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スペインとポルトガル68 セビリア⑥

2022-08-28 11:44:59 | Weblog
上は、インディアス古文書館に展示されていた古文書。一目で日本のものだとわかる。
※今回は長めです。古文書好きな方はお読みください。

【徳川家康と伊達政宗】
 インディアス古文書館の展示室までの長い廊下に時折、貴重な古文書がガラスケースに収まって置かれていました。多くが羽根ペンで記されたであろう美しいアルファベット飾り文字の外交文書なのですが、なかに見慣れた毛筆のものが。日本がスペインに送った文書のようです。説明書きには「慶長遣欧使節に関するもの」とありました。
「慶長遣欧使節」とは伊達政宗が家臣の支倉常長らをひそかにスペインに派遣した交渉団です。出航した日は慶長18年9月(1613年6月)、場所は宮城県石巻市月の浦でした。
 しかし、文書をよく見ると慶長14年12月28日となっています。慶長遣欧使節団が派遣される4年前です。そしてこの文書を発行した人は英語の解説によると、伊達政宗ではなく徳川家康です。
 あれ、なんかおかしいな、とそのときに思ったのですが、日本の草書体の古文書を読み解くスキルがなかったので、その疑問は日本に帰ってからの宿題としました。



【古文書に書かれたもの】
 まず、古文書の知識を得ようと近所の市民講座に1年通ってはみたものの、すらすら読むのは難しい。やがてコロナ禍で講座自体が消滅。
 そこでともかく読める単語を拾い出してみることにしました。
「呂宋國」「日本」「慶長14年12月28日」が読めます。
 「呂宋國」はルソン国。現在のフィリピンの首都マニラにあって、スペインが征服したメキシコからのガリオン貿易の中継基地となっていました。
 となると、これは朱印船貿易の許可証?

 ネットで他の文書と比較すると、徳川幕府がそのころに発給した朱印船貿易の許可証は、とてもシンプルな文体で、しかも楷書で読みやすいものばかり。   となると、それではない。

 次に書いてある日付をそのまま打ち込んでみました。すると外務省のサイトで外交史料館というページがヒットしました(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/page5_000241.html)

 ここには、この文書の写しがそのまま掲載されていて、
「慶長14年12月28日(1610年1月22日)付の徳川家康からレルマ公爵((Duque de Lerma)スペイン国王の寵臣)に宛てられた書状」で
「スペイン船の日本への渡航を許可したもの」だとわかりました。

この文章に宣教師ルイス「ソテロ」の名前が書かれていて「彼はこの後、伊達政宗と出会い、慶長遣欧使節の一員として、支倉常長に同行し、スペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウロ5世(PaulusV)に謁見しました。」(同サイトより)
 最後に押されたハンコは「源家康忠恕」と彫られた朱印だと、他の論文を読んでわかりました。
 残念ながら文書の読み下し文は見つからなかったのですが、流れはこうです。
 徳川家康がルイス・ソテロに謁見し、スペインと友好と通商のための協定を結ぶためにソテロをスペインに派遣することが定められ、
「フェリペ3世の宰相レルマ大公宛てに、対ヌエバ・エスパーニャ貿易の樹立とソテロの通商交渉全権大使を表明する朱印状(慶長14年12月28日付)が準備され」たのです。
(柳沼孝一郎「東西交流の起源:大航海時代のイベロアメリカとアジア 16・17世紀における日本とイベロアメリカ」『神田外語大学紀要』2014年3月)

 ということは伊達政宗と関係する前にルイス・ソテロは徳川家康と会って、スペインの外交交渉の全権大使の命を受け、その文書がスペインに渡っていた! その後、ソテロは家康との関係を悪化させ、次に脈のありそうな伊達政宗のもとに。そして徳川の文書が発行された4年後に、伊達政宗の命を受けた支倉常長(はせくら つねなが)とソテロがスペインとの交渉に向かったのです。結局、このミッションは失敗しますが、こんな文書が届いたあとでは、どんなに支倉が交渉を頑張っても、うまくいかなかったのは必定でしょう。
 上記の文書はソテロが関係していたためか、日本とスペインの共同推薦のもと2013年6月に「慶長遣欧使節関係資料」として世界記憶遺産に登録されました。

 ちなみに伊達政宗が送った書状(セビリア市、イスパニア国王、ローマ法王宛て)は、すべて政宗自身が「慶長18年9月4日、伊達陸奥守政宗」と書いてから花押をいれ、押印をし、白紙で支倉に託したそうです。いずれも金粉を散りばめた分厚い和紙でした
〔太田尚樹『支倉常長遣欧使節もうひとつの遺産』山川出版社、2013年8月〕
 それらは現在、セビリヤ市文書館やバレンシア文書館に保存されているそうです。〔堀叡「海外所在の日本歴史史料について(Ⅰ)」『東京工芸大学紀要 Vol.10,No.2』(1987) 〕
 
 ともかく、私としてはインディアス古文書館に飾られていた日本の文書に「慶長遣欧使節に関するもの」と書かれていたのは(世界遺産に登録されるときに一緒にまとめられてしまったものの)、じつは慶長遣欧使節とは関係のない、徳川家康の文書だったことがわかり、一人、納得したのでした。
(次はカルモナへ。)
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スペインとポルトガル67 セビリヤ⑤ インディアス古文書館

2022-08-21 17:28:25 | Weblog
写真上は、インディアス古文書館の外観。周囲は世界遺産がまとまってあるので、早朝から馬車が並んで、観光客を待っていた。

【静かな世界遺産】
 インディアス古文書館(Archivo General de Indias)も世界遺産です。アルカサールと大聖堂の間にあり、お隣という近さ。ほんのちょっとの距離なのに、お昼を食べ午後一番に行くと、日差しギラギラの暑さのせいかほとんど人影がありませんでした。

 ここはフェリペ2世の命令で1572年に商品取引所として開設され、1784年からは新大陸に関する文書を集める専門館となりました。当時の貴重な古文書が全長8キロ、800万ページに及ぶ規模で保存されています。外からもおしゃれな保存棚の一部を見ることはできましたが、専門家たちが集う閲覧所にはいかず、だれでも自由に無料で見ることができる展示室に向かいました。

【「旅する食物」展】
 大航海時代をいろどった冒険家たちの肖像画や船の説明が続いた後に、ちょうど企画展としてやっていたのが「旅する食物(TRAVELLING FOOD)」でした。

 まず、大航海時代の船に積まれていたブドウ、ワイン、塩や酢漬けの魚、干し魚、酒をしみ込ませたスポンジケーキなどなどの絵と解説版が続きます。
次に新大陸にスペインがもたらした食物。中央アジア由来だけど古代エジプトの時代から使われていたにんにくや、オリーブ、レモン。

さらに新大陸からスペインが発見して、その後、アジアやアフリカにも伝わったものとして、インゲンマメ、トウモロコシ、カボチャ、各種トウガラシ、パプリカ、サツマイモ、トマトが絵とプラスチックでできた模造品や本物の作物とともに解説されていました。当時の発見者のメモや報告書の直筆、挿絵などが見られるのは、文書館ならではです。

 それにしてもアメリカ大陸からきたもののインパクトのほうが大きいのに、まずスペインがそちらにもたらしたもの、から入るのだなあ、というのが率直な感想。

 アジアからスペインが持ち込んだもののコーナーがありました。こちらは「旧世界」と表示があります。(アメリカ大陸はだから「新」大陸で、当時の人々は、自分の知っている範囲の世界をこれ以上の成長のない、「古い」と感じていた、と解説がされていました。)

 まずスペインが統治したフィリピンの物産が並びます。
 ココナッツ、カカオ豆、ビンロウ、胡椒。これらの生産をフィリピンのマニラで行ったことが書かれています。
 カカオ豆はアメリカ大陸原産のものをスペイン人がフィリピンに持ち込んで生産したのですが、そんな説明は一言もなく、当たり前のようにアジア原産のものと同じ場所に並んでいます。うーん。

 さらにジャックフルーツ、ヤム芋、マンゴー、お米粒、稲、緑豆、ショウガ、コショウ、チョウジ(クローブ)、シナモンなど中東、アジアから交易で得たもの。これらは「旧大陸から旅した食物」と名付けられていました。
パパイヤはヨーロッパ人が発見し、アメリカ大陸に持ち込んだときには、当地でもすでに広まっていた、などの説明もありました。

 こうしてみると日本人の私としては、圧倒的にアメリカ大陸原産の作物に注目してしまいますが、スペイン人は、トマトや唐辛子などの作物と同等のインパクトを東からの作物から受けていることに改めて驚きました。
 そもそも大航海時代のはじまりはアジアの香辛料を求めてはじまった、と歴史で習ったというのに、はっきりと体感できていなかった!
 いろいろ植民地時代の宗主国側の考えも無造作に並んでいる分、わかることも多かったです。
 古文書館、おすすめです。
(次週もインディアス古文書館で、日本の古文書の話です)
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スペインとポルトガル66 セビリア④ ヒラルダの塔

2022-08-07 14:18:17 | Weblog
夕暮れのセビリア大聖堂(左)とヒラルダの塔(右)。

【アンダルシア、歴史の重層の上に立つ】
もう一つ、印象に残ったのは大聖堂の北側にそびえたつヒラルダの塔。高さ97メートルある塔の内部を徒歩で上がることができるのですが、それが階段ではなく石のスロープなのです。「登りやすい」と感想を持たれる方もおられるようですが、私にとってはつるつるして、たまに足くびの負担を和らげたいと思っても、ずっと同じ角度の勾配に足を置くことになり「これはまいった」となりました。
ところが、世界各地から来られたお年を召した方々も頑張って登っているのでギブアップもできず。たまに降りてくる人から「がんばってね! まだまだあるわよ」と英語で声を掛けられ、途中、景色を見る余裕はありませんでした。ここがスロープなのは、騎馬で駆ける場合を想定してあるためなのだそう。塔の中を騎馬、私にとっては規格外の発想です。
 塔はそもそもローマ人が築いた土台を利用してムーア人がイスラムの礼拝を呼びかけるミナレット(尖塔)として12世紀末に建設したもの。彼らはよほど騎馬技術にすぐれていたのでしょう。その後、1620年にその上にキリスト教の鐘楼をかぶせて、現在の塔が完成しました。アンダルシアの複雑な歴史を感じます。
そうそう、最上階からはセビリアの街が一望できます。

※次週の更新はお休みします。酷暑の夏となっております。少し生活のペースを落として夏を乗り越えたいです。
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