雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の特色料理・過橋米線11

2008-12-26 06:55:02 | Weblog
写真は南屏街界隈。昆明の有名デパートが軒を連ねる。デパート前は歩行者天国となっていて2004年末に完成した石畳とモニュメントの通りとなっている。自動車道は地下をトンネルで通してある。まだまだ工事中の箇所があり、ものすごく歩きにくい場所も。そんな場所でも物売りが出るのがたくましい。

【たまご麺?】
 昆明にまで伝わった後は、瞬く間に人気メニューになったのでしょうか。気になったので、1928年に東亜同文書院の7名の学生がデン越鉄道で昆明入りしたときの記録を読んでみました。

 日記なので食事の記録も日々、書いているのですが、昆明の日本人社会で大歓待を受けているためか、中華や西洋料理など宴会料理に埋もれるように、日本人経営の商社(保田洋行)前で
「鶏蛋麺と云ふのを馳走になって帰る」
というのが、麺の食事に関わる唯一の記録でした。

 ミーシエン(米线)に卵は練り込まないし、卵とミーシエンの料理なのか。でも明らかに違う麺だと、がっくり。他に手がかりはないかと、ふと今も昆明で6店舗の过桥米线店を経営する「福華園」の由緒書きを読むと、「鶏蛋麺」が出てきました!
 
 1938年、昆明の繁華街である「南華街」で開業した当初は鶏蛋麺を使い、その上に豚肉をよく煮込み、唐辛子と花山椒、漬け物などで真っ赤に味付けした味噌風のあんかけをもった「(火+巴)肉米線」の専門店だった、というのです。1981年に過橋米線店に衣替えしてから現在まで、昆明の老舗店として営業中。立派です。

 ところで、この場合の鶏蛋麺は文の運びから明らかに卵を練り込んだ麺を指しています。となると、1928年ごろからしばらくの間は現在の昆明では見られない、香港系の麺が人気だったというわけです。この店の歴史はミーシエンの流行をよく表しているのではないでしょうか。

 過橋米線が全国的に名をはせたのは1970年代に「蒙自正宗過橋米線」の正統後継者と自称する王徳文によるでしょう。彼が北京の政治の中心・中南海で過橋米線を制作し、雲南省商業庁嘉賞を受賞したのです。(その後、王家は1988年に昆明に進出し現在、「蒙自王記菊花過橋米線」を蒙自で経営中。)

 夫が雲南でお腹を下した油のコッテリ載った過橋米線を食べたのが1982年。過橋米線の由来が100年以上前だとしてもしばらくは、スタンダードではなく、1970年代に中南海で認められた後、小平が実験を握り、改革開放政策へと舵を切った80年代初めに雲南で一大ブームが訪れた、というわけです。
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雲南の特色料理・過橋米線10

2008-12-20 12:44:37 | Weblog

個旧の米線店にて。値段が安いだけあって食堂部分は乱雑だが、厨房は昆明市内の一流店にも劣らぬ清潔さで、鶏を骨ごとじっくりと煮たスープをベースにニラなどを載せていただく、正統派。スープは濁りがなく、すっきりとした味わいとなっている。うまい。


 個旧の人々の箸さばきも見事で、日本の落語界の人がそばをすするような、しゃきっとした型がある。全体に人々の目が鋭く、勢いがある。街に到着したときは目線や態度を怖いと感じたが、次第にきびきびとした動きに気持ちよさを覚えていった。鉱山の街、というのはこういうものなのだろうか。

【いよいよ昆明入り】
こうして、デン越鉄道で直接、昆明と結びついてから10年後の1920年。個旧から昆明へと過橋米線を武器に進出した人がありました。個旧出身の孫法です。彼が昆明に「仁和園食館」を開いたのが、過橋米線が昆明に伝わった初めての記録です。なぜ、蒙自や建水ではないのか、というと、通説ではそれ以前の光緒年間(1875~1909年)に個旧に伝わっていたのだろう、とのこと。錫で一山あてて、気性も山師のような人々が今なお闊歩する個旧。ここの出身の人が、まず昆明に乗り込む、というのは大いに頷ける話です。
また「過橋米線は(昆明には)光緒年間に伝えられ、三牌坊で開いたのが最も早い。」との説が『昆明市志長編』巻6に記載されていました。三牌坊は当時、昆明で唯一の西洋料理店もあるほどの繁華街。(今も昆明も昆明の中心的百貨店が並び立つ場所の一角となっています)そこで新メニューとして過橋米線を売り出すというのも、昆明に広めるわかりやすい戦略で、いかにもありそうです。
建水、蒙自あたりで発明された過橋米線が、欧米列強による錫の覇権争いたけなわの個旧で力を蓄えた民間人によって、デン越鉄道で往来のしやすくなった昆明へと伝播し、次第に広まった、といえそうですね。

コメント (4)
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雲南の特色料理・過橋米線9

2008-12-11 22:44:42 | Weblog
写真は「蒙自駅」。現在は貨物のみが運行している。貨車の横では20人ほどの浅黒く焼けた男達が、煉瓦のかけたような石の積み卸しをしていた。力仕事をしているというのにカメラに向かって、つい陽気にポーズをとってしまう、とても気さくな人たちだった。

【デン南から昆明へ】
 過橋米線が、昆明より155キロ離れた建水を中心としたデン南の味から「雲南の味」へと昇格した鍵は、フランスが植民地化政策の一つとして建設し、1910年に開通したベトナムのハノイと昆明とを結ぶ「デン越鉄道」にあります。

 総延長857キロを当時、4日間で移動したこの列車は東南アジアと中国を直接結ぶ重要路線として、また途中、渓谷あり、急流ありと、目を楽しませてくれる鉄道として大変人気がありました。敷設には多くの中国人労働者の命が失われたそうです。

 1901年に上海にビジネススクールとして日本人によって開校された東亜同文書院の学生は、卒業年度に必ず中国各地を調査旅行に出かけました。なかで1928年にベトナムからデン越鉄道に乗ったグループが雲南省に入って110キロ付近の渓谷を次のように書いています。

「レールの枕木一本が山東苦力の命一つ宛に当ると言はれるのがこの辺りだろう。下を見れば何千尺と言ふ深い峡谷の間を青い谷川が急流し、上には頂上に雲を被った絶壁が切り立っている。」

 私など写真を見ただけでも、絶壁に浮かぶエッフェル塔の下部のような鉄橋に、クラリ、とめまいを覚えるほどの峻険な行程です。一度、乗ってみたいなあ、と考えていたのですが、どうも、雲南側のルートが洪水やらなにやら修復中で、途中の開遠駅で乗り換えたり、それすらも雨期には止まっていたりと、運行状況が劣悪で、事実上、乗れません。

 そこで2004年4月ごろに実際に乗った方に話しを聞くと、
「生活のために乗ってる人が多く、のんびりとしてたよ。窓からの景色は一篇の詩のようだった!」と言っていました。大雨が多く、崖崩れも頻繁にあるこの土地でよくぞ、100年近く生き長らえたものだと感心しました。(一度、日本軍が開遠駅で空襲し、レールを破壊している。)

 開設以来、蒙自縣は県内に6つもの駅をもつ一大交易地として、さらに発展を遂げていました。
 その蒙自を窓口にフランスが獲得を狙っていたのが、錫(すず)です。錫の都個旧は、西欧諸国とアメリカ、日本の思惑が交錯する場所となっていくのです。(つづく)

*風邪を引いてしまい、更新が遅れてしまいました。悔しいです。今年の風邪はひどい頭痛と吐き気が特徴なのかなあ? 
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