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雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南でさかんだった屯牛3 

2015-12-27 11:45:06 | Weblog
シーサンパンナ・景洪で見かけたトラクター。個人の持ち物ではなく、タイ家園という、タイ族が暮らしながら、暮らしを丸ごと展示するという観光施設が管理する持ち物だった。2004年当時は牛のほうがはるかに数が多かった。
トラクターに靴下なしのサンダル履きで運転していたが、牛と違って足でアクセルを踏むのに危険はないのだろうか?

【詔勅だけでも4万頭】
当時、牛は大事な重機とトラック的な存在で、屯田開発にとっては最重要のものだったのでしょう。孫茂に屯牛を買う命令がだされた数日後、以下の命令も下されました。

「景川侯曹震及び四川都指揮使司に精兵2万5000人を選び、軍器農具を支給し、雲南とさらに奥の品甸の地に屯田して征討を待つことを詔する」

(詔景川侯曹震及四川都指揮使司選精兵二萬五千人給軍器農具即雲南品甸之地屯種以俟征討【明の太祖高皇帝実録・巻184より】洪武20年(1387年)8月)

つまり雲南攻略で同地に居残った精兵にプラスして、牛、さらに武具と農具を持たせた精兵が加わることになりました。

さらにたたみかけるように数日後の乙亥の日に雲南には単身赴任している軍士の家族にも一定の金額を支給した上で雲南に兵士の護送つきで送りこむ詔勅が出されました。
銀10両は一般家庭にとっては滅多に手に入らぬ大金です。お金欲しさに雲南に向かった家は、この時期、多かったことでしょう。

(乙亥詔在京軍士戍守雲南者其家屬俱遣詣戍所戶賜白金十兩鈔十錠令所過軍衛相繼護送)

翌月9月乙巳には湖広からも精鋭4万5000人が雲南へ向かう命令が出されました。人が動けば、当然のごとく、牛も動かされます。

「今、家畜牛2万頭をかの屯田の地に行かせ、諸軍に分領させ、雑多な労役を免れた民に送って牛を従わせる」

(今又令市牛二萬往彼屯種、請令諸軍分領、以往、庶免勞民送發、從之【明の太祖高皇帝実録・巻185より】)

詔勅の通りに牛が集まったのかどうかはわかりませんが、ともかく、急ぎ労働用の牛を数万頭単位で雲南に送る光景が目に浮かびます。
(つづく)

※次回はお正月。ブログは正月らしい年明けとはならず、相変わらず、牛が続きます。
牛は力持ちの働き者、正月準備に、一頭、ほしい今日このごろです。
みなさま、よいお年をお迎えください。
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雲南でさかんだった屯牛2 明の移民とともに

2015-12-18 16:39:06 | Weblog
写真は昆明に近い宜良のメインストリートを一本入ったところにつながれていた牛。隣は新鮮な肉を売る市場だが、場は街より外れたところにあるので、この牛は農耕馬だろう。街中で出会う牛は農村の牛に比べて、なぜか目が悲しげだ。

【西へ西への大移動】
 明のはじめごろに四川で大量の牛がいたのか、を知るために当時の四川の状況を調べてみました。

四川がモンゴルの元から、朱元璋の明の勢力下に入ったのが洪武3年(1370年)。

当時、四川の政権の中堅にいた明玉珍という人が書いた族譜には、

明政府は隔年で兵を四川に集めていました。その結果の明の勝利でした。直後より国沿海部より人々が流入して人口が増加した様子が書かれているそうです。

これらを調べた楊文鑫氏の分析によると、

福建省の西寄りにある江西から移民が湖北に大量に流れ、その後湖北から四川に流れていたとのこと。
この大規模な人口移動はこの元末明初の時期だけでなく、約250年後の明末清初でも同じルートで行われたということでした。(※1)

また別の調査を行った林芹氏は、

沿海地区やそのほかの地区から洪武4年(1371年)に四川に人々が移住したが、なかでも湖北湖南付近の人が最多だった、と述べています。(※2)



つまり、雲南に送る牛を買い集めるころの四川は、長い戦乱で荒れ果てた中国沿海地区から西へ西へと流れてきた人々が居着いて17年が経とうとした時でした。

 人々の生活も落ち着き、たとえば移住後に生まれた子どもが立派な耕作人として成長したころ。当然、牛も増え、牛の市も立っていたことでしょう。

このような時期に買い集められた牛は四川土着のものというよりは、やはり中国沿海地区から西へと移動しながら、時にその土地土地の牛を吸収しつつ、漢族が連れ歩いた農耕牛だったと思われます。

※1楊文鑫「洪武的移民湖広」『移民社会与背景』(史碩三編、中央文化大学、91年)
※2林芹「洪武的移民川滇」『移民社会与背景』(史碩三編、中央文化大学、91年)
(つづく)
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雲南でさかんだった屯牛1

2015-12-13 13:09:50 | Weblog
雲南中東部の硯山の牛。ナス科の植物の葉をむしゃむしゃ食べていた。典型的な黄牛と中国で呼ばれる農耕牛だ。

【送り込まれる牛たち】
このように雲南が牛の境界地域となった理由はいくつかあります。

一つは、6000メートル級の山と深い渓谷、という環境面での多様性。また、様々な民族が谷間ごとに暮らしているという雲南ならではの事情。

家畜は人についていき、またその環境に適応していきます。

さらにはっきりとした歴史的原因があります。

明代に大規模に進められた屯田にともなって行われた、いわゆる「屯牛」です。

雲南が明軍に平定されて5年後の洪武20年(1387年)8月のある日、次のようなことが明朝の指示で行われました。

「丙寅の日、右軍都督僉事の孫茂に命じて2万2000錠のお金を持たせて四川に派遣して耕耘用の牛1万頭ほどを買わせた。

時まさに百夷を征伐しようとしているときで、軍の兵士を雲南に赴かせて屯田をさせ、食料を備蓄させようとするためである。」
(丙寅遣右軍都督僉事孫茂以鈔三萬二千錠往四川、市耕牛萬頭。時將征百夷欲、令軍士先往雲南屯田、預備糧儲故也。【明の太祖高皇帝実録・巻184より】)

右軍都督僉事とは、明の最高統帥機関である五軍都督府の一つ。

五軍は中・左・右・前・後で編成されていて、国を5つの地域に分けて統帥させていました。
右軍は雲南、四川、貴州、陝西、広西と、おもに南と西の周辺地域を統括。その右軍の中で四番目に権限のある都督僉事が命じられたのが「大量に牛を買うこと」だったのです。

しかし、それほど大量の牛が四川で売られていたのでしょうか。
(つづく)
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