雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

明の楊慎の酒4 陶淵明とのつながり

2017-01-28 14:39:39 | Weblog

写真は雲南の文山地区の白酒の一つ「小村姑」。村の娘、という素朴なネーミングだが、じつは地名でもある。トウモロコシと八宝香米と水で発酵されたもの。「小曲清香型」と小さく書かれているのは、酒の特徴を記したもの。

曲は音楽のことではなく、麹(コウジ)を穀類を砕いて水で溶いて固めて煉瓦状にし、クモノスカビを生やせた「麯」をつくるのだが、その簡体字が「曲」。小曲は餅麹が一般に小さい形をしていて、お米を主体にして香草(薬材)を混ぜ込んだもの。香草は地域により蔵により異なり、数十種類をブレンドしたものもある。大曲は煉瓦状の大きなもので代表的なものは麦、エンドウ豆などでつくられる。ほかふすまを固めた麸曲との3つが代表的な餅こうじだ。
雲南の西南地区はたいていが「小曲」。家内制工場には使いやすいタイプなのだ。

白酒は香りが特徴なので香りにもいろいろある。「清香型」はさわやかな香り。ほかに「醤香型」「濃香型」「兼香型」「米香型」など、さまざまな呼び名がある。

【陶淵明の酒】
六朝時代の陶淵明の詩の一つ「飲酒」の第20首に

「若(も)し復(ま)た快飲せずんば、空(むな)しく頭上の巾(きん)に負(そむ)かん〈快く酒でも飲まなければ、せっかくかぶっている酒漉しの頭巾に申し訳がたたぬ〉」

と書かれています。つまり自分の頭巾で酒を漉していたのです。

当時、自家用の酒などは甘酒のようにどろどろとしたまま、熟成させていました。頭巾は麻など、目の粗い素材。漉して飲む、ということは蒸留酒ではなく、醸造酒だったことがわかります。

陶淵明といえば、日本でも中学や高校の国語の教科書で田舎に帰って自由な生活をおくろうという『帰去来の辞』や桃源郷の言葉の起源ともなった『桃花源記』が有名な詩人。当時の政治の腐敗を嫌い、官僚から身を引いて、田舎暮らしを楽しもうとした詩で知られています。

楊慎は自らの境遇を重ねて、陶淵明をきどって酒を頭巾で漉したのかもしれません。
※茂田井円・松井康子「陶淵明と酒」(『日本醸造協会誌』第86巻、第8号、1991)

(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明の楊慎の酒3 酒を漉す

2017-01-21 14:42:13 | Weblog
写真は大理の名刹・弘聖寺(旧名・王舎寺)塔。楊慎らはこれらの寺詣でをしつつ、酒と詩作に明けるくれる旅をした。本文の宝華寺とともに上記の寺も詣でている。
上記は楊慎が訪れる300年以上前の大理国時期(938-1253)の塔で、今はなくなってしまった寺院は明代に建設されていた。にぎわっていたのだろう。

【「巾」が「中」に】
楊慎が雲南に流されて6年目の旧暦2月。春の初めに雲南は大理の友人・李元陽[字は中谿1490年―1580年]の案内で大理の點蒼山のお寺や名所を訪ねました。嘉靖9年(1530年)のことです。

「名山巌洞泉石古蹟」の中の一篇「遊點蒼山記」は楊慎が記した気ままな旅の記録です。40日という長期の旅のうちの8日ほどを記したものですが、名所に行っては「酌酒」をする様子が楽しげに綴られています。

沿溪而西過獨木橋、升寶華寺。其地多花卉、紅紫膠轕乃移枕簟以息。中谿弟仲春、叔期、季和預煮罇酒於叢薄巾、忽從滴乳巖傍出見、不覺、驚喜拍手、大笑因引滿盡醉。
(『中国西南地理史料叢刊 第24冊、p80』及び文字解釈は「漢籍リポジトリ」京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センターより)

「渓谷にそって西に進んで獨木橋を過ぎると、宝華寺に着く。多くの花が赤や紫色に入り乱れて咲いているので、そこに枕を移して休むこととする。

中谿の弟たちがあらかじめ酒樽ごと酒を煮て(あたため)、(コーヒーフィルターのように先のすぼまった)薄い頭巾で入れると、たちまち(漉されて)しずくが乳の腫れものから出るようにあふれ出るのを見て、思わず驚喜して手を叩き、大いに笑って杯に酒をなみなみと盛って、ついに酔う。」

私が薄い頭巾と訳した箇所は、いくつか記された原文が不鮮明なため、「薄中」と印字する書籍が主流となっています。が、今回は明の万暦4年刻《天下名山諸勝一覧記》の影印本を見たところ、明らかに「中」ではなく「巾」字だったので、その文字で解釈しました。

おそらく、「巾」では読み解けない、と思って「中」の字にしたのでしょうが、じつは頭巾と酒の関係は、中国の六朝時代から記されているのです。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明の楊慎の酒2

2017-01-14 15:57:38 | Weblog
写真は昆明にほど近い安寧温泉の入り口の摩崖石刻群。
明清、二つの時代の文人墨客がこの温泉に来ては、開放的な気分に浸り、文字や詩を残していった。全部で160余幅、刻まれてる。 明の時代より、有名な温泉地となっていて、近くには寺もあり、昆明からもほど近く、雲南の文人のあこがれの遊湯地だった。
流人として雲南になってきてほどなく、この場所に移れたなら、どんなにほがらかな気分になったことだろう。

【雲南を愛し、愛された楊慎】
まだまだ雲南で学問をするのに書物も限られ、先生も限られていたときに、流人としてスーパーエリートが雲南にやってきました。ミャンマーにも近く、まだまだ治安も不安定な永昌の地ではたいへんだと、雲南の人士は、すぐに対応します。

流された翌年の1525年春に温泉地として今でも有名な安寧の地に彼を招いて、自由度の高い生活環境を整えました。

ここで楊慎は温泉つきの家を持ち、人々の尊敬のまなざしを受け、それなりに快適な生活を送りました。

栄達の望みは絶えたものの、雲南で彼が記した本などを読むと、じつにほがらかで、人生を楽しみ、雲南でできた友人らを大切にしていた様子が見て取れます。

そればかりか当時、雲南の地位の高い人でも、知ろうとはしない少数民族の言葉も自ら学んで、彼らとも挨拶を交わすなど、心の奥底はともかくとして、伸びやかな雲南ライフを送りました。

有り余った時間を使い、その境涯の中で記した著作は3000巻。どれだけ執筆をしたのか、と思うほどの半端でない量です。彼のおかげで残った雲南関係の歴史書も数多くあります。
他に彼に私淑する人々に詩の指導なども積極的に行って楊慎派、とよばれる雲南の文学界を後に牽引する人々を何人も育てたのです。

その彼が愛したことが、詩作と酒。酒の描写が、とても具体的です。次回はその話を。(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲南の酒・明の楊慎の酒 1

2017-01-02 10:55:17 | Weblog

写真は雲南・建水で大量に作られている陶器の一つ。酒樽、漬け物、植木鉢、なんにでも使われる。
建水では紫砂陶とよばれる赤みがかった陶器が有名でコレクター内で高値で取引されるものもあるほど、陶器生産がさかん。普段使いの温かみのある雰囲気がよく、昆明など各地の市場でも気軽に買うことができた。(建水の街角にて。売り物ではなく、個人宅の窓辺に置かれていた)

【スーパーエリートが飲んだ酒】
元から明の時代となると、モンゴル民族中心の世界から漢民族中心の社会になりました。元の最新飲料の蒸留酒はその後、どうなったでしょう。

 その一端として手がかりとなるのは雲南でのお酒の記述をよく残しているのが明の楊慎(明孝宗弘治元年1488-1559)です。

 彼は、雲南の文学に大きな足跡を残しました。現在の成都に近い四川省新都県に生まれ、24歳(正徳六年1511)の時に科挙の最終試験(殿試)で状元(首席のこと)となり政界入りしたスーパーエリート。

そんな彼が雲南に来たのは、当時、自堕落な生活で政治の乱れを作っていた明の皇帝・武宗に何度も諫言をしたためでした。
ついに37歳(嘉靖三年1524)で平民に落とされて雲南の永昌(今の保山県・ミャンマーに近いあたり)に流されました。そして72歳(嘉靖38年1559)、雲南にて病没します。(※)
(※『明史』列伝巻192)

かつて明の時代、中国にとって雲南は流刑の地でもあったのですね。ともかく、当ブログの「雲南の牛」の項でも書いたように明は政策的にどんどん漢民族を雲南各要衝に屯田兵として大規模に送り込んでいました。
楊慎が雲南にやってきたのは、大規模移民がはじまってから百数十年が経過した頃です。
なかで永昌は明の時代となった後でも金歯族など各民族が強行に漢族の侵入と支配に抵抗し、その征圧に苦労していた土地でした。楊慎が配流されたころ、1522年と1524年に相次いで永昌は行政区を大幅に変革しています。明朝支配地のマージナル(境界域)の地だったのでしょう。
(つづく)

◇新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
先の見通しにくい世の中ですが、そういうときこそほんとうの歴史は大切です。
とはいえ、差し迫った話ではなく、このブログでは、ほっと、肩の力が抜ける内容を目指します。

次週の更新はお休みします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする