雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)14

2018-03-25 12:40:23 | Weblog
写真は、昆明の街角で買った絲窩糖。いっけん、大ぶりなのだが、口に含むと、ふわりと溶ける。

【トルコのシルクキャンディー】
これまでの話の流れから考えると、イスラム圏にシルクキャンディーがあれば、回族由来説に説得力が増すことになります。よく伸びるトルコアイスなど不思議なスイーツが存在する地域、いかにもありそうです。

調べると、トルコにピシマニエ、という、ほぼ、同様なお菓子がありました。こちらは、原料は氷砂糖、伸ばすときには焦がした小麦粉と溶かしバターをまぶしていきますが、仕上がりは同じです。由来的には麦芽で作っていた可能性はありえます。
(ユーチューブにパート4まで作っている様子がアップされています。yahoo知恵袋に2012年の質問の投稿がありました。)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488688704
http://www.youtube.com/watch?v=gr7IrdrW8zM&feature=relmfu

ともかく大の男たちが、かわいいエプロンをつけて、集団でもくもくと生地を練り、伸ばし続ける、たいへん手間のかかるスイーツ、ということがわかります。日本の餅つき、のような位置づけなのでしょう。

【まとめ】
まとめると、まったく同じ形状のお菓子はイスラム圏にも存在し、それが中国にも伝わった。宋代もしくは清の皇帝が口にし、宮廷でも出されると、一気に民間の各地で親しまれるようになりました。

一方で、文献をひもとくともっと古くから中国に存在していた可能性も指摘できます。

春秋戦国時代の南方の詩を集めた【楚辞】に同様のお菓子が出ていると解釈でますが、はっきりとシルクキャンディーだと照合できる注釈がついているのが後漢の王逸によるもの。楚辞の書かれた時代の紀元前からあったかどうかは不明ですが、後漢には同様の菓子があったとはいえそうです。ちなみに漢の時代も西域との交通は盛んに行われていたので、西方から伝わった菓子であったのかもしれません。

 憂国の気分を有した歴史あるお菓子、シルクキャンディー。中国や台湾などの中華圏の街角で行き会うことも多いお菓子なので、在りし日を思い描いて口に含むと、やさしい、ほっとする風味が口中にふくらむことでしょう。
(この章、おわり)
※長くなりました。最後までお読みくださり、ありがとうございました。次回は最新の旅行記です。
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雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)13

2018-03-10 11:42:07 | Weblog

写真は日本で行われた満漢全席のつどいのデザートに出されたいちごの仙草ゼリーとタピオカのデザート。満漢全席は清の時代に皇帝主催でその時代の漢人と満州および各民族の最高に(手間のかかる)料理を集めた集い。その内容も残されている。甘いデザートは重要な位置を占めている。

【満漢全席にも】
 一方、雍正帝は清の名君の一人。
ウィキペディアの「龍のひげ飴」という日本語の項目があったので、転載しますと、

「あるとき清の雍正帝が文武百官を宴席に招き満漢全席をふるまうことにした。それを宮廷料理人に命じた皇帝が調理場をのぞいてみると、まさにこの菓子を作っているときで、料理人の手中で糸状になった雪白の砂糖が風に舞う龍のごとく引き伸ばされており、

 その繊細な様がまるで吉祥を告げる龍の鬚に思えたので、皇帝は顔に菓子を張り付けて「龍になった」とたいそう喜び、皇妃から女官や臣下に到るまで大いにふるまった。

 それとともにこの特別な菓子を”龍鬚糖(龍のひげ飴)”と命名したのである。以来、この飴菓子の美しい名前は長江の境を越えて中国全土に広まったという。」

 別名「皇帝点心」とも。この話の元ネタとなる文献が見当たらないのですが、話としてはおもしろいですね。そもそも厳格な勤勉家としてしられる雍正帝におちゃめな伝説がある、と言うこと自体が珍しい話です。

 皇帝の料理人にシルクキャンディーの作り手がいたとなると、彼の出自が気になります。漢民族に伝わった料理なのか、西方の対外工作にも熱心だった時代を反映して、西方の料理人がいたのか、ということで、龍のひげ飴の由来が変わります。いずれにせよ、満州民族の雍正帝にとっては新鮮な食べ物だったことは伝わります。

 また、さらに移住時期にも興味深い事実が。

雲南・昭通のシルクキャンディが1730年(雍正八年)に清朝武官の蔡家地(サイジャディ)の馬姓の祖先である馬鱗燦公、馬鱗熾公が戦功によって、拖姑村に来たことがはじまり、となると、雍正帝がこのお菓子の普及に関わっているという逸話にもなにやら信憑性が出てきます。

 ちなみに香港の新聞のコラムには「龍髭糖」は宋代の皇帝が愛し、広まったと書かれています。民間には「麵線糖」の名前で親しまれていたとも。
(http://hknews.hksyu.edu/index.php/%E9%BE%8D%E9%AC%9A%E7%B3%96)

いずれにせよ、中国の西方のお菓子が回族から伝わった、という方向でこれらの説は書かれていることがわかります。  (つづく)

※次週の更新はお休みします。もう少しでこの章の全貌が表れます。いま、しばらくおつきあいください。
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雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)12 中国でポピュラーな名称発表

2018-03-04 11:05:53 | Weblog
香港の街角にて。ねこがいっぱいいるが、いすれも美ねこ。香港はさまざまな由来のお菓子であふれている。台湾や香港で、観光客が撮った「龍髭糖」の映像が作り方がおもしろいために、いっぱい見つかる。

【龍のひげ飴】
いろいろと調べていると、雲南では絲窩糖と呼ばれ、かつて明末清初の文人が窩絲糖と呼んだお菓子とまったく同じものが「龍髭糖」との名称で香港や北京周辺で売られていることがわかりました。

台湾など華僑系の文化圏ではむしろポピュラーなのがこの名称です。

「龍髭糖」(龍のひげ飴)のウィキペディアによると、新疆自治区の特産品で、明の正徳帝(1505年~1521年)の時代に広まったという説と清の雍正帝(1722年~1735年)に広められたという説があるということです。

正徳帝は明の11代皇帝で明国を傾けるほど遊興にふけった皇帝。以後、国は疲弊の一途をたどり、ついに滅亡します。

彼には馬氏という側室がいました。

延綏(陝西省楡林市)で軍政についていた馬昂の妹だった女性なので、回族の人で彼女の好んだお菓子だった、とも考えられます。
(つづく)
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