ。汚染も少なく、水は澄んでいて魚影が船の上から確認できた。
 大理は、かつて日本の平安時代にあたる中国の唐の時代に雲南最大の国家の中心地として栄え、元のフビライによって滅んだ大理国の首都があったところであり、また雲南の交易ルートの重要な中継地点であった。だが、盆地のど真ん中にあり、平地にも限りがあることから、昆明ほどの乱開発がなかったのである。

 さて、洱海の漁獲高は年間2500トンと、雲南の主だった湖沼群の中で群を抜いて多い。60年代初頭より徐々に草魚などの4大家魚が持ち込まれ、さらにブラックバスなどの放流もあって、昔から自然に住む魚も19種と減少気味だが、それでも雲南の主な湖のなかでは一番多く生き残っている。
(なんと60年代の資料によると全国淡水魚類の総種類の40%を雲南が占めていた。その数432種類。それが1990年代の調査では約130種類、確認されるのみだった。今なら、もっと減っていることだろう。―「雲南的外来魚類和土著魚類 楊君興、1996年発表のものに随時加筆、訂正、2007年」)

 このように魚が恵まれた地なので、街を歩くと、「魚」の文字が書かれた料理屋の看板がやたらと目につく。賑わっている店に入ると、当然のように魚料理を勧めてきた。(肉料理よりもは値段が高め。魚の価格が上がっているためもあるのだろう。)
 ぺー族独特の魚料理も牛乳で煮たり、唐辛子で濃厚に味付けしたりと様々だが、店の前に並ぶ魚から好みの魚を選んで、その後、野菜を選んで、つくってもらう「沙鍋魚」がさっぱりとして食べやすい。

 作り方は店によって多少、違うが、内臓を取り去って洗い、塩もみして約10分後に水または鶏ガラスープを張った土鍋に魚を入れ、豆腐や椎茸、木くらげ、ハム、肉、白菜、百合根などの野菜を入れる。ショウガ、ネギ、コショウ、塩、場合によっては唐辛子をいれ、できあがる。塩味ベースの白湯スープがさっぱりとして食べやすい。それでいて、各種素材がからみあった複雑な味に仕上がっていて旅行中に疲れた時には、胃にも心にも優しい料理だった。

 大きい魚の場合は、魚の頭の大きさを強調するために魚の頭と尻尾を注意深く鍋のへりに出すように飾りつけられる。これが、昔から美味とうたわれた土着の頭の大きな魚・弓魚だと、ぺー族最高料理に格上げされる。  (つづく)
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魚料理4・レモングラスのぐるぐる巻き

2008-03-08 00:42:27 | Weblog
写真はシーサンパンナの中心都市・景洪にほど近い村の民宿の夕餉。奥の魚はこの家独特の味付け。レモングラスを使う以外は、魚を開いてあぶる手法や味付けも家ごとに異なる。
 テーブルに並んだ野菜も香草の類が多く並ぶ。

【コイのレモングラス焼き】
雲南で食べた魚料理で思わず絶品! と叫んでしまったのが、省南部にあるシーサンパンナの田園地帯に本拠を置くタイ族の伝統料理「香茅草烤魚」だ。

香茅草とはシーサンパンナに自生するレモングラスのこと。水田やため池に泳ぐあまり大きくはない鯉などの魚の内臓を取り去って、各種香料と塩などの調味料を詰め込み、最後にレモングラスでぐるぐる巻きにして、炭火でじっくり網焼きする。

各種香料と調味料の配合は家ごとに多少異なるが、作り方を見ているだけで、レモングラス、刻んだ赤唐辛子、青唐辛子(火が出るかと思われるほどの辛さ)、ネギ、ショウガ、にんにく、ショウガの葉、香菜(シャンツアイ)、荊芥(ケイガイ)、サンショの葉、ハス、ういきょうの茎葉、草果の粉(シーサンパンナ独特のスパイス。ショウガ科シャクシュ属)、コショウ、食塩、醤油、紹興酒など10種以上がごく普通に使われていた。

このように書くとまるでハーブの固まりのようだが、レモングラスがかなり多く使われているので、鼻をくすぐるようなさわやかな香りとさっぱりとした味が淡泊な川魚の身に食い込んで、なんともご飯がすすんでしまうのであった。また香料のコーティングがあまりに大量なためか、見た目より食べるところが少ない、というのも特徴といえるだろう。

 さすがに昆明の市場ではこの料理は見なかったが、昆明郊外の雲南民族村(雲南省内に住む少数民族の人々の生活を伝えるというテーマパーク。現地で歌舞に優れて選ばれた人々が居住している。)で食べることができた。

 またシーサンパンナに2週間ほど滞在したときは、すっかりとりこになって、気がつくと、ほぼ毎日、餅米の蒸したものとともに、食べ続けていた。まだマラリアが風土病として色濃く残る地域でもあるので、殺菌作用があり、消化も促進するこのハーブの固まりのような料理は、健康維持のためには最良な食事でもあったのだ。

 シーサンパンナの市場を行くと、そこら中でタイ族の民族衣装を日常着として身につけたおばさんがレモングラスでぐるぐる巻きにした魚を携えては道ばたに座り込み、ハーブで下味をつけた魚を桶に入れ、ホーロー製の洗面器に炭火を置いて、その上でこの魚をあぶっては、売っている。それを買い物客が気軽に買っては、かぶりついていた。日本でいえば鮎の塩焼きの位置にあるようだ。雑草のように生える各種ハーブが効いた一品である。

 ちなみにシーサンパンナ料理でよく使われる草果。独特の香りがあり、以前は森の下草としてそこら中に生えていたらしいが、近年、草果目当ての乱獲と適度に手入れの行き届いた森林が減少しているため、かなり危険な状況にあると昆明植物研究所の黄さんという方から聞いた。
 森の下草のような環境を人為的につくって大量生産をはかるところもあるらしいが、一株ごとに必要な面積が決まっていて、効率はよくないという。また同じ場所で2回目の生産ができないので森を荒らす要因ともなっているそうだ。

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