雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

暴れる象と芸象12  フビライ、象を所有する

2016-05-29 09:44:41 | Weblog
写真は陝西省興平市南の茂陵1キロのところにある霍去病墓にある石像。高さ58センチ、長さ180センチ、幅103センチ。なんとも伸びやかなかわいらしい象だ。ほかもトラや亀、馬、牛などの象があるが、いずれも似たようなかわいらしさが漂っている。前漢・武帝の時代は意外とかわいらしさがうける時代だったのかもしれない。

【軍備の増強は「強く」ない】
元とパガン国との戦いでは、
象の防備が元軍の兵器に対して無力だった、
巨大なやぐらを組みすぎた、
人を乗せすぎた、
といった戦象の弱点を瞬時に見抜いた戦略の勝利でした。

ひょっとすると指揮官のナスラーディンは戦象の弱点をあらかじめ知っていたのかもしれません。
というのも彼の父・サイジャチはチンギスハーンの中央アジア遠征の時に投降したペルシャ貴族にしてイスラム教の開祖・ムハンマドの後裔を称する名家の出身なのです。

最初の世界征服に成功したといわれるマケドニア王アレキサンドロスは紀元前331年10月、ペルシャ軍と戦ったティグリス川上流部近くのガウガメラの戦い、紀元前326年7月、インドの地方の王と戦ったインダス川支流ハイダスペス川での戦いで2度にわたってインドの象部隊と遭遇し、勝利しました。

戦上手のアレキサンドロスは「象に射かければ、敵ばかりか味方にとっても脅威になる」と看破したとギリシャの歴史家アッリアノスの『アレキサンドロス大王東征記』などの書物に記されています。

 ナスラーディンも父や周辺のペルシャ人や書物から、歴史を学ぶチャンスはあったでしょう。

 一方で、元軍を率いたナスラーディンは別の命令も出していたことが、下記の記述からうかがえます。

「他ならぬ王の兵たちがそれ(象)を捕らえた。というのも、象は他にいるどんな動物よりも理解力が優れているからである。これで彼らは200頭以上の象を捕らえた。この戦いからグラン・カン(=フビライ・ハン〈筆者注〉)は多数の象を持つようになった。」
(マルコ・ポーロ/ルスティケッロ・ダ・ピーサ『「世界の記」「東方見聞録」対校訳』高田英樹訳 名古屋大学出版会、2013年12月、ミエン王との戦い(3)より)

 つまり象の力も十分認めていたのです。そして、元軍は以後、象の所有を始めたのでした。
(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴れる象と芸象11 最強象の戦い

2016-05-21 15:44:56 | Weblog
写真はシーサンパンナの景洪市を流れるメコン川中流部。この川はこの後、ミャンマーも通過する。元とパガン国との激戦地はイラワジ河支流のタ-・ペイン河のさらに支流に小梁江だった。雲南の川は見た目がゆったりとしていても意外と流れが早い。

【戦闘での最終兵器として】
さて、いきなり時代は紀元前の雲南から、1000年以上たった雲南とミャンマーの国境へ。

『元史』列伝第九十七・外夷三およびマルコ・ポーロの『東方見聞録』に象が現れます。それは耕したり、木材を運んだりするためでも、象牙をとるためでもない、殷の時代にも見られた戦闘に用いる象です。

至元14年(1277年)3月、現在の南ミャンマーあたりにあったパガン王国が軍5万人、象800頭、馬1万匹という大群で雲南に来襲しました(版本により数字に多少ばらつきあり。一番数が少ない『元史』に基づく)。

 このとき雲南で政治の中枢だった大理から派遣されたのは、フビライハーンのたっての命で雲南を取り仕切っていたサイジャチ(=サイード・シャムスッディーン)の死後、後を継いだその息子・ナスラーディンと大理の長年の統治者である段一族から段信苴が率いる兵士700人のみ。

ミャンマーとの境にある徳宏州の小梁江(今の曩滚河)で両軍激突となりました。

じつはパガン王は、この日のために長い時間をかけて周到に準備しておりました。

象には冑を着せ、その背に頑丈な木の櫓を組み、櫓の両脇には大竹筒がせり出して、筒に短槍が数十入っています。その槍は櫓に乗った人が手に取って投げつけるのです。その櫓には少なくとも12~16人の兵が乗り、中列に配置。

さらに前陣に騎兵、後列に歩兵がそれを囲みます。

マンガの戦闘シーンにも出てきそうな圧倒的な威圧感ある布陣です。

一方元軍は3隊に分かれ、一隊は象が近づいてくるのをじっと待ち、進軍してきたのを機に森から象めがけて徹底して弓弩を射かけました。

負傷した象は狂奔して森に入ると、上に乗っていた櫓は木々に当たって破壊され、人は落ち、それでも象はあらゆるものを前後の見境なく破壊しながら進み、恐怖の大混乱を引き起こしたのです。

 パガン軍は大量虐殺され、一日も経たずに壊滅に追いやられました。武に自信満々のパガンの王が勝つとの予想はあっさりと覆いされたのでした。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴れる象と芸象10 史記にみる乗象国2

2016-05-14 12:15:14 | Weblog
写真は西山からみた滇池と昆明市。滇池の広さは1980年代以前はこの倍、文化大革命以前はこの数倍はあったという。潅漑や埋め立てなどでここ100年で水質は悪化し、池の広さも大きく変わった。

【滇国は楚国の末裔の国】
現在でも車のナンバープレートに雲南登録の新車は「滇○○」などと書かれるほど、「滇」は雲南地域を指す言葉。昆明の湖が滇池ですね。

では象に乗る人が住むという「滇越」と漢が通商を開始した「滇」国の言葉についてですが、《大宛列伝》をよく読むと「滇越」は、張騫が派遣した漢の使者が商人から聞いた又聞きの用語です。
じっさいには滇と越という地理的に近い二つの国のある範囲で、象に乗るところがある、程度に考えるのが適当でしょう。

では、象に乗る国の一つ、滇国の場所はどこなのでしょう。

『史記』《西南夷列伝》には
楚の威王の時代(紀元前339~328)の将軍・荘蹻(かつての楚の王の子孫)が大きさが300里四方の滇池と、その周囲の地味豊かな数千里も続く広大な平野を平定し、その後、戦況の変化で帰れなくなり、身なりを現地風に変えて滇を支配する王となった、とあります。

 さらに時代は下って漢の時代に西南の各部族のなかで、ただ滇王と夜郎国だけが、漢国とよしみを通ずることができて金印を授けられ、その地の住民を支配した。

 さらに滇の領地は小さかったが、いちばんめをかけられた、と書かれています。(西南夷君長以百數,獨夜郎、滇受王印。滇小邑,最寵焉。)

そして西南夷列伝のまとめで司馬遷は、

楚の国王の先祖にはどんな天からの恵みがあったのか。
秦にすべての国が滅ぼされた中、楚の子孫だけが滇の王として生き延びて、
また漢が西南夷を討伐したとき、滅ぼされた国が多かった中で滇だけが目をかけられた王だった、
 とさらりと歴史を展望しています。

つまり、書かれている描写やその後、実際に「滇王之印」が発掘されていることから、滇国は明らかに私たちのよく知る滇池のある昆明市周辺を含む国。

そして、滇王が支配する地域から越のあたりは商人から「乗象国」と呼ばれるほど、身近に象がいて、住民は象とともに暮らしていた、といえるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴れる象と芸象9 「キングダム」の戦象

2016-05-08 09:17:56 | Weblog
写真は、20年ほど前に中国の会社との商談の際にいただいた贈り物。象牙の箸とうかがった。このような品をいただいていいのか、と驚いたのだが、使うにつれ、七宝の色は変わらないのに象牙とされる白い部分は茶色くなっていく。知人の見立てでは「牛の骨では?」と勝手気ままな憶測がとびかう。このとき日本側からはフィリップ社のひげそり機を送っている。

【『史記』のなかの象】
のちに秦の始皇帝となる人物がからむマンガ【キングダム】の戦闘シーンに象が戦争に使われるシーンがあるが、これは史実か、との質問をいただきました。

結論からいうと、秦国が象を戦象に仕立てて戦ったという詩や史実は残されていません。

秦の兵馬俑からも今のところ馬の兵団以外は発掘されていません。

試みに紀元前2000年頃の夏から前漢の武帝時代の紀元前91年頃まで書かれた『史記』を見ると、動物の象では、象牙製品にまつわる話とはるか西南にいる象の話の2種類があるのみです。

まず象牙製品。

《李斯列伝》には、秦国生まれでないものが重用されていることへの他の臣下の陰口に対して、秦出身ではない李斯が秦の始皇帝に、

「他国産のものですばらしいものは愛用しているではありませんか」

と弁舌する際に使われる「犀象之器」、異国の音楽の題名「象」。

李斯が「これらがなかったら、どうなさいますか?」とたたみかける弁論術から、始皇帝の心を動かすことができるほど象牙製品は最高の宝物の一つだったことがわかります。

《十二諸侯年表》の序文に書かれた

「殷の紂王に仕える箕子が象の箸をみた嘆き(紂為象箸而箕子唏)」。

これは『韓非子』にある話で
「象の箸に見合う様々なものを取りそろえはじめ、華美になっていき、最後に行き着く国の滅亡を予見した」
箕子の憂いという故事成語にもなっているエピソードです。

これらより殷末(紀元前1046年)や戦国末(~紀元前221年)の時代、象(牙)製品は国王が持つもののなかでも最上級に高価なものだったことがわかります。

【象に乗る国】
もう一つは西南の象。

《大宛列伝》で漢の武帝の命で張騫が西域から西南まで偵察した話のなかに出てきます。

大夏(現在のアフガニスタン北部の国)の商人から聞いた話として身毒(インド)の人民は象に乗って戦う(「其人民乗象以戰」)、と書かれています。

また、蜀(今の四川省)の南の昆明からさらに西に千里あまり行ったところに「乗象国」があり、名を「滇越」という報告されています。
その直後、漢は大夏への道を求めて「滇国」と通商を開始したとのこと。(然聞其西可千餘里有乘象國,名曰滇越,而蜀賈姦出物者或至焉,於是漢以求大夏道始通滇國。)

「滇越」と「滇」国が同じ国を指すのかですが、次回に。(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴れる象と芸象8 雲南はやはりシーサンパンナ

2016-05-01 13:12:09 | Weblog
写真はシーサンパンナ・景洪市内の道路の緑化帯に形作られていた、植物で作られた象。ほかに犬の形をしたものもあった。なんの植物かはわからなかったが、ツツジのような葉をしていて、前足部分と後ろ足部分にある別々の木が太い幹となって上方に向けて枝を張っている。それらをうまく誘導したり、刈り込んだりして形を作っていた。日本の菊人形のようなものらしい。


【象が耕す?】
殷代には長江以北の中原でも戦闘に使われ、あがめられていた象。魏晋南北朝期にも野象が暴れ民家を壊す記事も残ってはいますが、その後、寒冷化もあり、象は視界から消えていきます。

ときに雲南では、象はどのような様子だったのでしょう。

唐の咸通年間(860〜~873)に中原からベトナムのハノイに官僚として赴いた樊綽が、雲南の記述をかき集めて編纂した『蛮書』(巻7 雲南管内物産第7)には次のように象が登場します。

「象、開南已南に多く之あり。あるいは捕らえて人家多く之を養う。もって代わりに田を耕すなり。」
(象、開南已南多有之。或捉得人家多養之。以代耕田也。)

開南は、現在の普洱市のもっとも北に位置する景東彝族自治県をあらわす地名です。これより南に山を下るとシーサンパンナに入る境界域です。

つまり唐の時代には現在の生息域と同じあたりに象がいて、野象を捕らえて飼い慣らしていた。しかもその象を使って田を耕していた、というのです。

この文の前には沙牛、水牛が家ごとに養われ、耕していた記述があり、その後には猪、羊へとつながる話となっているので、ある程度、当時の人々の生活を反映した話といえそうです。

 でも、象が田を耕すことなど聞いたこともなく、各種民族史にも記載がないので、本当なのかと疑いたくはなるのですが。
信憑性の高い記述でもっとも多く、象が登場するのは、やはり戦争でした。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする