写真は江川で捕れた魚の乾物。江川はかつては杞麓湖の北岸(今は湖の後退で若干距離あり)、中国第2の水深を誇る撫仙湖の南にある星雲湖の南岸にあり、豊富で質のよい魚が捕れることで、雲南では知られている。ただ、近年は漁獲量も減り、江川の魚と書かれていても、雲南以外の魚を加工して市場で売られることもあるとのこと。
【交通を閉ざし、生きのびる】
しかし、なぜ、他のモンゴル族が各民族に吸収されていく中で、この通海の杞麓湖畔だけモンゴル族の看板を下ろさずに今までこられたのでしょう。
それには杞麓湖の面積と交通手段の変遷も関係します。
村から山一つ隔てた曲陀関には雲南の北と南をつなぐ交通の要衝として歴代、軍事拠点が置かれていました。
じつは甘酒街道ともなっている曲陀関は今でこそ現在の蒙古郷とは山一つ隔てた距離となっていますが、元の時代には杞麓湖の面積が広く、その畔にあったのです。そして当時は陸上交通だけでなく、南北両岸に江川、華寧、通海、河西、玉渓、峨山、臨安路を控えた水上交通の要衝でもあったのでした。
そのためこの地に雲南行省(雲南全域と貴州、四川、広西の一部、タイ、ミャンマーの北部までを管轄した元代の行政区画の一つ。)内に10箇所設けられた最高軍政機関の宣慰司(雲南を統括する行省と地方行政を細かく司る郡県の中間にあたる機関、曲陀関は滇南最大だった)を置くこととなり、元の阿喇帖木児(アラティムール)がその任にあたりました。興蒙蒙古族郷の人々はその子孫だということです。
阿喇帖木児(アラティムール)がどのような人物だったかを調べてみたのですが、曲陀関にある、彼の子孫が清の嘉慶11年(1807年)に設置した彼の墓志以外の手がかりはありませんでした。(あとは墓志を転載した『河西県志』など)
内容も
「原籍は蒙古。元が中国に進出する際に中国入りし、陝西の長安県で官に就き、その後、フビライに従って雲南に行き、戦闘に従事し、至元20年(1283年・つまりサイード・シャムスッディーンが亡くなって4年後)に曲陀関元帥府が曲陀関に設置され、宣慰司に命ぜられ、しょっちゅう起こっていたイ族の反乱を鎮め、人文の気風も広めた。2世以下もよくこの地を治めた」
といった程度の事ぐらいしかわかりません。
彼の身分も「右旃」とはあるものの、この単語で検索しても、出てくるのは、彼一人のみ。しかも元代は身分制度がそれほど厳格ではないので、箔付けに、「旃(戦闘用の旗)の右の人(左の方が身分が上)」という身分が用いられていた、その身分に彼の子孫は誇りを持っていた、ということしかわからないのでした。
やがて元末期に明軍が雲南に攻め込んだ時、曲陀関でも激戦があり、戦火で何もかもが消失、元軍は大敗を喫します。それでもなお、元の貴族身分の人達は頑強に抵抗を続け、明軍に重大な損失を与えたため、明の朱元璋が激怒し、「元軍、一兵たりとも逃さず」との命令を下します。
その方針に沿って明軍はモンゴル族の家族、幼児たりとも逃さず、大量殺戮をすることとなりました。そんな中、曲陀関では、周辺の山林や杞麓湖の芦に紛れて魚を捕って隠れ住むことに成功。その後、湖畔に集まってモンゴル族の村をつくって湖の縮小と交通手段の変化で、交通の閉ざされた村として今までモンゴル族として保つことができたのでした。 (つづく)
*次週の更新はお休みとなるかもしれません。
【交通を閉ざし、生きのびる】
しかし、なぜ、他のモンゴル族が各民族に吸収されていく中で、この通海の杞麓湖畔だけモンゴル族の看板を下ろさずに今までこられたのでしょう。
それには杞麓湖の面積と交通手段の変遷も関係します。
村から山一つ隔てた曲陀関には雲南の北と南をつなぐ交通の要衝として歴代、軍事拠点が置かれていました。
じつは甘酒街道ともなっている曲陀関は今でこそ現在の蒙古郷とは山一つ隔てた距離となっていますが、元の時代には杞麓湖の面積が広く、その畔にあったのです。そして当時は陸上交通だけでなく、南北両岸に江川、華寧、通海、河西、玉渓、峨山、臨安路を控えた水上交通の要衝でもあったのでした。
そのためこの地に雲南行省(雲南全域と貴州、四川、広西の一部、タイ、ミャンマーの北部までを管轄した元代の行政区画の一つ。)内に10箇所設けられた最高軍政機関の宣慰司(雲南を統括する行省と地方行政を細かく司る郡県の中間にあたる機関、曲陀関は滇南最大だった)を置くこととなり、元の阿喇帖木児(アラティムール)がその任にあたりました。興蒙蒙古族郷の人々はその子孫だということです。
阿喇帖木児(アラティムール)がどのような人物だったかを調べてみたのですが、曲陀関にある、彼の子孫が清の嘉慶11年(1807年)に設置した彼の墓志以外の手がかりはありませんでした。(あとは墓志を転載した『河西県志』など)
内容も
「原籍は蒙古。元が中国に進出する際に中国入りし、陝西の長安県で官に就き、その後、フビライに従って雲南に行き、戦闘に従事し、至元20年(1283年・つまりサイード・シャムスッディーンが亡くなって4年後)に曲陀関元帥府が曲陀関に設置され、宣慰司に命ぜられ、しょっちゅう起こっていたイ族の反乱を鎮め、人文の気風も広めた。2世以下もよくこの地を治めた」
といった程度の事ぐらいしかわかりません。
彼の身分も「右旃」とはあるものの、この単語で検索しても、出てくるのは、彼一人のみ。しかも元代は身分制度がそれほど厳格ではないので、箔付けに、「旃(戦闘用の旗)の右の人(左の方が身分が上)」という身分が用いられていた、その身分に彼の子孫は誇りを持っていた、ということしかわからないのでした。
やがて元末期に明軍が雲南に攻め込んだ時、曲陀関でも激戦があり、戦火で何もかもが消失、元軍は大敗を喫します。それでもなお、元の貴族身分の人達は頑強に抵抗を続け、明軍に重大な損失を与えたため、明の朱元璋が激怒し、「元軍、一兵たりとも逃さず」との命令を下します。
その方針に沿って明軍はモンゴル族の家族、幼児たりとも逃さず、大量殺戮をすることとなりました。そんな中、曲陀関では、周辺の山林や杞麓湖の芦に紛れて魚を捕って隠れ住むことに成功。その後、湖畔に集まってモンゴル族の村をつくって湖の縮小と交通手段の変化で、交通の閉ざされた村として今までモンゴル族として保つことができたのでした。 (つづく)
*次週の更新はお休みとなるかもしれません。