写真は、馬の背に載せる背負子。左右均等の重さになるように割られた塩が付けられている。雲南の北部の山奥では塩水がわき出る泉があり、それを中華鍋のような形の釜で煮詰め、乾かして、馬の背で遠路まで搬送した。最盛期は明・清期だったという。(2004年、黒井にて)
【フビライからの厚き信頼】
サイジャチは前回のようにモンゴル帝国姻戚の雲南王の心を溶かしたばかりでなく、元の最高権力者・フビライからも厚く信頼を寄せられていました。
ご存じのように難局の雲南に彼はフビライ直々の命で派遣されたわけですが、なにせ中央との距離の遠さから、
「サイジャチが雲南でよからぬことをしている」
との讒言をフビライに言いつのって、サイジャチを失脚させようとする動きがずいぶんありました。
そのときフビライはきっぱりと
「サイジャチがもっとも国のために働いているのだ。そのことを私が一番よく、知っている。彼を誣告するおまえたちこそ何者ぞ!」
と言い切ってしまうほど信頼していたのでした。
【周辺諸国の王からの信頼も勝ち取る】
次に雲南から東南アジア諸国との外交をみてみましょう。(同じく『元史』サイジャチ伝より)
コーチシナ(ベトナム北部。余談だがフランス統治下ではベトナム南部を指す用語に転用された。)で叛乱が起こり、湖広省(元の時代に湖北・湖南から広東・広西までの一帯をさした)のモンゴル兵が、しばしば派兵されましたが反乱を鎮めることができませんでした。そこで雲南を治めていたサイジャチがコーチシナに使者を派遣し、ものの道理を諭し、さらに義兄弟の盟約を交わすことにしました。
コーチシナ王は大いに喜んで、自ら雲南にやってきますと、サイジャチは(城の外の)郊外まで迎えに行き、待ち受けて賓礼を行うという最高の礼の形を示したのです。ついにコーチシナ王が願い出て永遠に属国となったのでした。
(つづく)
*中国では「礼」の形については、それこそ5000年の歴史があります。細かい等級に分かれ、動作のあり方、食べ物の種類、配置など全部、決まっているのです。城の外まで最高権力者みずからが出迎える、というのは本当に異例中の異例。
いま、小泉政権から北朝鮮問題に取り組んでいた飯島氏への出迎えについて、ニュースに流れていますが、どの時にだれが応対して、座る位置はどうだったか、食事はどうだったかなど、詳細に検討する必要が、北朝鮮の外交についてはあるようですが、これも中国の伝統「礼」のあり方の踏襲なのです。
【フビライからの厚き信頼】
サイジャチは前回のようにモンゴル帝国姻戚の雲南王の心を溶かしたばかりでなく、元の最高権力者・フビライからも厚く信頼を寄せられていました。
ご存じのように難局の雲南に彼はフビライ直々の命で派遣されたわけですが、なにせ中央との距離の遠さから、
「サイジャチが雲南でよからぬことをしている」
との讒言をフビライに言いつのって、サイジャチを失脚させようとする動きがずいぶんありました。
そのときフビライはきっぱりと
「サイジャチがもっとも国のために働いているのだ。そのことを私が一番よく、知っている。彼を誣告するおまえたちこそ何者ぞ!」
と言い切ってしまうほど信頼していたのでした。
【周辺諸国の王からの信頼も勝ち取る】
次に雲南から東南アジア諸国との外交をみてみましょう。(同じく『元史』サイジャチ伝より)
コーチシナ(ベトナム北部。余談だがフランス統治下ではベトナム南部を指す用語に転用された。)で叛乱が起こり、湖広省(元の時代に湖北・湖南から広東・広西までの一帯をさした)のモンゴル兵が、しばしば派兵されましたが反乱を鎮めることができませんでした。そこで雲南を治めていたサイジャチがコーチシナに使者を派遣し、ものの道理を諭し、さらに義兄弟の盟約を交わすことにしました。
コーチシナ王は大いに喜んで、自ら雲南にやってきますと、サイジャチは(城の外の)郊外まで迎えに行き、待ち受けて賓礼を行うという最高の礼の形を示したのです。ついにコーチシナ王が願い出て永遠に属国となったのでした。
(つづく)
*中国では「礼」の形については、それこそ5000年の歴史があります。細かい等級に分かれ、動作のあり方、食べ物の種類、配置など全部、決まっているのです。城の外まで最高権力者みずからが出迎える、というのは本当に異例中の異例。
いま、小泉政権から北朝鮮問題に取り組んでいた飯島氏への出迎えについて、ニュースに流れていますが、どの時にだれが応対して、座る位置はどうだったか、食事はどうだったかなど、詳細に検討する必要が、北朝鮮の外交についてはあるようですが、これも中国の伝統「礼」のあり方の踏襲なのです。