雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

通海の民族⑤ モンゴル族

2014-05-30 10:24:45 | Weblog
写真は江川で捕れた魚の乾物。江川はかつては杞麓湖の北岸(今は湖の後退で若干距離あり)、中国第2の水深を誇る撫仙湖の南にある星雲湖の南岸にあり、豊富で質のよい魚が捕れることで、雲南では知られている。ただ、近年は漁獲量も減り、江川の魚と書かれていても、雲南以外の魚を加工して市場で売られることもあるとのこと。

【交通を閉ざし、生きのびる】
しかし、なぜ、他のモンゴル族が各民族に吸収されていく中で、この通海の杞麓湖畔だけモンゴル族の看板を下ろさずに今までこられたのでしょう。
それには杞麓湖の面積と交通手段の変遷も関係します。

村から山一つ隔てた曲陀関には雲南の北と南をつなぐ交通の要衝として歴代、軍事拠点が置かれていました。
じつは甘酒街道ともなっている曲陀関は今でこそ現在の蒙古郷とは山一つ隔てた距離となっていますが、元の時代には杞麓湖の面積が広く、その畔にあったのです。そして当時は陸上交通だけでなく、南北両岸に江川、華寧、通海、河西、玉渓、峨山、臨安路を控えた水上交通の要衝でもあったのでした。

そのためこの地に雲南行省(雲南全域と貴州、四川、広西の一部、タイ、ミャンマーの北部までを管轄した元代の行政区画の一つ。)内に10箇所設けられた最高軍政機関の宣慰司(雲南を統括する行省と地方行政を細かく司る郡県の中間にあたる機関、曲陀関は滇南最大だった)を置くこととなり、元の阿喇帖木児(アラティムール)がその任にあたりました。興蒙蒙古族郷の人々はその子孫だということです。

阿喇帖木児(アラティムール)がどのような人物だったかを調べてみたのですが、曲陀関にある、彼の子孫が清の嘉慶11年(1807年)に設置した彼の墓志以外の手がかりはありませんでした。(あとは墓志を転載した『河西県志』など)

内容も

「原籍は蒙古。元が中国に進出する際に中国入りし、陝西の長安県で官に就き、その後、フビライに従って雲南に行き、戦闘に従事し、至元20年(1283年・つまりサイード・シャムスッディーンが亡くなって4年後)に曲陀関元帥府が曲陀関に設置され、宣慰司に命ぜられ、しょっちゅう起こっていたイ族の反乱を鎮め、人文の気風も広めた。2世以下もよくこの地を治めた」
といった程度の事ぐらいしかわかりません。

彼の身分も「右旃」とはあるものの、この単語で検索しても、出てくるのは、彼一人のみ。しかも元代は身分制度がそれほど厳格ではないので、箔付けに、「旃(戦闘用の旗)の右の人(左の方が身分が上)」という身分が用いられていた、その身分に彼の子孫は誇りを持っていた、ということしかわからないのでした。

 やがて元末期に明軍が雲南に攻め込んだ時、曲陀関でも激戦があり、戦火で何もかもが消失、元軍は大敗を喫します。それでもなお、元の貴族身分の人達は頑強に抵抗を続け、明軍に重大な損失を与えたため、明の朱元璋が激怒し、「元軍、一兵たりとも逃さず」との命令を下します。

その方針に沿って明軍はモンゴル族の家族、幼児たりとも逃さず、大量殺戮をすることとなりました。そんな中、曲陀関では、周辺の山林や杞麓湖の芦に紛れて魚を捕って隠れ住むことに成功。その後、湖畔に集まってモンゴル族の村をつくって湖の縮小と交通手段の変化で、交通の閉ざされた村として今までモンゴル族として保つことができたのでした。    (つづく)

*次週の更新はお休みとなるかもしれません。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通海の民族④

2014-05-25 11:34:39 | Weblog
写真はチンギス・ハンの時代よりモンゴル族で重用されたゲルの乗り物。家に車を付けて、そのまま移動した。今のトレーラーハウスのようなもの。ただ、この車を普段使いするためには、幹線道路の整備がかかせないはず。元の時代には雲南だけで483,335畝(約48平方キロメートル:練馬区と同じ面積。)を屯田し、雲南の歴史上、最初の大規模屯田が行われた。元は帝国を作り上げるにあたり、土木事業もかなり精力的に行い、現在の中国(少なくとも雲南)の土木、灌漑の基礎を築いた。(2010年の上海万博のモンゴル館にて撮影。モンゴル館のお隣は北朝鮮館。5時間待ちの館も多いなかで、この二つはガラガラだった。)
参考:方鉄「元代雲南行省的農業与農業概説」(雲南大学で2,003年に行われた「中国蒙古族歴史与文化国際学術検討会」より)

【内蒙古自治区と雲南】
興蒙蒙古族郷はモンゴル族が集中する雲南では珍しいところではあっても、モンゴル族としての特徴はほとんど残っていません。

伝統的服装はイ族の服に苗族風の銀の丸いコインのような首飾り、黒い布で巻いた頭巾はやはりイ族風といった近隣の民族衣装の混合。モンゴル語を解することはできず、雲南語が中心。ただ、専門家の調査によると、短い単語の端々に古モンゴル語が混じっているそうです。
(内蒙古大学白音門徳教授、雲南大学方鉄教授の合同調査によると「鼓、馬、路」などの言葉が古モンゴル語の発音なのだとか。婦人服では高い襟、尖って湾曲した靴先、木彫の花の図案がモンゴル族のものと同じとのこと。)

 10年ほど前にこの村の人々がはるばる内蒙古自治区まで訪ねていき、内蒙古の人々に熱狂的に歓待されました。雲南に限らず、多くの地域でモンゴル族が地元の民族に転化していった中で、モンゴル族としての看板を掲げて生き続けてきた奇跡への賞賛でしょう。内蒙古大学蒙古研究センター他内蒙古自治区の各セクションがモンゴル族の孤島のように残った通海を大切に扱い、文化交流を積極的に行っています。

 以前、内モンゴル自治区のモンゴル語放送で「雲南のモンゴル族を訪ねる」という特集が数度にわたって組まれたことがありました。
 通海の村にも焦点が当てられ、黒ジャンバーのモンゴル語を話す男性レポーターがマイクを持って、うれしそうに村を訪れています。

「蒙古族の村です」というレポーター。着慣れたイ族風の衣装をつけた村のおばあさんが足のつかないソファに座る横で、レポーターは一方的にモンゴル語で話しかけます。おばあさんは返す言葉もなく、無表情に座り続けています。モンゴル語がわからないからなのでしょうが、そんなことにレポーターは頓着しません。

また、どうみても雲南のごく普通の料理の前で
「すばらしい料理です。これもモンゴル風情でしょうか?」などと(おそらく)」紹介。モンゴル語放送なので、よくはわからないのですが、なんとも珍妙な風景が繰り広げられる番組でした。
(雲南蒙古人家VAO http://v.youku.com/v_show/id_XNjcwNDM3NDEy.html?f=21877659)
(つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通海の民族③

2014-05-17 15:39:53 | Weblog

写真は昆明市郊外に元のクビライの時代にクビライの命を受けて雲南統治を行ったサイード・シャムスッディーン指揮で完成した龍川橋と松華坝ダム。橋の横に建てられた石版にも「至元年間に創建された」と書かれている。
元代の構造物としては街の構造や灌漑設備の重要部分に今に受け継がれるほど、重要な施設を作っていたため、残っているが、遺跡な文化施設は驚くほど残されていない。
明代に徹底的に元の遺物が排除され、破壊されつくしたかが想像される。

【雲南唯一のモンゴル村】
興蒙蒙古族郷は海抜1800メートル、年平均気温15.6度。

興蒙蒙古族郷という名称は1988年に付けられました。それ以前は興蒙郷、1949年以前は漁夫村と呼ばれていました。1830戸、5631人が暮らす中で、モンゴル族は5391人。約96%を占めています。おそらく、モンゴル族ではない人は嫁いできた女性ぐらいなのではないでしょうか?

モンゴル族特有の婚礼や歌舞、三杯杯酒やバーベキューなどモンゴル文化が残る村には雲南にありがちな少数民族風情を売り物にしたテーマパーク的観光村はなく、ごく普通に日々の営みが行われています。

また昨年12月14日には、雲南省民族学会蒙古族研究会と内モンゴル自治区にある錫林郭勒職業学院と興蒙郷政府の共催で、
「蒙古人歴滇760周年」
を記念したお祭りが盛大に開かれました。
760年前とは、モンゴル軍のフビライが雲南を征服にきた日です。モンゴル人以外にとっては微妙なお祭りといえましょう。

雲南と内モンゴル自治区、中国の最南と最北で地図を頭に描くと、とても遠い場所ですが、今も残る茶馬古道など騎馬ルートで昔から交易路で繋がっていたところで、心理的な距離は上海などの沿海地区よりずっと近いのでしょう。今もなお、深いつながりがあることが祭りの挙行からも伺えます。

ちなみに行われた行事は、
・「チンギスハーンの祭典儀式」
・「蘇魯錠落成儀式」
など。
 蘇魯錠とはチンギスハンの権威をあらわすモンゴル族の長矛のこと。これを大通りにモニュメントとして設置。高さは10メートルほど。蘇魯錠は日本語で『スルデ』と読めますが、スルデをインターネットの検索をすると、モンゴル族の霊旗、モンゴルの楽器に使うバチ、守護精霊など、さまざまな日本語訳がでてきます。モンゴル族の精神に深くかかわるもののようです。

(参考ウェブ:通海県興蒙郷http://xxgk.yn.gov.cn/zmb/newsview.aspx?id=2615713)
百度百科:興蒙蒙古族郷http://baike.baidu.com/view/3043366.htm?fromtitle=%E5%85%B4%E8%92%99%E4%B9%A1&fromid=2523578&type=syn)
(つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通海の民族②

2014-05-10 14:26:49 | Weblog
写真は四川方面から禄豊・広通鎮へと向かい昆明ー大理間の鉄道線に入るまでの支線の列車内の様子。楚雄イ族自治州内に引かれた列車なのだが、イ族の人というよりも漢族、苗族、白族などさまざまな民族の人が列車で席を同じくしている。明らかに民族衣装の人もいれば、若者はジーンズ、お年寄りはくすんだペラペラの背広の人が多かった。髪型にじゃっかん、各民族間の差異が感じられることも。(2004年2月撮影)

【落人の里】
 通海県の中でもう一つ、特色のある街として紹介される興蒙郷は、「蒙」とつくことから分かるように蒙古、つまりモンゴル族の村。元代にモンゴル高原から支配者層としてモンゴル軍の貴族・兵士とその家族が移住しました。その後裔が暮らしているところです。

 元末明初、モンゴル軍の拠点の一つであった現在、「甘酒街道」で知られる曲陀関に明軍が襲いかかり、壮麗な寺院や行政機関が破壊されました。
 この時、この地のモンゴル軍は蒙古高原に戻るタイミングに間に合わず、曲陀関から山一つ越えた湖・杞麓湖畔で慣れない漁業に従事することになりました。そして今日まで風習を守りつつ生き抜いたのです。日本でいうところの平家落人の里のようですね。

 ちなみにモンゴル軍の大半は遊牧民という民族性もあるのか明軍に勝てないとなると、さっさと大半は蒙古高原に戻っていきました。

 もちろん、通海県以外の地域にもモンゴル高原に戻りそびれたモンゴル軍は当然、ありました。しかし彼らは長い年月の間に周辺の各民族と融合していき、モンゴル族と名乗ることもなくなっていったのです。

 たとえば、麗江の納西族の「元」姓だった人、「元」からのちに「和」姓となった人は元モンゴル族で後に納西族に同化(清の時代の調査による)、曲靖市、昭通市威信県、貴州省華節地区の「余」姓はかつて「テムジン」つまりチンギス・ハーンの子孫と言われている人ですが、モンゴル族と名乗る人はほとんどなく、モンゴル語も話さず、服も地元の人と同じものを着ている調査があります。

 そんな中で、興蒙蒙古族郷にはモンゴル族と自覚を持つ人々が集中的に移り住み、現在では雲南唯一のモンゴル族の村となっています。興蒙郷各村あわせて数千人のモンゴル族が住む、雲南では珍しい場所なのです。よほどモンゴル族としての誇りが高く、と堅固な思想の持ち主(頑固者?)の人々だったのか、と感嘆しないわけにはいきません。

(参考文献:楊徳華『雲南民族関係簡史』雲南人民出版社、2011年)   (つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲南の回族Ⅱ 通海の民族①

2014-05-03 18:10:39 | Weblog
写真は雲南の大根。土が赤いので大根も赤く見えるが、洗えば白い。ジューシーでおいしい。(2008年8月蒙自の市場にて撮影)

【雲南の回族Ⅱ・通海の特殊性】
 特色ある村を旅する中国中央テレビの番組などで、時折、通海の2つの村が紹介されます。一つは古くからの回族の風情が注目される村・通海県納古鎮納家営。そしてもう一つは蒙古族が集まる村・通海県河西鎮新蒙郷です。

納家営は12平方キロメートル。人口8000人あまりの村では中国の改革開放が始まったころ、いち早く手工業を生かして、様々な刀剣や馬具製造の知識を生かした加工品がつくられる工場が建ち並びました。村人の多くが軍用品工場に関わっていたことがあり、そのような工場がいまでは400以上もあるとのこと。

村の名は「納」の家の営。
元代にフビライ・ハーン直々の要請で雲南に赴いたサイード・シャムスッディーンの長男ナスラーディン(納速攞丁)の直系の孫ナスル(納数魯)の4人の子どもである納栄、納華、納富、納貴が家を構えたところなので「納家」。
 「営」は宿営地つまり、軍事的な拠点であったという意味です。ちなみに昆明を歩くと「営」と名の付く地名が多くあることに気づきます。営の付く通りなどには名将軍の住居跡だ、という歴史板が設置されていることも。
 雲南には数多い宿営地、屯田地が存在していたことを地名が物語っています。

 さて、テレビを見ると白い帽子を被り、やや青みがかった目をした老人が羊肉の料理をしていたり、孫の世話をする枯れた風景が映し出されたりとおだやかな静かな農村風景が紹介されています。

 けれども実際に村の周辺を行くと、「緑色野菜先進基地」を意味する看板の横に広大な白菜や大根畑が広がり、周辺から収穫され、集められた野菜が平屋の倉庫に収められ、そこから白い帽子を被った回族とおぼしき人が陣頭指揮をとって、各地に配送するトラックに詰める指示を出すといった迫力のある景色が展開していました。

王兵監督のドキュメンタリー映画「三姉妹~雲南の子」
(2012年ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門グランプリ等各賞受賞。日本では2013年5月より公開された)
 で雲南省の山奥・北東部昭通市洗羊塘村に暮らす3姉妹の父親が出稼ぎに出ているところも通海市でした。
 この父親は一旦、洗羊塘村に帰った後、長女のみ村に残し、次女、3女を連れて通海への直通バスに乗って行きます。これはこの父親に限った現象ではなく、通海の回族は外部の人を受け入れ、また常に労働力を求めて外部の人を求めている村だと、雲南省の労働者ならだれもが知っているのです。

 そして通海に来る労働者とは、映画に出てくる父親と同じく、多くが文盲で小学校卒。このような外来人口が7000人以上いるとのことです(2005年時点)つまり、村の二人に一人が外来人口、つまり出稼ぎの人というわけです。

 ここで塩漬けられた大根は日本にも輸出されているそうです。   (つづく)

参考文献:肖芒主編『宣礼声中求索~通海県納古鎮納家営村回族村民日記』中国社会科学出版社、2009年

*通海の甘酒の章は前回で最終回です。最新章をお楽しみいただければ、と思います。
   
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする