写真は蒙自にある江氏兄弟橋香園にて、過橋米線の最後の行程のミーシエンをアツアツの鶏がらスープに入れる瞬間。はたしてミーシエンは椀から椀へと橋のような形に見えるのだろうか・・。
【建水説のつづき】
さて官僚として北方に赴任していた李景椿は、そのころに食べた「肉薄切りのしゃぶしゃぶ鍋」をヒントに、ある料理法を劉料理人に指示しました。
「豚肉を薄切りにし、その肉に地元の粉を練って衣にして、大きな海のようなお椀に入れたら、その上にアツアツの豚のラードをかけてくれ。そうして火を通したら(どうやら薄切り豚肉のぱりぱり揚げらしい:筆者)、すかさずマコモダケの葉でフタをして、その隙間から野菜や新鮮な肉のスープを注ぎ込んでほしい。
また別に一椀、湯がいたミーシエンを用意して、計2椀を同時にテーブルに置いてくだされ」
劉料理人が言われたとおりにすると、さっそく李先生は竹箸でスープを攪拌させ、さっとミーシエンを入れるや、満足そうに食べたのでした。
さて店にきては毎日、そのように食べるので、劉さんも気になり、とうとう、その呼び名を教えてくれるようにと頼みました。
すると李さんは、
「私は鎖龍橋の東から、橋を渡ってミーシエンを食べにくるじゃろ。一方、ミーシエン自体もミーシエンを盛った椀から、スープの椀に入れるときに、橋を越えるようになりますな。人が橋を越え、ミーシエンもまた橋を越えることから、過橋ミーシエンと呼んではいかが」
と箸を休めることもなく答えるのでした。
その後、劉料理人は工夫を重ね、新鮮なみずみずしい肉の方が、衣揚げ肉よりスープの味がよくなったので、直接、生肉をアツアツのスープに投じるようにし、メニューに加えました。
以来、ますます繁盛し、とうとう彼は鶏市街に2層構えの宝興酒楼を構えるまでになったのです。その店の脇にはミーシエンの工場を作り、朝は小椀ミーシエンと過橋ミーシエン、午後からはご飯とおかず、ならびにお酒や宴会も取り仕切る名店として、今日、4代目を数えているのです。
(第四代の劉家厨師で世家伝人である劉世清(一九一七年生まれ)が所蔵する家譜より)
(いつもお読みくださり、ありがとうございます。最近、雲南の明、清時代の資料調査をしています。誰もが行けるはずの国立国会図書館別館東洋文庫に行くと、一日いても利用者は2人。一人は京都弁を話す中国歴史学者の大御所風。それと私。司書のアルバイトの方3人がとても緊張しつつも暇そうにしていて、私がページを繰ると、一緒に頭が揺れる始末。
一瞬、働き盛りのような中高年の研究者がきましたが、複写資料を指定すると、大御所先生に「人事の仕事が忙しくて」と話すと足早に去っていきました。若者は皆無。卒論シーズンなのに。
日本全体がむやみに忙しくなってる今日、真実、研究できる人は、お年寄りぐらいしかいないのが、日本の現状なのかと、少し寂しく思いました。)