雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

沐英4

2013-07-27 17:00:50 | Weblog
雲南の四川よりの山間の渓谷の街・黒井の清朝に栄え、科挙の合格者も出していた家の庭に転がっていた砂岩質の置物。かなり古そうだ。手足がもがれているが、馬か、伝説の生き物・麒麟か龍か?
 物流に今も使われている雲南の労働馬は、ロバのような小型な出で立ちだが、この置物は何をモチーフにしているのだろう・・。

【明軍主力が集結までのおさらい】
ちょっと、沐英から話が脱線しますが、明軍が雲南攻めに至るまでの過程をざっと概観しておきますと・・。

 朱元璋は、1368年、元の首都・北京から元の皇帝をモンゴル高原に追いやり、明王朝を打ち立て初代皇帝となりました。
 新王朝を打ち立てたとはいえ、中国各地に元の勢力がいまだに幅を利かせているのが実情で、福建、広東、広西、四川には元の軍隊が、さらに雲南には元朝の血筋の梁王が君臨していました。モンゴル高原に追いやられた勢力は雲南の元軍と連携して、元を復活させん、ともくろんでいました。

そんな中、朱元璋麾下は福建、広東、広西、四川を次々と打ち破り、いよいよ雲南に元軍を追い詰めていきます。

 一方、朱元璋は戦力を交えずに雲南を勢力下に治めたいと考えていました。雲南は地形の複雑で、距離もある、まともに戦えば軍の消耗は激しくなることが容易に予想されたためです。そこで5度、雲南に使者を送ったのですが、その都度、梁王に使者が殺されてしまいました。

 最後の手段として、いよいよ歴戦のスター将軍が居並ぶ主力軍を遠征させることになったのです。
さて、次回、明軍の雲南征伐の初戦にして、もっともハイライトな部分をみてみましょう。
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もう一人の雲南回族の功労者・沐英3

2013-07-20 18:29:07 | Weblog
写真は福建省屏南の山奥の渓谷。福建省全体が中小の盆地の集合体のような地形をしており、人知れずの風情ただよう渓谷がひしめきあっている。福建での戦闘が分水嶺争いにあることは必定なのである(2001年8月撮影。)

【デビュー戦から華々しい活躍】
 さて、1363年、18才の時に帳前都尉(※1)に任命され、長江下流の交通の要衝地である鎮江(※2)を守護し信頼されます。
 さらに福建への征伐戦で、分水嶺の関所を破り、攻略戦では数々の手柄を挙げたため沐の姓に戻ることが許されました。(どうやら一家ののれんを掲げることを許された、ということの意味合いのようです。)

 さて、その後も数々の戦闘で活躍し、洪武14年(1381年)、37才の時に、征南将軍の傅友徳に従って、同じく副将の藍玉とともに征南右副将軍に任命されて雲南攻めに突入しました。

【補注・不思議な肩書き】
 沐英はデビュー戦以来、どんどん肩書きが登っていくのですが、最初に付けられた「帳前都尉」という肩書きはどれほどの位なのでしょう。じつは調べていくと、歴史上、沐英しか、見あたりません。インターネットで「帳前都尉」と入れると、「沐英」にダイレクトにヒットするほどです。

(※1)そもそも「都尉」とは、武官の中程度の位。今でいうと課長クラス。
 前漢時代に各地の軍を統括する位になったらしい。一度、後漢の光武帝が廃止したものの、三国時代やその後の時代にしばしば軍事行動の際に辺境地を治める役として設定されました。(「官位職官表」http://shuishanglouge.fc2web.com/guanwei.htmlほか)

 そして「帳前」。遼の制度を真似た西夏には中央侍衛軍より選抜した親衛隊がありました。その名は「帳前侍衛親軍」。弓術や馬術がすぐれた豪族の子弟が選ばれていたそうです。西夏を滅ぼした元朝に引き継がれ「御帳前首千戸」という宿衛軍となりました。
 つまり「帳前」は選び抜かれた親衛隊の意味のようです。元末の男子にはあこがれ響きがあったのでしょう。

 元末、明朝建国前の頃、朱元璋は気に入った配下に最初に与える位に「帳前」○○という肩書きをしばしば与えています。
 たとえば朱元璋の部下になろうと、母を軍中に置き、妻を捨てて臣従した趙徳勝には、「帳前先鋒」という位をまず与えました。数々の戦いで常に前線で活躍し、朱元璋の天下取りに大いに貢献した趙徳勝の肩書きです。常に戦闘の前線に立つことを期待された位だったようです。

 子どもがチャンバラごっこで「おまえ、親衛隊一番隊長な!」などとガキ大将がつけるような気楽さで、朱元璋が聞き知った肩書きを二つ合わせてつけたのでしょう。この肩書きからも沐英が朱元璋の子飼いとして期待されていたことが十分にうかがえます。

※2 鎮江:江蘇省西南にある。古くから長江と大運河の交差点として栄えた。古くは呉の孫権が都に置いたこともある。    (つづく)
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もう一人の雲南回族の功労者・沐英2

2013-07-14 11:19:33 | Weblog
写真は、昆明の西隣・宜良の市場の肉売り場。「老何羊肉館」とは、何さんの羊肉店、という意味。この売り場の奥には豚肉コーナーが見える。
 このように雲南では、多くの地域で当たり前のように羊肉を売るコーナーが設けられていることが多い。羊肉の煮物や鍋料理は大好物だ。値段も鶏肉よりもは高いが豚肉とさほど変わらない。
売っている人は人口が圧倒的に勝る漢族の人もいるが、回族の比率が高いようだ。

【必殺仕事人・沐英】
 前回、雲南開発の歴史を学び、発展に貢献しよう、というスローガンに掲げられた沐英は、元初期のサイジャチほどの傑物ではありませんが、やはり仕事人としては一流の人物でした。

 まず明(1368年~1644年)代初期、つまり元朝滅亡に長らく雲南に君臨していた元帝室筋の雲南王・梁王を洪武14年12月22日(1382年1月6日)に、直接的に死に追いやった武人です。
 といっても体育会系の武将タイプではなく、明の建国者・朱元璋の命令で雲南討伐の副将として命じられた仕事をやりとげた、今なら有能なサラリーマン社長、といったところでしょうか?

 出自は孤児です。(『明史』巻126、列伝第14 李文忠・鄭愈・湯和・沐英 ほか より)

 中国でも貧しい地域といわれる安徽省定遠の出身。幼い時に父が死に、母とともに戦乱の世を逃げまどっていましたが、その母も死に、一説では8才で孤児となりました。そんなとき、複数の戦争孤児の面倒を見ていた朱元璋夫妻が養子として引き取り、姓を(石扁+朱で一文字)と改姓させました。

(ちなみに朱元璋には実の子が男26人、女18人います。孤児を拾っては育てたのは、朱元璋自身も孤児出身の苦労人だからでしょう。当時は朱元璋配下の将軍級の人が遠征先で戦争孤児を拾うことは珍しくありませんでした。元末の中原地域は戦乱の世が長く続く、想像を絶するひどい世の中だったわけです。)

 小さな時から明敏で、事務仕事も滞ることなく確実。それでいておとなしい子だったため、皇后はしばしばその才能をたたえ、朱元璋は「器が重い」と認めていました。   (つづく)

*沐英は、短めに終わる予定でしたが、彼の兄弟も含め、なかなかの運命の変転の持ち主なので、少し詳しく見てみます。毎日、猛暑ですが、お付き合いください。
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もう一人の雲南回族の功労者・沐英1

2013-07-05 21:33:08 | Weblog
写真は雲南大学のキャンパスにある雲南貢院。ここでかつては、雲南地域の学徒を対象とした科挙の試験が行われていた。雲南大学は1922年の私立の東陸大学に起源を持つ中国西部地域でも歴史のある大学の一つ。1938年に国立雲南大学に改称され、現在に至る。
 キャンパスはこの雲南貢院もある昆明中心部の緑豊かで小ぶりながら立地環境抜群の本部キャンパスと、他に郊外に一つ持つ。2010年から徐々に大学の施設を設置し、移動を続ける呈貢キャンパスがある。ただ呈貢地区は昆明中心部からバス一時間以上の遠いところにあり、つい最近まで田畑や荒れ地だったところを昆明市の拡大をにらんで作った新都市のため、ただ巨大なだけで、移動がたいへんと学生や教職員には不評である。かつて、東京23区から研究学園都市として作られた「つくば」のようなもの。やがては地下鉄が通ることになっているので、そうすれば不満も解消されると見込まれている。

【雲南開発のスローガンに】
 2013年5月25日、雲南大学である会議が行われていました。
中国の回族研究の始祖ともいえる雲南回族研究会と雲南省史学会が主催し、出席者は省内外の歴史研究者47名と沐氏の末裔3名です。

出席者の一人、雲南大学もと党委員会書記にして雲南回族研究会会長の高発元が「歴史上の雲南開発の経験を教訓にして、継続して雲南開発すべきである」と宣言し、サインをした。その会議の名は「沐英と辺境開発」(『春城晩報』2013年5月26日「学者研討沐英与辺境開発」より)

 回族とはイスラム教を信奉する人々。
 多くはアラビアやペルシャ由来の人々で、雲南では元の初期に雲南を治めたサイード・シャムスッディーンが最も有名なことは前の章でじっくり書きました。彼は雲南の回族の範囲におさまらず、中国の回族の尊敬をいまだに集め続ける偉大な回族といわれています。(王鋒著『回族歴史文化教程』中国社会科学出版社、2012年6月出版-中国の回族が歴史や文化を学ぶ教科書より)

 その彼をさしおいて、これから雲南に興ろうとする運動に掲げられた人物・沐英とは何者なのでしょうか?それはその次の回で。                      (つづく)

(しかし、中国は歴史上の人物を政治運動のスローガンにかかげるのがつくづく好きですね。日本人と違って、歴史は過去のものではなく「今」なのでしょう。それが日本人の感覚では理解できず、政治的摩擦の遠因となっていると思われます)

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