雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

二度目のロンドン39 真夏の夜の夢1

2024-07-07 09:41:13 | Weblog
写真はリージェンツパークのインナーサークルの植栽。どれも植物園かとみまがうような美しさだった。

【リージェンツパークと野外劇場】
 今回、ロンドンについて最初に行った場所はベイカー街のシャーロックホームズ博物館でした。それは、すぐ近くのリージェンツパークにも行っておきたかったからでもありました。

リージェンツパークは166ヘクタールの面積をもつ王立公園で、だれでも無料で散策できます。もともとヘンリー8世(1491年~1547年)が離婚問題に端を発して、修道院から接収し、以後、長らく王室のお狩場だったところ。1811年に摂政王太子だったころのジョージ4世(1762年~1830年)が当時貴族の土地だったこの地を買い戻して、お抱え建築家のジョージ・ナッシュによって周辺の都市計画も含めて設計し、1845年に公園として整備されました。

イギリス王室の歴史はクセがツヨめに感じるのですが、この公園の整備を命じたジョージ4世もなかなか独特な方。放蕩三昧で借金を重ねる人生を送った、スキャンダラスな人物らしい。
ただその教養と美意識はたしかで、今なおリージェンツパークはロンドンで最も美しい庭園との評判を獲得しているし、今も使われているウインザー城の再建や、バッキンガム宮殿の大幅な改装を命じたのも彼、スコットランド風タータンチェックの復活などファッション面でも大きな功績を遺しておられるのでした。また今回、調べるまで気にもとめなかったのですが、トラファルガー広場の中心など、目立つところに屹立する銅像の多くがジョージ4世なのだとか。当然、命じたのはご本人。芸術面に秀でた人物というのは、生活面ではいかに浮世離れしてしまうのかがよくわかる話です。

話がそれました。

さて、そこに野外劇場があり、夏になると、おもにシェイクスピアの演劇が上演されることで有名です。1932年創立以来、数々の演劇賞を受賞するほどレベルの高い作品が生み出されています。

家人はその有名な劇場の上演チケットをインターネットで購入していました。野外劇は夜。当日に場所が暗くてたどり着けないのでは、それに治安はどうなのだろうと不安になって、下見のために公園に行ったのでした。

ホームズ博物館側にほど近い入口から入ると、よく手入れされた花々が植栽された庭園があり、やがてインナーサークルと呼ばれる直径330メートルの手入れされた空間のなかにつたに絡まった野外劇場が見えました。入口はまだ昼間なので閉まっています。

なにより整った庭園という感じで、大木が生い茂るハイドパークとは違った雰囲気です。ザ・イングリッシュガーデンとでもいいたくなる園芸植物が丁寧に植えられた空間が続いていて、バラ園もありました。
とても落ち着いた空間なので、これなら夜でも大丈夫そう。

 ちなみにリージェンツパークの北側にはかの有名なロンドン動物園があります。それは1826 年に設立された動物学会(ZoologicalSociety)にその土地がリースされ、その付属施設として1828年に動物園が設置されたことに由来します。
 一方、公園の中心からやや南に位置するここインナーサークルは1841年、王立植物学会(Royal Botanic Society)に植物園設置の目的で貸与された場所でした。整った園芸空間はそういう歴史も反映されているのかもしれません。

その日は公園から続くリージェンツストリートをずんずん歩いて観光客でごったがえすピカデリーサーカスまで行きました。ロンドンの名所って、簡単に歩けるんだなとその時思ったのですが、まさにリージェンツパークとその道は最初から都市計画でまるごと作られた空間だったとわかると、納得の歩きやすさは偶然ではなかったわけです。

参考文献:芝奈穂「リージェンツ・パーク設計の政治学―王室エステート計画から一般開放へ―」『ヴィクトリア朝文化研究』15、2017.11
※災害級の暑さがやってきました。次週の更新はお休みします。みなさま、くれぐれも体調に気を付けてお過ごしください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン38 『不思議の国のアリス』は不思議じゃなかった

2024-06-30 12:32:35 | Weblog
ロンドン大学近くのスクエア公園で見かけたハトをまとった男の人。このあとハトが輪を描き出し、不思議な空間になっていた。

【「不思議の国」のイギリス人】
しばらくロンドンをうろついていると、いかにも『不思議の国のアリス』や『くまのプーさん』『ミスタービーン』に登場しそうな人たちにかなりの頻度で出会うことに気づきました。

見た目は大人、だけど心に子供っぽいいたずら心をひそませる人たちが一定の割合でいらっしゃる。それはひそませるだけでは飽き足らず、ついその遊び心が湧き出してしまう瞬間が。

誰に誇示するでもなく、あくまで個人的なひそかな楽しみなのです。だから声も、場合によっては音すら出しません。そんな様子は私に、気持ちがほぐれるようなあたたかい気持ちをもたらしてくれました。伝統的なイギリス児童文学の世界に連なるような、ちょっと不思議なわが道を行く人たち。それら点景をご紹介しましょう。

≪水たまりにムズムズ≫
 朝、シャワーのような雨が降ったあと、家から駅に向かって歩いていると、前から背の高い青年がやってきました。静かに本でも読んでいそうな風情の立派な紳士です。彼の前には晴れた空と雲を映した水たまりが。
 普通ならよけて通りそうなところですが、彼は目をキラッと輝かせ勇気の一  歩を踏み出しました。びしゃっと跳ねる水。彼は「ヒャッホー」と言いたそう に口を開いて、声に出さないまでも、空にこぶしを突き上げて、じつに幸せそ うでした。

≪ハト男≫
 ロンドン大学近くの公園にて。近道しようと木々の生い茂った、それほど広くもない公園を斜めに歩いていると、木製のベンチがありました。そこに壮年期の男性がテクテク歩いてやってきて座りました。すると、とくにエサを撒いている風情はないのに頭の上から肩、腕、手のひらにまでたくさんのハトが止まり、彼の周りをまるで光輪のように舞いはじめたのです。
 こんなにも不思議な光景が出現したというのに、公園にいた人々は、とくに注目することもなかったです。それどころか日常、つまり散歩や友達との会話、どこかに行くあゆみをとめることなく、続けていました。
ハト男も不思議ですが、まわりの反応も不思議でした。

≪横切りたい!≫
 ロンドン郊外のキューガーデン(王立キュー植物園)前の住宅街の午前。地元の人でしょうか、杖をついて、よろよろとあゆみをすすめる老夫婦がいました。そこに信号機があり、標示は赤に。
 当たり前ですが、そこで歩みを停める二人、のはずが、おじいさんはキョロキョロと周囲をうかがって車が来ていないのを確認すると、突然、ヨタヨタと走って、道を渡っていきました。そして道を渡り切って歩道に上がると「やったゾ!」というかのようにいたずらっぽい満面のニタリ顔。おばあさんは「まったく!」といった風情あきれ顔。

 茶目っ気はイギリス、ロンドンのキーワードなのかもしれません。まじめだけど、ふとした瞬間、おもしろさの隙間をみつけて、集中しちゃう。そして不思議な人に注目も注意もしない、個人主義の徹底。普段の生活ならかわいいのですけど、この性質に政治がからんでしまうこともあるのが、この国のやっかいなところなのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン37 憧れのキューガーデン⑦ 

2024-06-23 11:21:09 | Weblog
写真上はキューガーデン前のテムズ河。手漕ぎのカヌーがゆっくりと通っていった。

【テムズ河下り】
やがてテムズ河を横断する橋のある大きな通りに出ました。河を渡った左には現代の街並みがみえ、目の前にはバス停、右に行けば、やがて地下鉄駅があるはずです。

ほっとすると視界も開けてくるもの。道路を渡った先に当初目指していた船着き場の標識が見えるではありませんか? 重くなった足をやっと動かして河沿いに進むと河に突き出た古風な船着き場がちゃんとありました。

落ち葉が降り積もり、誰もいません。この船着き場は果たして現役なのかと不安に駆られて、観察すると、船着き場にやや汚れ気味の時刻表が貼ってあります。見ると20分後にロンドン市内行の運行があるようです。

 落ち着かない気分で夕暮れの寂しい船着き場に立っていると10分ほど経った頃に我々以外の待ち客が現れました。これは確実に船が来ると確信が沸いて勇気百倍。やがてゆっくりとひらたい船が船着き場にやってきて、無事に乗りこむことができました。

さすがに夕方。日は落ちてはいないものの、冷えてきます。乗客は数人ですが、慣れた人はボートの上で持参した毛布にくるまっています。7月で夏とはいえ高緯度地帯なので、寒い。

テムズ河は浅く、河の周辺には緑深き広大な公園が随所に見られ、お城や別荘らしきコテージが河に向かって、ポツポツと建っていました。鳥も夕暮れのねぐらに向かってせわしなく河を渡っていきます。いずれかの森に帰るのでしょう。

船からみると改めてキューあたりは最適な別荘地なのだとより一層感じられました。船は1時間半かけてゆっくりとロンドン中心部へ。右手に不思議なデザインのガラス張りのマンション群がみえ、ああ、現代に入ってきたぞ、と思っていると、

左手にツンツンととがったたくさんの尖塔をひらめかせているイギリスの象徴的な建物の時計塔と国会議事堂がみえ、そこに波止場がありました。たぷたぷの河がすぐに国会議事堂の建物を飲み込みそうです。尖塔のとんがりは日本なら一発の台風ですぐに折れてしまいそうな繊細さ。

イギリス中世の映画に王族の方が城に向かうために船を下りてから、ぬかるんだ岸辺で泥だらけになって家来たちもその後に続いて・・、という描写がありましたが、きっとそういう情景がロンドンだったのでしょう。

いろいろとせわしない日常から離れ、ゆったりとした時の流れが体感できるテムズ河下り。ちょっと厚めの上着を持てば万全なはず。おすすめです。
                      (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン36 憧れのキューガーデン⑥ 歴史の古いエリア

2024-06-16 18:05:50 | Weblog
メジャーなヴィクトリアゲートの反対側にあるブレントフォードゲート近くは古風な建物が散見するエリア。写真はその近くの竹林内にある「ミンカハウス」。日本から移築された建物である。ほかにも古風な建築物が点在するエリアとなっていた。

【帰りはテムズ河のゲートから】
キューガーデンのすごいところは、広大な敷地なのに隙間なく、惜しみなく手入れがなされているところです。よくぞ荒れるところもなく行き届いた空間を保ち続けていると、日本の交通の便の悪いところで時折みる、代替わりしたお屋敷の庭のどうにもならなさを想い浮かべて尊敬の念すら沸いてきました。大英帝国の栄光への誇りは粘り強い。

さて、帰りは行きとは違う出口から帰ろうと、中心部へのアクセスの容易なヴィクトリアゲートやメイン(ライオン)ゲートとは反対側にあるブレントフォードゲートを目指すことにしました。このゲートの出口には駐車場とテムズ河があります。

その出口近くのキューガーデンの敷地内には1761年に建てられたオランジェリーレストランという、しっかりめの食事のとれる建物がありました。コーヒーをテイクアウトする人もいて、ずいぶん賑わっていました。

ほかにキューガーデン最古の建物として知られる(1631年)赤レンガ色のキューパレスもありました。中世のメイド風スタイルの方々が案内のためなのか入口付近に数人立っています。なかには疲れ切って座っている人も。

ここにも1631年以前から建物があり、次々と持ち主が替わっていたのですが、1631年の改築時には地下室以外はすべて取り壊され、立て直されました。1728年からは王族の住まいの一つとなりました。


アイスハウスと書かれた1760年代に建造された建物もありました。冬には近くの湖の氷をこのハウスに運び貯蔵。夏には王族方がその氷を飲み物に入れたり、アイスクリームを作るのに使っていたりしたと説明板には書かれていました。18世紀、ここは王室の食糧供給基地だったそうです。
このようにヴィクトリアゲート付近とは趣の異なる、より古層な雰囲気の漂うエリアがブレントフォードゲート周辺なのでした。

 吹き渡る風もより涼しさが勝ってくると、閉門時間が近づいてきます。
 夏場は午後6時です。
 人々が足早に消えていくなか、私もゲートから外へと出ました。日本から持ってきたガイドブックによると、テムズ河を行き来する水上バスが走っているようなので、それに乗るつもりでした。

 ところがゲートを出ると、静かに濁ったテムズ河は確かに目の前にあるのですが船着き場は見当たりません。疲れ切った家人は不機嫌に
 「どこにあるの?」
 と責めてきます。いやあねえ、また元の門に戻って無難にヴィクトリアゲートから帰ればいいじゃないと踵をかえすと、なんと先ほどまで簡単に通過できたブレントフォードゲートの鉄の門は閉じられていました。ちょうど午後6時をすぎたのです。相当、時間に正確です。人気もすっかりなくなりました。

門をガシャガシャと揺らしてみてもどうにもならず。しばし河を見つめてボー然。いや、しかし、ここは無人島ではない。河に沿って歩けばとにかく街もあるし、キューガーデンの外枠に沿って歩けばいずれは地下鉄の駅にもたどり着けるでしょう。気を取り直して歩き出しました。
             (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン35 憧れのキューガーデン⑤

2024-06-09 15:45:32 | Weblog
写真はマリアンヌ・ノースギャラリーの内部。寒い日でも温かく、座るためのベンチもあり、人々を十分にいやしてくれる。

【マリアンヌ・ノース・ギャラリー】
 広大な園内に点在する温室や建物には、日本の江戸から昭和初期の農家の家を再現したと思われる「ミンカハウス(Minka House)」といった笹の生い茂る緑の小道の中間に突如現れる不思議な建物もありましたが、一番、建物の展示でインパクトがあったのが「マリアンヌ・ノース・ギャラリー(Marianne North Gallery)」でした。古風なイギリスの貴族のお屋敷のような建物を入ると、ヴィクトリア朝時代に世界を旅した女性が描いたボタニカルアート832点が壁を覆わんばかりに飾られていました。

マリアン・ノースは貴族の家系の子女で1830年生まれ。父の仕事の関係で、家族で世界を回り、1869年に父が亡くなってからは一人で世界を旅して植物の写生を行いました。アメリカ大陸の次に訪れたのが日本。1875(明治8年)11月7日から12月末までは、横浜、東京、神戸、大阪、京都を訪れ、日がたつにつれ、悪化するリューマチに苦しみながらも富士山と藤の花、印象的なオレンジ色の柿が印象的な絵など数点を遺しています。

 まだ写真機が十分発達していなかったころ、彼女の絵はアメリカ大陸各地、日本、香港、シンガポール、ボルネオ、ジャワ、セイロン、そしてインドと植物を中心とした絵画として貴重なうえ、風景画としても楽しめるということでイギリスの博物館で展示の貸し出しの要望があり、またその後、個展を開いたりしたことで、評価も高まっていました。新聞評には「この植物画を主題とした絵画コレクションはキュー王立植物園を最終的な展示場所にすべき」と書いたものもあったのです。
当時、王立キューガーデンの園長は彼女の知り合いのジョゼフ・フーカー卿。そこで彼に手紙を書いて、園内に彼女の資金でギャラリーを建設する承諾を得、さらに彼女自身で建設場所も決め、設計者も指定して1882年6月7日に開館しました。
 
しかし、この館に出会うまでマリアンヌ・ノースその人もその絵もまったく知りませんでした。キューにきて、たくさん散策して、ほっとする建物を見つけて入って、偶然出会った膨大なこれらの絵画は、決して偶然ではなかったのです。彼女が少し正門から距離がありつつも必ず来園者が訪れるであろうパームハウスの敷地から遠くないところ。人々が帰り道にふと立ち寄る場所を選んだのです。

そして絵は、普通のボタニカルアートとは少し違う。植物の絵ではあるのですが、正統派ではないというか。植物の置かれていたお国柄を取り入れてみたり、色も端正な植物画とは正反対の、ちょっと濃いめだったり。その時の彼女の気分が反映されているような、情念のようなものを感じます。メキシコの女性画家、フリーダ・カーロにも感じるような湿度のある自我のような。
かといって、国立美術館に飾られている植物の写生画や何かを象徴するような画でもない。じつにじつに不思議な空間でした。

その場所をわかっていて意思を持って訪れた人もいたことでしょうが、多くの人はなにも予備知識なく、なんだろう、このお屋敷程度で入り込んだ感じでした。私同様、彼女の情念にあおられて、くらげのようにフワフワと漂っているのでした。

参考文献:柄戸正『ガリヴァーの訪れた国 マリアンヌ・ノースの明治8年日本紀行』(2014年、万来舎)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン34 憧れのキューガーデン④

2024-06-02 14:44:23 | Weblog
キューガーデン内の森の小道など各所にプリムラの花が咲いていた。野生種を中心にずいぶん集めているのがわかる。

【サクラソウ、プリムラもたくさん】
午後は私の大好きな日本古来のサクラソウを探すことにしました。ある論文にキューガーデンには19世紀のプラントハンターが中国や日本で採集したサクラソウの類が集められていた、との情報があり、それを確かめたかったのです。
かつてオランダのライデン大学はじめ、シーボルト関係の植物園を見て回った時、多少の痕跡はあったものの、総本山はイギリスでは、との思いが募っていました。

植物がどこに植えられているかのマップが見当たらなかったので、ひとまず植えられていそうな場所を地図で推測して探すことにしました。とはいえ前に書いたとおりキューガーデンは広大なので、慎重に見極めないと、今日中に出会う確率はかなり低そうです。

まず日本のサクラソウにとっての必要条件は腐葉土のある土質と多めの水分とちょっと木陰がありつつも、適度な日差しがありそうな場所。

そこで水の流れているロックガーデンという場所を目指しました。欧米の植物園には岩場に水を流して高山植物で水を好む植物を植える傾向があるからです。そこは午前に到達したアジアンガーデンとはまったく正反対の側、東のほうのプリンセス・オブ・ウェールズ温室の近くにありました。

ひたすら歩いて、温室に導いてくれるような森の小道がありました。ここを抜けるとロックガーデンという場所です。なんともいえないよい木陰。これはもしや、と下を向いてじっくりと歩いていると、ありました。

とくに花形植物の植わっていない大木の下草に「プリムラ・シーボルディ」まさに日本固有のサクラソウの群落を発見したのです。ちゃんとラテン語で表記された世界共通の学名の札があるので間違いありません。
 花は見たところ2週間ぐらい前に終わったところで、順調にやわらかで黄緑色だった葉は黄色くなりかけてやがて土に還る兆候を見せていました。そして花は終わって、そこにはきちんと丸い実が付いていました。こんなにちゃんと発見できるとは思っていなかったので、うれしい。

さらにロックガーデンに行くと案の定、サクラソウもその仲間に入るプリムラ系の草花が配置されていて、雲南の原種と思われるサクラソウ「報春花」が咲いていました。2,3種類が群落となっていて、ピンクの花、黄色の花の競演です。輪草系で控えめに咲く花なのでじっと見つめている人も解説員もいませんでしたが、いとおしく、しばらくたたずんで、あこがれの光景に行き会えた喜びをかみしめたのでした。
                      (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン33 憧れのキューガーデン③

2024-05-19 09:28:06 | Weblog
写真はテンペレートハウス。ちょうどキューガーデン内をめぐるツアーの人々が到着。歩くのが苦手な人は、ツアーなどを利用するのもおすすめ。

【160年前からあるテンペレートハウス】
パームハウスから道にそって南西へ進むとまたもやガラス張りの巨大な温室がありました。先ほどの丸みを帯びた温室と違って、こちらはカクカクとした宮殿風です。テンペレートハウスです。テンペレートは温帯を指すので、文字通り温帯植物の温室です。一般公開が始まったのがやはりヴィクトリア朝の1863年。その後36年かけて今の形となりました。設計者パームハウスと同じデジマス・バートン。

なかでは野生種の稲や赤米などが見事に実っていました。

ガラスがきらりと光っていて白亜の宮殿のようだ、とその美しさに感嘆していたのですが、私が行った2019年7月14日は大規模な改修作業を終えて再オープンして1年2か月がたったころだとわかりました。100年以上たったこの建物にサッカー場4面を軽く塗れる5280リットルの白ペンキを塗ったりなど5年をかけていたのです。

【西本願寺の勅使門】
さらにずんずん南西へと進むと、高い木々と灌木がうっそうと茂る(けど下草は刈られていて歩きやすい)不思議な空間がありました。案内表示には
「日本庭園(Japanese Landscape at Kew)」
 と書かれています。

奥に進むと西本願寺が1910年に出品した勅使門と灯籠がうやうやしくそびえていました(ロンドンで開催された日英展)。あまりの迫力に日本の寺で使われた本物を移築したのではと思っていたのですが、案内板によると1910年に5分の4スケールで新たに造られたものでした。総桧木造りでヒノキ皮拭きの屋根、欄間や羽目板には華麗な彫刻とまことに豪勢です。

この時期の西本願寺の法主は大谷光瑞。シルクロードなどの探検で有名な大谷探検隊を企画し、主導した人物です。世界に日本が負けぬ威光をとどろかせようと、文化的にさかんに活動していた時期なので、そのような歴史的背景に思いを馳せると感慨ぶかいものがあります。

キューガーデンには博覧会終了後すぐに移築されました。1994年から修繕され1996年に再お目見え。周囲には桜やつつじなど日本由来の植物が植えられていました。

【アジアンワールドも】
勅使門からほど近い場所にはさらに中国園。立派な楼閣が聳え立っています。近くの森にはパゴダもありました。ロンドン由来のアジア関連の建築物が一気に置かれている印象です。これらが広い広い森に点在し、小鳥たちが軽やかにあちらこちらへ飛び回っていました。
                  (つづく)
※次週の更新はお休みします。ぐぐっと日差しが強くなってきました。熱中症には気を付けたいですね。私もスマホをうっかり日差しのある机においたら、熱くなりすぎて、危なくなっておりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン32 憧れのキューガーデン②

2024-05-12 16:50:05 | Weblog
パームツリーハウスに隣接する建物ウオーターリリーハウス。各種スイレンが咲き乱れ、甘い香りがただよっていた。

【途方もない広さ】
朝方の雨ですっかり冷えた空気。宿舎を出たときに寒い、と思って部屋に上着を取りに行こうとしたら、家人に

「これからあたたかくなるんじゃないの?」

といわれて断念したのが悔やまれます。日中のど真ん中以外は、本当に寒かった。
歩いていると広さが桁外れすぎて、先に進んでいる気がしなくて、なんとなく、絶望、という感じがしました。1日歩き回っても、半分も見れません。さすが大英帝国!

4万エーカー(132ヘクタール)という広さはどれくらいなのかと考えたのですが、先ほど新聞を見てぴったりな数字を見つけました。不謹慎なたとえで申し訳ないのですが2024年5月4日に山形県南陽市で山林火災が発生し、鎮火までに4日かかりました。その焼失面積が3日目の午後7時時点で137ヘクタールでした。消火に尽力していたにもかかわらず火が燃え広がった3日分がキューガーデンなのです。

【パームハウス】
園内を入って正面にみえるのがガラス張りの風雅な温室パームハウス。その名の通りヤシの木などの熱帯植物が生い茂っています。ヴィクトリア朝の1844年に造船技術を用いて鉄や手拭きガラスで作っているため、巨大な船がひっくり返ったような形をしています。

 デジマス・バートンの設計によって作られました。野生の熱帯雨林では絶滅の危機に陥っているものも多く、またゴム、アブラヤシ、カカノの木など植民地時代を支えた有用植物が多数見られました。
なにより温室なので温かい。

パームツリーハウスの右横に設置されている温室ウオーターリリーハウスには様々なスイレンが咲き乱れていました。スイレンの本場はアジア、日本もその一つですが、私が日本の植物園でも見たことのない種類の白く透明な葉をもつ不思議なスイレンも咲いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン31 あこがれのキューガーデン①

2024-05-05 16:19:34 | Weblog
写真はキューガーデン駅からキューガーデンへ続く一本道に建つ家々。やや厳格な、ゆるがせにしない雰囲気をたたえていた。それぞれの庭が美しい。

【キューガーデンへ】
朝6時に起床。運動して6時半に朝食。いつもはクーラーのない西日の部屋で片側にしか窓がないため、寝苦しくて汗びっしょりで起きたり、寝られなかったりといろいろですが、今日はさわやかでよい目覚めです。
 と思っていたら7時半からやわらかいシャワーのような雨が降りそそぎはじめました。イギリスで初めての雨です。レンガがしっとりと濡れたらさぞやきれいに、地面の石畳はどんな感じになるのかな、とワクワクしていると、石につやが出る間もなく晴れました。

 雨だったら大英博物館か図書館と決めていたのですが、せっかく晴れたので、行きたかった、キューガーデンを目指すことに。

 キューガーデンは、世界でもっとも有名な植物園としてしられ、膨大な植物関係の資料を有する王立植物園です。2003年にはユネスコの世界遺産にも登録されました。

ロンドン南西部にあり、ディストリクト線で一本。気軽な遠出で30分で到着しました。キューガーデン駅を降りると、まるで別荘地のよう。静かで、家も周囲をいろどる庭も、手入れが行き届いていて美しい。お菓子の家のような、はたまたシルヴァニアファミリーのおもちゃのおうちのような建物が続いています。

このあたりは19世紀のロンドンの人口増によって発展し、ロンドンからの地下鉄の開通にともなって発展した、ロンドンのやや高級な住宅地、という位置づけとのこと(キュー (ロンドン) - Wikipedia)。ロンドンの中心部やノッティングヒルなどの超高級住宅地ほどではなくとも、上質な、世界を制覇したころのロンドンのたたずまいが醸し出されていました。

駅から徒歩10分弱でキューガーデンの入口となるヴィクトリア門へ。

ネットの情報では土日は混んでいるといわれていたのですが、日曜日だというのに、ほとんど人に行き会うこともありませんでした。朝方の雨のせいか空気はひんやりしています。チケットを買って温室風の建物を抜けると、130ヘクタール、4万種の植物が生い茂る植物園が広がっていました。
 空間が広すぎて、見どころが多すぎて、正直、どちらに行ったらいいかわからなくなってしまいました。広すぎるための圧を感じたのはちょっと方向性は違いますが、中国の天壇広場以来です。
               (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン30 大英図書館の閲覧室

2024-04-28 15:20:40 | Weblog
写真は大英図書館の蔵書がモニュメントのように置かれているロビー。集う人々は熱心に本を読んだり、勉強をしていた。
 しかし、ここで100年前に名誉会員として毎日を過ごしていた南方熊楠。この蔵書を使って自然科学雑誌「ネイチャー」に投稿しては何本も掲載されて、イギリス人にも一目置かれていた唯一無二の日本人。だのに閲覧室で、注意されたときに、カッとなって相手を殴ったために出入り禁止になった熊楠。やっぱり乱闘は、日本以上にダメな場所なことは明白だ。

【蔵書を手に取る】
話は再び大英図書館へ。図書館カードを作って、見たい本の申し込みをした2日後、本が閲覧室に届いたとのメールが届きました。意外と早い。

さっそく出かけて、いくつもある閲覧室から自分で指定した部屋へ。どの部屋でも指定すれば閲覧可能なのですが、私はアジア関係の辞書などがそろっている部屋に行きました。

高い天井から自然光のようなやわらかな照明がふりそそぐ空間はクラシカルで落ち着いています。閲覧用に何列にも並べられた木製の机には、貴重書を傷めずに本を広げられるように、角度をつけてあまり開きすぎないようにと移動式の灰色に塗られた段ボールの書見台やずれにくいように加工された木製の板などが置かれていました。

閲覧室の机。

机は40席ほどがゆったりと並んでいて、ほどよい混み具合です。そこでまず、空いている席に自分の鉛筆(ペンは不可なのです)とハンカチを置いて場所取りをした後、申し込んでいた本を受け取りにカウンターに行きました。

カウンターの職員の方々はジーンズにTシャツ姿も見られるほどラフな格好でしたが、利用者から「すみません」といいながら不意に聞かれる質問にも、テキパキと答えていました。
 私がカウンターで図書館カードを見せると、すでに用意された予約棚から取り出して、予約した大型本をカートに入れて渡してくれました。

 希望した本は、幕末に日本にやってきたシーボルトの『フローラ・ヤポニカ』。日本の植物を記した絵とその説明が中心です。彼は医者なので、植物学者ツッカリーニと共著しています。

 大英博物館の蔵書ですが、じつは日本の丸善から1993年から94年にかけて復刻されたもの。初版本はさすがにみられなかったのです。でも、この本も日本でみるとなると、東京大学や京都大学などが所蔵しているので、研究の理由を書いた提出書類を書いたり、推薦人を探したりするなどの手続きが必要になります。もし、購入するなら販売価格98万円。もはや品切れなので、古書市場だと数十万円かかります。とにかく日本で見るのは大変なのです。それが大英図書館の登録証さえあれば、スムーズに手に取ることができたのです。

そのほか、シーボルトは日本からヨーロッパに輸送して育種に成功した園芸植物を通信販売したりもしたのですが、その時のパンフレットやリーフレット、その一覧表も見ることができました。それらは本物で、感激しました。
 ちなみにシーボルトが収集した日本の本も大英図書館がずいぶん所蔵していました。

 ページをめくってはじっくり見て、メモをとったり、スマホで写真を撮ったりして過ごしました。状態もとてもよく、色も鮮明でした。

ちなみに閲覧室では書籍の写真撮影は個人で使う場合は自由にできます。私も本を傷めないように注意しながら撮っていたのですが、近くの席の若い紳士(牧野富太郎博士のようにきっちりとしたダブルの背広にあつらえたズボンの、貴族のような雰囲気の人)がやってきて「シー」というポーズで口に指をあてて、おだやかに

「ノー。シャッター音をさせてはだめですよ」

と言って去っていきました。彼も書籍を閲覧にきた利用者でした。

 たしかに他の方からはシャッター音がまったくしません。でも私のカメラは日本のスマホ。日本で販売されているスマホのカメラはシャッター音がでちゃうのです、と言いたかったのですが、とにかく皆の集中を乱しているのは事実です。焦って音を消そうとしたのですが、やはり私にはできなくて、その後はなかなかつらいものがありました。

 とはいえ大英図書館は、ジェントルマンの人が集う場なのだと実感。職員も礼儀ただしく、大人な対応で丁寧に接してくれます。図書館という空間では日本は礼儀とホスピタリティにおいては、やはりまだまだ、なのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン29 気軽に行ける大英博物館⑤

2024-04-21 16:55:13 | Weblog
写真はギリシャのパルテノン神殿の彫刻群。テレビで見慣れていたパルテノン神殿は1801年当時は今の神殿の柱だけが立っているというほど荒れ果てた状態ではなかったらしい。大英博物館に登録されたのが1802年、フランスの博物館(ルーブル?)に登録されたのが1803年、との説明が部屋の廊下に掲げられていた。

【パルテノン神殿の顔も】
そして「メレイデス・モニュメント」の横にこれまた超一級品の白大理石の彫刻群が並んでいました。これぞ、かの有名なギリシャのパルテノン神殿の一部。しかも、彫像を一つ持ってきたというものではないのです。たとえば日本の神社だと一番重要な拝殿の屋根瓦の下側にゴージャスに彫り込まれた龍や牡丹の花などの木彫群がありますが、その部分。パルテノン神殿の顔である、一番目立つところの彫刻をはぎ取ってきたのです。

ずいぶん荒っぽいことをしたわけで、現在、ギリシャから返還請求がなされています。大英博物館も展示の経緯や訴訟のことも包み隠すことなく、ちょっと目立たないところの壁にではありますが、ちゃんとパネルで展示していました。
植民地時代の世界各地のものの返還については欧州諸国で重要な課題となっています。2017年にフランスのマクロン大統領は「これ以上、アフリカの文化遺産を欧州の美術館・博物館の囚人のように収容しておくわけにはいかない」と宣言し、ナイジェリアにいくつか返還を始めました。ドイツもその動きに追随しました。大英博物館は今のところ、拒否。今後の動向は、世界中は注目することとなっています。
(参考:https://www.cnn.co.jp/style/arts/35148855.html)

しかしパルテノン神殿の彫刻群は一度見たら忘れられないほど魔力的でした。馬の頭一つとっても、リアリティに満ちた何かを訴えかける表情と深く自信に満ちた彫りすじ。人類史上でも最高部類に入る彫刻であることは素人目にもわかります。所有をめぐる欲と徳の戦い、これが生々しくも目の当たりにできる博物館でもあったのでした。
               (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン28 気軽に行ける大英博物館④

2024-04-14 11:43:25 | Weblog
写真はギリシャ・ヘレニズム文化の間に鎮座する「メレイデス・モニュメント」。長い年月に耐えた独特のギリシャ文化の空気感を醸し出していた。
 だが客は意外と注目せず、神殿を見るために設置されたベンチで休みながら、スマホの画面を見ている人が多かった。大英博物館の深部にあるので疲れを癒したい欲求に勝てないようだ。

【メソポタミアの間】
メソポタミア関連では楔形文字が刻まれた石板が重々しく展示されていました。解説を読むと

「まったく最近の若者は・・」

今も昔も変わらぬ言葉に笑えます。

アッシリアの彫像群は大きくて迫力満点。特に印象的だったのが、前回、写真で紹介した守護獣神像。どこかでみた、と思ったらドイツ・ベルリンのペルガモン博物館でした。きっと、このような像が神社の狛犬レベルでたくさんあるだろう、と軽く考えて通り過ぎたのですが、家に帰って調べるとベルリンのものはレプリカで大英博物館のものが本物だとわかりました。

かつて世界史で習ったイギリスの3C政策とドイツの3B政策。さまざまな収奪が交錯し、繰り広げられ、その終着点の一つが博物館の展示だったわけです。
〔3B政策とはドイツがベルリン、ビサンティウム(現イスタンブール)、バグダッドを直線で結び、イギリスは南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタ、エジプトのカイロを結ぶ三角形地帯を植民地支配する帝国覇権争いのこと。〕

素直に見ただけではメソポタミアや古代ギリシャの遺跡はドイツのベルリンの博物館にはスケール感では及ばないと感じたのですが、それこそ、まんまとドイツ帝国の手のひらにのせられてしまったわけで、19世紀帝国主義のつばぜり合いの残滓だったのでした。

【ギリシャ神殿】
ギリシャヘ・レニズム文化の間でも同様のことがいえました。
 一部屋まるごとギリシャ神殿。ほんものの遺跡が聳え立っている「メレイデス・モニュメント」。でも、デジャブかな? ベルリンにあるペルガモン博物館の「ゼウスの大祭壇」と見せ方がそっくり。スケールではベルリンの方が上なような。

そもそも小アジアのペルガモンで発掘したそれを見せるため作られたのがベルリンのペルガモン博物館なので、肝いり具合が半端ではない。広場のモザイクまでまるっと移築していて、足元に広がる色味のある大理石のモザイク絵画からから仰ぎ見る神殿は威圧感に満ちています。さらに客も気軽に神殿内に入り写真撮影も可能。しかも本物。

ですが、これも調べてみると、もともと大英博物館のほうが先にあったことがわかりました(開館は1759年。当初は蔵書コレクションだったが、大英帝国の躍進とともに世界各地の遺跡、遺物が運び込まれ1816年にこのギリシャ彫刻も加わった)

ペルガモン博物館は1907年ごろに計画され、ペルガモンの大祭壇の展示にこぎつけたのが1930年。遅れること1世紀。明らかにベルリン側がイギリスへの強烈な対抗心で作り上げたものだったわけです。
             (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン27 気軽に行ける大英博物館③

2024-04-07 15:31:13 | Weblog
写真はメソポタミアの間の入口。メソポタミア関連ははぎ取った石像が中心。今回の主題の古代エジプトの間はすべてが私の感覚と相いれなかったので、写真を撮ることが、私にはできなかった(写真を撮っていいことになっていました)


その後、何回かに分けていった大英博物館で印象的だったものをご紹介しましょう。

大英博物館の常設展示でやはり、すごいのがエジプトや中東、そしてギリシャ・ヘレニズム文化です。19世紀はギリシャの遺跡の多い地域のほとんどがトルコ(オスマン帝国)の版図だったので中東の領域ともいえるのです。大英博物館の収蔵物の多くは侵略の歴史と軌を一にしているので、経緯からいってもそうなります。では、エジプトから。

【古代エジプトの間】
 4大文明の発祥の一つ、古代エジプトの展覧会は日本で大人気。私も上野の博物館に 古代エジプトのミイラやかの有名な黄金のマスクを見に行ったことがあります。あれはいつのことだったのかとネットで調べて驚きました。
 2,3年に一度の割合で全国を巡回する規模の古代エジプト展が開催されていたのです。しかも大英博物館からだったり、エジプトのカイロ博物館だったり、はたまたドイツのベルリン博物館だったりと様々。私のいった展示会はもはや特定困難なほどの多さでした。

 日本では、大勢の黒い頭の先にチラリとみるのがせいいっぱい。しかも暗がりに浮かび上がるような照明です。雰囲気もあいまって、ミイラなどは直視できず、呪いやらロマンやらを想像しながら早歩きして通り過ぎておりました。

ところが大英博物館では全然、違いました。すごい数のミイラがおとなりのお兄さんが
「横に立っていますよ」
 レベルで並んでいるのです。古びた木枠にガラスがはめ込まれたケースの中で煌々と電気に照らされたなかで、ずらずらと並んでいるのです。立ち上がった寝袋がいっぱいある感じ。それらは眠る姿勢をとることすら許されません。

日本で私が見た展覧会では、一体のみが薄暗がりの中、うやうやしくお棺のなかで横たわり、お眠りになってらっしゃる感じでした。(私は行っていないのですが)2021年には上野の国立科学博物館で「大英博物館のミイラ展」というズバリ、ミイラに絞った展示会ですら6体だったそう。

また大英博物館は、それほど混んではいないので、ゆっくり見ることができて、写真も撮り放題。この部屋にいると、イギリス人の、死や死体に対する感覚の違いを感じざるをえません。ある意味、展示としては正しいのかも。

この部屋には人だけでなく猫のミイラ、また臓物が入っていた壺やきらびやかな副葬品、何重もの入れ子になったお棺などなどが、白い光の中で雑然と並んでいました。あまりのあっけらかんさにちょっと気持ち悪くなってしまったのでした。
一方、家人は全く平気。これも感覚の違いなのでしょう。
(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン26 気軽にいける大英博物館②

2024-03-31 11:21:37 | Weblog
大英博物館近くのお店。大英博物館の「マンガ展」のポスターや萩尾望都が描く表紙の「月刊flowers」、「となりのトトロ」のトトロと「千と千尋の神隠し」のカオナシが一つの絵になった原画風のものなどが浮世絵とともに売られていた。

【日本ギャラリー】
中国や日本のものの展示には目を見張るような展示はありません。日本だとやはり浮世絵などの紙が中心となるのか退色を心配してるのでしょうか。せいぜい漆器や陶器が目を引く程度です。しかもアジアの一部としてざっくりと。

軽い失望を感じつつ日本などの展示の上階に向かって古めかしい石の階段で上がると、「三菱商事日本ギャラリー」というポスターが目に入りました。やはり無料の展示室で、三菱商事が出資している部屋とのこと。ずいぶんと落とした照明のなか、戦国時代の甲冑や喜多川歌麿の遊女をモチーフにした肉筆画などが展示されていました。いかにも欧米人が思い浮かべる「ザ・日本」の部屋。解説もほとんどなく、やはりざっくりとしています。

【(日本の)マンガ展】
 ただ、ちょうど日本のマンガを取り上げた「The Citi exhibition Mangaマンガ」展が開催中でこちらが大いににぎわっていました。特別展会場は有料で、この展示会は19.5ポンド、とウインブルドンの入場券15ポンドよりお高めでしたが、入ってみました。入口のポスターはゴールデンカムイのヒロイン・アシリパが毅然と遠くを見つけている絵。

当時はゴールデンカムイのマンガを私自身読んでいなかったので、アシリパの絵を見て「新しいマンガが中心なのかな」くらいしか感慨はありません(帰国後しっかりと見ました。アイヌ文化の部分がおもしろくて、いまや小学生も「熊とは食べるんだぜ。ゴールデンカムイでみた」などと食育にも役立つマンガになっています。)

展示は暗い照明の中、日本の有名マンガが展示され、文化としてわかりやすく流れを追った展示となっていました。コマ割りをどの順番で読むか、といったマンガに慣れ親しんだ人には空気のような作法に英語で解説がされていると、なんだかくすぐったいような気持ちに。

手塚治虫『新宝島』『鉄腕アトム』、鳥山明『ドラゴンボール』、石森(石ノ森)章太郎『サイボーグ009』などおもに少年マンガを中心に構成。さらに浮世絵(春画含む)の展示や圧巻は河鍋暁斎の作品《新富座妖怪引幕》(1880年)。デフォルメされた妖怪が決め顔でこちらを向くカラーの筆画で、妖怪らは当時、活躍していた歌舞伎役者がモデルとなったいかにもマンガ的な芝居小屋の幕の絵です。いろんな関連からルーツを探ってくるなアと面白くみました。
マンガから派生した文化として、コスプレやガンプラなどのプラモデル、ポケモンゲームなどもきちんと展示されていました。

2019年というタイミングでのこの展覧会は日本のマンガの爛熟期をあらわすにはちょうどいい時期の展覧会だったと今は思います。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度目のロンドン25 大英博物館①

2024-03-24 12:00:37 | Weblog
大英博物館の入り口では、厳格な荷物検査が行われていた。大英図書館でもあったが、入場者数が多いので入るまでに時間がかかる。

【寄付で運営される博物館】
 かつて(30年ほど前)ロンドンに寄った時のこと。地下鉄を降りて、予備知識もなくふらりと寄った大英博物館。
 するといきなり目の前に、かの有名なロゼッタストーンが。そのほか、中東の石像の数々が高い天井が特徴的な建物の一階に、ずらりと並んでいました。解説はほとんどなく、開放的な空間に戸惑う私。
 これら本物の風情を醸す物体を横目に、チケット売り場を探したのですが、どこにも見当たりません。日本では一流美術品はとにかくチケット買わないとみられないという常識に完全に毒されていて、まさか無料とは考えもつきませんでした。そのため、本物を探し求めて大英博物館の一角だけをさまよって、立ち去ったのでした。

 以来30年。入場料を払って来日する大英博物館展を見ては、ため息をつく日々。

それが今日、終わるのです。

 朝10時に行くと、私の記憶とは異なっていて、入口では厳格な荷物検査のテントがあり、そこを通過するために行列ができていました。
相変わらず入場料はなし。ただ、寄付ボックスがそっと置かれていて、「気持ちをいれて」と書かれていました。

 寄付で社会を回す文化と知らなかったかつての私が気づかなかったボックスに、気持ちのお金を投じて、ようやく周りを見渡す気分になれました。

かつてのようにスーッと道を歩くようには博物館に入ることはもはや治安が許さず。文化が囲い込まれた空間に、かつてを知る人は違和感を覚えることでしょう。が、悲しいことに日本の常識にどっぷりつかった私には入場を意識することが、館内の価値を高める大切なセレモニーなのだと自覚しました。
博物館は思った以上に巨大でした。今日のうちに全部を見るのは不可能なので、まずはアジア系の部屋に絞ってみることにしました。
     (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする