雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル107 エル・グレコ美術館(トレド)

2023-06-25 15:50:45 | Weblog
写真はエル・グレコ美術館の外観。美術館というより、私邸を開放したという雰囲気だ。

【エル・グレコ美術館(Museo del Greco)】
トレドのトラベルガイドに必ず登場するエル・グレコ(1541-1614)。彼が描いた対岸からみたトレドの景色は、今も変わらないと言われます。トレド・トレイン・ビジョンの時に、このブログでアップした、あの景色です。

エル・グレコは「ギリシャ人」という意味のイタリア語にスペイン語の定冠詞「エル」がついたあだ名です。本人は絵にサインを入れる時はギリシャ文字で本名ドメニコス・テオトコプーロスと入れていました。ヴェネチア領クレタ島に生まれ、後半生をトレドで暮らしました。

エル・グレコの絵は、一度、見るとけっして忘れることができないインパクトがあります。気迫でしょうか? 傑作と呼び声の高い絵ほど、その傾向が強いのです。白が浮き出た皮膚の感じと、人やものが縦長に伸びて、溶けているような不思議な絵。見つづけていると、荘厳な精神性が流れ込んでくる感覚があるのですが、一見したときの正直な感想は「少女まんがっぽい」でした。

手足が長く、小顔でほっそりとした人物群、中心キャラが立つように配された独特な構図、よくみると目にはキラキラの星だって描かれています。

縦長に伸びたぐにーん感は動きを動きのまま、とらえようとした工夫のように思えてきます。彼の絵の発する独創的空間には、詩的寓意がたっぷりとつまっているよう。鬼気迫る感じで怖い。

もし、自分がこの画家に肖像画を頼んでこんな絵が渡されたら、悩むなあと、ありもしない妄想が膨らんできました。じっさいに教会が彼に宗教画を発注し、出来上がった絵の受け取りを拒否したり、破格の値下げ交渉をして、応じざるをえない状況にエル・グレコが立たされたり、といったことがあったようです。

そのような独特の人物画に比べると、風景画はじつに精密で、彼の力量の確かさがわかります。

エル・グレコの大作はマドリードのプラド美術館やトレドのサント・トメ教会が有名ですが、この美術館は彼の絵と至近で向き合うには適した空間だと感じました。

もともとエル・グレコが住んでいた地区の廃墟を1906年にベガ・インクラン侯爵が購入して修復し、彼が生きたころの調度類を並べ、海外に流出しかけていたエル・グレコの作品を私財を投じて買い集め、1912年に公開したのが始まりの美術館。別名「エル・グレコの家」とも呼ばれていますが、前述のとおり、本当の家ではなく、その近くに住んでいただろう、という場所です。

いまは国営ですが、そもそもがスペインのパラドールの祖をつくるなど、スペインツーリズムの礎を築いた侯爵が手掛けた美術館。氏のなみなみならぬ情熱のなせる業か、驚くほど素直にエル・グレコの絵に向き合うことができました。
                        (つづく)
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スペインとポルトガル106 モーロ博物館(トレド)

2023-06-18 10:48:17 | Weblog
モーロ博物館内に展示されていたイスラム式水道管の一部。一見、青銅製かと思ったが、焼成煉瓦の上に釉薬をかけて仕上げた、と解説がついていた。

【モーロ博物館(MUSEO TALLER DEL MORO)】
トレドでもっとも混むサント・トメ教会の近くにあり、14世紀のムデハル様式の建物がよく保存されています。当時のイスラム由来の水道管の一部、装飾された井戸の縁石などが一つ一つ丁寧にガラスケースに納められ、詳細な解説が英語でもついています。

博物館内に掲げられていた19世紀半ばにこの建物を描いリトグラフを見ると、当時、建物の立派さは知られていたものの、人が住んだり、寺院になっていたりというこてはすでになかったようで、馬でそのまま通過したり、倉庫に使われていたような、荒れ果てた様子。

「なんか昔はたいした建物だったらしいぜ」
「へえ、そういや、風格があるな」

なんて声が聞こえてきそう。
1931年に歴史的建築物として国の指定がなされ、1963年に整備されて博物館として公開されました。トレドにあるイスラム建築を構造から知りたい方にはおすすめです。
https://cultura.castillalamancha.es/museos/nuestros-museos/museo-taller-del-moro
※上記のような小さな博物館がトレドのあちこちにあります。さすが、歴史の混み入りと、ある時から時が止って17世紀から完全保存された街ならではの深さ。
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スペインとポルトガル105 西ゴート博物館・下 設立のわけは?

2023-06-11 10:29:54 | Weblog
写真はトレドで最も有名な名所であるサントトメ教会とカテドラルをつなぐ道沿いの小さな教会エル・サルバドール教会(Iglesia del Salvador)。古代ローマ時代の遺跡の上に建っていて、壁はローマ後期から西ゴート時代に建てられたままのもの。建物全体は9世紀のイスラームのモスクで、その後、塔を建てて教会とした。教会に設置された解説文には「初期キリスト教会もしくは西ゴート時代の教会の形態を残すユニークなピラスター(壁の一部を張り出した柱形)などが見て取れる」と書かれている。見落としがちだが、ローマ時代の生の遺構を見ることもでき、トレドの複雑な歴史を体感できる。


【フランコの後継指名の時期に開館】
 スペインの人にとってはどうやら常識らしいのですが、私自身が西ゴートをあまりにも知らなすぎると思ったので、もう少し調べてみました。するとスペインにとって特別な意味を持つ国だとわかってきました。

西ゴート王国はスペインで最初に築かれたキリスト教国です。そのため

「スペイン・ナショナリズムの文脈で繰り返し参照される存在であり続けている。」(※1)

 のだそうです。

 アルフォンソ6世が1085年にトレドを攻め落としました。これをスペインでは「奪還」と表現します。たんに堅固なイスラム拠点を落としただけはなく「かつて西ゴート王国の首都であったトレドを取り戻した」(※2)ことを意味しました。つまり、イスラム側にとってもキリスト教側にとってもレコンキスタの文脈でたいへんなインパクトがあったのです。

となると、この博物館の成立年が気になってきました。するとやはり、意味ありげな年月日が浮かんできました。

西ゴート博物館がトレドに建設されることが法令化されたのが1969年5月6日。この年は長くスペインを独裁していたフランコ(将軍)が、後継者に前国王の孫、ファン・カルロスを指名した年です。その時の公告を(グーグル翻訳で)読むと、

「西ゴート時代は伝統的なスペイン人の団結精神の基層をなす」(※3)

と定義した上で、

「そのためこの博物館をトレドに設置する」

と書かれています。実際に翌年に開館しました。


※1 『スペインの歴史を知るための50章』立石博高、内村俊太編著、明石書店、2016年10月
※2『一冊でわかるスペイン史』永田智成、久木正雄編著、河出書房新社、2021年3月
※3 州官報:https://www.boe.es/boe/dias/1969/05/06/pdfs/A06778-06778.pdf
(つづく。次回はモーロ博物館です。)

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スペインとポルトガル104 トレドの博物館① 西ゴート博物館・上 

2023-06-04 17:27:45 | Weblog
西ゴート博物館にあった展示物の一つ。龍の首が長くて胴体があり、首の先にはあわれ、人が飲み込まれようとしている。

【博物館めぐり】
トレドについた翌日は日曜日。日曜は驚くべきことに博物館、美術館の多くが無料開放になっていました(場所によっては午後だけといった時間指定あり。)いずれも無料だというのにまったく混んでいませんでした。
トレドは星の数ほど博物館、美術館があるので、あまりサイトで紹介されていなかったり、見るコツが必要だったりしたところから紹介します。)

西ゴート博物館の入口。

【西ゴート博物館】
まず西ゴート博物館。「西ゴート」という単語は私の人生で記憶にあるのは高校時代の世界史の教科書のなかの数行のみ。たしか

アジアからフン族が移動したことによって、ゲルマン民族の大移動がおこり、「西ゴート」が5世紀初頭、ローマ帝国の首都ローマに迫り、ローマ人を震撼させた

みたいなことが書かれていたなあ、ぐらいしか記憶がありません。ある意味、興味津々。

改めてスペイン史をみると西ゴート王国はイスラムに攻略されるまでトレドを首都として200年弱(560年代~711年)栄えていたそうです。日本の歴史で考えると奈良時代に入る前に滅亡し、その地に他の文化が栄えたわけですから、美品はほとんどないのですが、19世紀にトレド郊外の農地で、石柱のかけらや「最後に貴族らが逃げる時に埋めたのでは」といわれる宝飾品が発現しました。それらを中心に本物やレプリカが展示されています。

博物館は13世紀に建てられたムデハル様式のサンロマン教会にあり、西ゴートの建物ではありませんが、建物自体にも歴史があり見ごたえ十分。木組みがすばらしく、荘厳です。

さて西ゴートの品々を一言でいうと、素朴。かといって振り切った独自性があるわけでもない。精巧なギリシャ彫刻の対極にあるような石の彫刻物が並んでいました。この感じは、中国の歴史展で殷の時代の精巧な青銅器を見た後に、漢の時代の昔のものをまねて量産化していってだんだん、形がゆるくなっていった墓に納められた品々を見ているよう。

そんな中で一番印象的だったのが、人がドラゴンに食われている石像でした。ヘタウマ系のためぱっとみ、よくわからなくて、かわいげすら感じるのですが、よく見るとモチーフが狂暴で、戦闘的。ただわかろうとして逆に見入ってしまい、後々まで記憶に残りました。

解説がスペイン語でほとんどわからなかったのですが、ローマ式の石柱の一部や鋳造された十字の花弁のようなものやコイン、鍵、などの小品からローマ文化の影響が感じられました。
日本では西ゴートを主題にした展覧会や、研究書は多くないので、行く価値はあります。
https://www.arukikata.co.jp/web/directory/item/102274/

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スペインとポルトガル103 トレドみやげ

2023-05-28 15:56:19 | Weblog
写真はトレド旧市街の刃物店。店の看板はとくにない。ここで買った1000円ほどのアーミーナイフは、その後、私のお気に入りに。

【土産もの】
 先週、クレジットカードの決済に苦労した話をしたので、ついでにみやげものの話を続けます。旅の最終地だったので、どうしても買い物に力点がいってしまいます。

トレドは、小さいながらも老舗も多く、魅力的な掘り出し物もありました。昔から鉄製品の加工や刀鍛冶職人で有名な土地柄だと聞きましたが、刃物の店は本当に魅力的。小さな通りにいっけん、ぽつんとあった角の名もなき刃物屋で見つけたアーミーナイフ。日本円で1000円ほどのものなのですが、これがすぐれものでした。ナイフはもちろんのこと、分解するとフォークとスプーンにもなり、当然ながら缶切りも栓抜きも付いていて、いうことなし。切れ味も抜群で今では旅の必需品となっています。
 トレド製ではないどころか、アメリカ製のようですが、ネットで調べても、同じタイプのものは見つからないので、そうとう刃物の目利きが厳選したものが並んだ店だったのでしょう。
 こちらが興味を持って質問すると、手取り足取り情熱をもって、店員二人がかりでとくとくと説明してくれる手厚さ。彼らの熱い気持ちが伝わってくるようでした。
 
トレド旧市街には各所にみやげもの風のものも含めて、中世の騎士が持つような剣や甲冑、普段使いの金物までスタイリッシュなものが並んだ刃物屋や武器屋、革製品屋さんがたくさんありました。

ペンダント(金や銀の小さなプレートに黒の複雑な模様のあるもの。)も1000円ほどですが、服になじみ、今でもたいへん重宝しています。同タイプものはアンダルシア地方およびモロッコなどのイスラム圏でも売られていますが、種類の多さと値段の安さは負けていませんでした。

他にスペイン製のおかしやチョコレート、香辛料など旅の最後の仕上げに買いこもうと、トレドの中心にある旧市街の市場や商店をみたものの、大量買いしたいし、日持ちの点で包装されたもののほうがいいと考えると食べ物はおみやげには向きません。そこでバスで郊外のスーパーマーケットに行きました。

写真はトレド郊外の大型スーパーマーケット

当然のようにクレジットカードが簡単に使えます。世界一高価なスパイスといわれる地中海料理に欠かせないサフランからメキシコで見かけた日本ではお目にかかれない様々な種類のトウガラシまで、普段づかいの価格で売られていました。
写真は、メキシコでも大量に売られていた大型のトウガラシ。小ナスのような小さな形のとうがらしなど、日本のピリ辛系と違って、カツオブシのようなうまみがある。

スペインはメキシコをかつて征服し、莫大な富を得ていた過去からも、今のスペイン料理にメキシコの影響が色濃いことがわかります。チョコも、中央アメリカ原産です。
 日本に帰ってから、様々な料理に重宝したこれらの品々。クルミも含め、スペインで購入したこれらの品は日本ではなかなか手に入らないので、おすすめです。とにかく安くて質がいい。

※次回は、トレドの博物館など、みどころについてです。
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スペインとポルトガル102  トレド・変わらぬ街と迷子

2023-05-21 14:45:00 | Weblog
写真はトレド旧市街の街並み。道は建物を間を縫うように幅が狭く、曲がりくねってついている。モンブランケーキのクリームの中を縫って歩いているような気持ちになった。

【カンも地図アプリもダメ】
三方向をタホ川に囲まれ標高500メートルの山に築かれたトレドは古くから要塞都市として、ローマ人、イスラム勢力、キリスト教徒と次々と為政者が交代していきました。

そして1561年に首都がマドリードに移るまで、スペインの事実上の首都として君臨。その後の首都の移転によって、その時代が冷凍保存されたように街並みがそのまま残りました。

今とほとんど変わることのない風景を、1584年には戦国時代に九州の大友宗麟らが派遣した天正遣欧使節団が、1614年には奥州の伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団がトレドに宿泊し眺めています。当時、すでに首都はマドリードに移転していたため、彼らはいずれも国王との謁見のために、すぐにマドリードに向かいました。

そして今もトレドは、息詰まるほどの狭く曲がりくねった小道が連なって小高い層をなしています。そのため教会の出口を出て、元に戻ろうと別の道を通って帰ろうとすると、方向は間違いないはずなのに、迷うのです。

自分でいうのもなんですが、方向感覚には自信があり、紙の地図を読んで歩くのは得意なのですが、ここでは勘はまったく通じません。
いっぽう、わが娘は、おそろしいほどの方向オンチなのですが、彼女は勘に一切頼ることなく、常にスマホを使って地図アプリで日頃の生活を乗り切っていました。ところが、この地図アプリも、トレドでは通じないのです。1メートル幅の狭い道が石の建物に挟まれているのため電波が通じず、たとえ電波が通じてもGPSがもっとも苦手とする立体地形なのです。

【カード決済にも支障が】
ほかにも困ったことがありました。トレドの小道脇の小さな雑貨店で地元産のクルミを買ったときのこと。カード可だというので、出すと店主がクレジットカードを読み取り機に挿したまま、黙って店を出て路地でウルトラマンが変身するときのように高々と掲げてあっちをウロウロ、こっちをウロウロ。やがて、電波にぶつかり、決済を終えて戻ってきました。これは日常のようです。
ちなみにこの狭い溝のような、複雑に曲がりくねった道は1000年以上前のイスラム統治時代の名残だそうです。
(つづく)

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スペインとポルトガル101 天空の城ラピュタのようなトレド

2023-05-14 12:32:55 | Weblog
写真は、トレドの街の対岸の展望台よりみたトレド。湾曲したタホ川に囲まれた要塞都市だということがよくわかる。マドリードに首都が移転するまで、長らく首都として君臨していた。

【ごきげんなトレド・トレイン・ビジョン】
 世界遺産に登録されているトレドの旧市街は湾曲するタホ川に囲まれた天然の要塞都市です。
その全貌を自分の足で歩き回らなくても、最高のロケーションで見られるツアーがありました。トレド トレインビジョン(TOLEDO TORAIN VISION)です。
 宿泊したホテルの真ん前、アルカサル(軍事博物館)の横に真っ赤なトロッコ列車のような形を模したミニバスが停まっていました。すでに何人か人が乗っていて、看板には一人6.5ユーロ(2023年現在は7ユーロ)でトレド旧市街を通って、外周まで遊覧できるツアーだと書かれています。時間は45分。

 ヨーロッパ中世に栄えた多くの街に共通することではあるのですが、トレドの街も小山なので、どこに行くにも坂道ばかり。疲れていたので、さっそく乗ることにしました。
 ちょうど出発というタイミング。機関車の横に立っていた受付の人にお金を払っておもちゃのような4人掛けのイスに座ると、目の前にイヤホンジャックでオーディオガイドを聞けるようになっていました。イヤホンも渡されていて、日本語の設定もあります。出発すると、流ちょうな日本語が流れ、目の前に見える景色の説明をしてくれました。

【数々みえる街のシンボル的門と橋の美しさ】
 曲がりくねった石畳を通ると、まず、14世紀に建てられた太陽の門(PUERTA DEL SOL)、さらに進むと、より趣のある門が見えてきました。ビサグラ新門(PUERTA DE BISAGRA)です。

 新門といっても1550年に当時のスペインの王カルロス1世(=神聖ローマ帝国カール5世)とその子フェリペ2世の命で建造したものなのでかなりのもの。名前の由来はアルフォンソ6世がトレドを奪還した際にくぐった9世紀にアラブの人が城壁に築いた門があり(その門の別名はアルフォンソ6世門)、それを旧門として、その横に造ったので新門と名付けたのでした。名前に「新」が残っちゃった感じは東京の「新宿」みたいなものでしょうか? 門の荘厳さにぞくぞくしました。

 この門をくぐると、中世の街から、外に出ます。

トレドの外周は意外と森だった。

 すぐにタホ川を渡り、そのまま直進するとトレド駅、それを川沿いに右に曲がって対岸の小山を登っていきます。途中、タホ川とトレド市内を結ぶ、またもや荘厳な門が見えてきました。古代ローマ時代から戦争による破壊と修復が繰り返され、現在のものは1721年にフェリペ5世が再建築を命じてできたバロック式の門アルカンタラ橋(PUENTE DE ALCANTARA)です。車は通れない門なので、歩いて渡っている人がみえました。

トレドの街を右手に眺めながら丘を登りきると、トレドの全体を見渡すのに最適な展望台(MIRADOR DEL VALLE)へ。ここで10分ほど停車してトレドの街並みをじっくりと遠望することができました。乗客はみな、写真を撮るのに夢中です。

ちょうど夕暮れ時だったので、陰影にとんだ中世の街並みがタホ川にぐるりと囲まれて浮かび上がるように見えました。守りやすく、攻めにくそうな要塞都市。マシュマロのようなほどよい丸みのある宇宙的な都市。ヨーロッパ中世のお姫様、王子様が出てくる絵本のページが目の前に現出したかのようです。いつまで見ていても飽きない細密な美しさでした。夕やみが迫るにつれ、冷たい風が吹いてきました。

ゆっくりと景色を堪能した後は、展望台から続く山道を降り、タホ川にかかる市西部のあるサン・マルティン橋をわたり城内へ。これも14世紀後半に賭けられた石の橋です。周辺には土産物屋が連なっていました。
こうして石畳の道を通って、元の場所へ。

 期待をしていなかったのですが、身体も楽だし、景色もおもしろく、解説もよく予想以上に楽しめました。
朝10時から夜10時まで30分おきに出発しています。3月に行ったのですが、夕暮れ時はぐっと冷え込むので足掛けがあるといいと思います。席は右側がおすすめです。

参考 https://www.toledotrainvision.com/
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スペインとポルトガル100 スペインの古都・トレド

2023-05-07 15:40:19 | Weblog
写真上と下はトレド駅駅舎の内部。ここがトレドの外と駅のホームをつなぐ待合室なのだ。

【荘厳でレトロなトレド駅】
ようやく着いたトレド駅。古都だ、最終地だ、と気が楽になり、ウキウキ。じつに立派な駅舎です。
トレドに鉄路が引かれた1916年に建造され、2005年AVE(スペインの高速鉄道)延伸に伴い、改修された駅舎は、まるで荘厳な教会のよう。細かな装飾が施された黒塗り木製のおしゃれな格天井。石やタイル、ステンドグラスが組み合わされた新ムーア様式の建物は、落ち着きと特別感があふれていて、列車から降りてくる観光客はのきなみ、振り返っては写真を撮っていました。
 マドリードと違って人も多くないので、写真を撮っていても誰の迷惑にもなりません。
 私もベンチに腰を下ろし、ほの暗く、落ち着いた空間に浸った後、駅の構内を抜けてタクシー乗り場へ。外に出ると夕方といえども日差しは強い。

写真はトレド駅を外からみたところ。

この後30分以上タクシーが来なかったのですが、ぜんぜん平気。だって、あの魔のマドリード駅に比べれば、すべてに歓迎されているような気がするし、タホ川を渡れば、すぐトレド世界遺産の地区なのですから。

【トレドはスペインの京都】
 ホテルはセルコテル・アルフォンソ6世(Hotel Sercotel Alfonso VI)。珍しく4つ星ホテルなのですが、昨日まで泊まっていたコルドバの星なしのホテルと、値段が同じなのです。少し高台にあり、優雅なバルコニーも付いてロケーションも最高。内装も優雅だし、期待は否が応でも高まります。

 同じ階には小学校高学年のスペインの子たちが修学旅行らしき風情で泊まっていました。とってもにぎやかで、先生たちが注意したり、男の子が顔を真っ赤にして、女の子に告白しようとしたり、というのがあけっぴろげに見えて、どこの修学旅行も変わらない、というのが率直な感想。

 日本の大手旅行社の団体さんもちょうどチェックイン中でした。ちょっとくたびれた男性の添乗員がみんなのパスポートを集めて、ホテル側に見せている間にも、トイレの位置から、フリータイムの食事の場所まで、なんでも参加者らが聞いたりお願いしたりしていて、天手古舞。それでいて、よくよく見ていると添乗員さんは語学が不自由らしく、しったかぶりで答えたりしていてハラハラしてしまいます。

 なるほど、手頃なお値段の、それでいて星がいっぱい付いたホテルというのは、団体さん御用達になるらしい。日本でいえばさしずめ京都。大きな古都の大きなホテルにいる実感がわいてきます。
        (つづく)
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スペインとポルトガル99 コルドバからマドリードへ(下)

2023-04-30 12:07:33 | Weblog
写真はマドリードからトレドに着いたばかりの車両。「renfe」はスペインの国鉄の名前だ。車体に「JR」と書かれているようなものである。清潔で快適。マドリードを出発する時間はゆっくりだったが、到着時間はなぜか、規定の時間より早かった。運行に余裕をもったダイヤ編成なのだと感心していたら、列車の到着時刻が15分以上、遅れたら、払い戻しをする規定があるのだそうだ。

【はじっこにあったトレド行きホーム】
ところが家人も何事かを察したらしく、1か月の旅で買いためた異常な量の荷物を押して必死にやってきてくれました。こんなときに、スマホがあれば、ここまでハラハラしなかったことでしょう。

 こうして集合し、みなで「トレド行き」と表示された14番線に行くことに。ところがまたもや難関が出現。案内図をいくらみても、プラットフォームは1~10までしか見当たらないのです。

何度みても、その先はない。

でも一刻の猶予もありません。予約した電車は乗り換え時間30分で出発してしまうのです。焦りつつも、ひとまず1~10番線の階に下がり、ようやく見つけたインフォメーションセンターの職員に聞いてみました。
 
「ここをまっすぐ通り抜けなさい」。

え、ここはセンターでしょ。歩く場所じゃないでしょ、と混乱しながら本来進むことができない場所を進むと、本当に14番線が見えてきました。
 こうしてたどり着いたのですが、正規のルートについては、私のなかではいまだに謎です。

さらにトレド行きへのもう一つの障害が。トレド行きのホームに入る前に荷物検査を受けねばならず、それが恐ろしいほどの長蛇の列だったのです。並びながら、これは間に合わないと冷や汗が止まりませんでした。

 でも、なんとかトレド行きに乗車できました。電車もあらかじめそうであったかのように置きつきはらっての遅れての出発で、この柔軟な対応にお国柄を感じました。鉄道ダイヤがもともと余裕をもって組まれているようです。

ここから30分でトレド。シートに座って、ようやく息をするのを思い出したかのように、深呼吸をしたのでした。
写真はようやくついたトレド駅。
苦労が多かったので、文字がまぶしい!
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スペインとポルトガル98 コルドバからマドリードへ(上)

2023-04-23 12:48:48 | Weblog
写真はコルドバからマドリード行の高速鉄道AVEの車内。スペインではマドリードに通ずるように全土に高速鉄道を張り巡らせている。

【マドリード駅ラビリンス】
グラナダでスマホをなしくて、3日目の朝。アルハンブラ宮殿の遺失物センターから

「スマホのお届けはありませんでした」

というシンプルなメールが届きました。日本の、JRの遺失物センターはあった時のみの連絡なので、見つからなかったにせよ、この連絡はじつにありがたい。でも、となると、やっぱりスられたのかも。なくなったのは、そうとう使い込んだHUAWEIでした。

 いろいろあったスペインですが、今日は、この旅の最終目的地のトレドを目指します。

 9時にコルドバのホテルを出発。タクシーの運転手に「鉄道のコルドバ駅へ」と告げると、

「ウナ。ソロ(うん、一つだよ)」

グラナダと同様にここでも鉄道駅とバスの駅はすぐお隣でした。ポルトガルでは、鉄道駅とバスターミナルが離れていたので、わかりやすい。

 トレドに行くにはマドリードを経由する必要があります。日本と同じく、多くの鉄路は首都マドリードに集結しているのです。

乗ったのはスペインの新幹線ともいえる「AVE」。一人50ユーロほど。日本の新幹線と同じぐらいの値段で、他の交通機関に比べて高めの設定です。席はゆったりしていて、ほどよい硬さで、清潔で気持ちいい。窓もピカピカでした。これで1時間45分移動します。座席は事前予約しておかないと乗れないほど満席でした。

 こうして気持ちよくマドリード駅に到着。

ところが多くの鉄路が集結しているだけあって、着いてからが地獄でした。さすがの大ターミナル。広くて複雑で案内板があっても、なんだかよくわからない。とにかくわかる人だけがわかればいいと突き放すような独りよがりな表示なのです。

到着したホームから列車の運行掲示板をしばらくにらんでいたのですが、トレド行きの列車の番線はいつまでたっても表示されません。

これはまずい、と家人に荷物を預けて、もっと大きな案内板の表示を見に行こうと大急ぎで移動しました。もちろん、表示を確認したら荷物を取りに戻るつもりで。

 ところが今考えても、とくに改札口っぽいところはなかったと思うのですが、AVEのホームは特別で新幹線乗り場のようなところだったのでしょう。トレド行きのホームを確認して戻ろうとしたら、駅員に制止されてしまったのです。
 いろいろ言ってみたものの「戻るのは禁止」の一言。

 どうしよう。スーツケース3人分を運ぶなんて一人じゃ無理に決まってる。どうしよう。
 (つづく)


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スペインとポルトガル97 下町感あふれるコルドバ

2023-04-16 10:53:40 | Weblog
写真はアルカサールの庭園にて。白い妖精のような女の子が水を飲んでいるだけなのだが、昔はイスパニアの宮殿、その前はアラブの城でもあった重層感が、不思議と女の子の雰囲気とマッチして不思議世界にいざなわれてしまった。おそらく彼女の父母の様子からみるとごく普通の観光客の女の子だろう(2019年3月8日撮影)

【コルドバにもローマ神殿】
コルドバは、世界遺産のある都市のわりには人通りが少なく、そぞろ歩きにぴったり。

セビリヤにも旧ユダヤ人街がありましたが、ここにもあり、特徴は白壁。花咲く青い小鉢が壁掛けされていてよく映えます。さらに2階の窓に植物のツルで編んだ独特な模様の浮き上がった簾がかかり、風情もひとしお。バルコニーでは気取りのない雰囲気でコルドバの人たちが窓越しに話しこんていて、普段の生活を垣間見せています。このリラックスムードはなかなか素敵です。

石畳を進んで少しにぎわった大通りでは、発掘調査中のローマ神殿の遺跡が忽然と現れていました。今も過去の発掘が進み、過去が顔をだす。散歩するだけで様々な時代をさまよえる味わい深い街なのです。


【アルカサル】
伊達政宗が派遣した1613年に日本を出発した慶長遣欧使節団が滞在した場所の一つがコルドバのアルカサル。メスキータのすぐ近くにあり、今も、建物と広いアラブ式庭園が残されています。

夕暮れ時に散策すると、庭の奥に威厳に満ちた像が夕日を背にそびえたっていました。添えられたプレートを読むと、この城でコロンブスと謁見している、資金援助を決めたカトリック両王であるイザベラとフェルナンドの像でした。少しリアルで、ちょっと不気味。

庭は噴水や人工的な滝、四角く刈り込まれた先進的な庭で、オレンジもたわわ。広い庭園に、客は数人で、かつての宮殿を独り占めしているような錯覚すら覚えます。

ぐるりと庭を一周して帰ろうとすると、黒マントに黒の帽子の威厳のあるおじさんがじっとこちらを見ていました。
なんだろう、と思いつつも、出口がそちらなので近づいていくと、

「あなたたちは、家族ですね。写真を撮ってあげましょう」

 といって、我々のカメラを手に取って、厳かに写真を撮ってくれました。ただそれだけをすると、にこやかに去っていきました。

 黒ずくめの風貌と、夕暮れ時の不気味さで、びくびくしてしまい、ごめんなさい。よく見ると、おじさんの周辺にはその子や孫たちもいて、ただただ人のいいおじさんだったみたいです。私もお礼にあちらの家族を撮ってあげればよかった!
(つづく)
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愛すべきコルドバ気質②とメスキータ

2023-04-02 12:37:54 | Weblog
写真はコルドバ中心街のレストラン「タベルナ・サンミゲル(Taberna Sanmigel)」。コルドバは闘牛の本場としても有名だ。1939年夏にデビューしたコルドバ出身のマタドール(闘牛士)マノレテことマヌエル・ロドリゲスは、スペイン内戦終結時のデビューであり、悲し気な黒い目と憂鬱なイケメンの顔と戦闘スタイルはスペイン国民の心をさしづかみにしたという。文豪ヘミングウェイの『日はまた昇る』にも、そのような宿命を背負った闘牛士が陰影を与えている。
コルドバには店主が闘牛にぞっこんで、歴代のポスターやスター闘牛士のイラストや写真が飾られた店も少なくない。この店もその一つ。

【コルドバ気質②】
ただコルドバの人は長考が好きみたい。たとえばメニューを頼むのにとても時間がかかります。昼時のサラリーマンですら、飲みものも頼まずに20分以上、懊悩。なにか悩みがあるのかなあと心配していると、おもむろに普通に注文してすっきり。

夕食の店でも家族連れがメニューを頼む前に10分以上議論して、それから注文するのです。料理はわりと標準的な時間で出てくるので、頼む時間さえ早ければ、日本と同じなのですが。

さすがローマ時代の哲人セネカの生まれ故郷と一人なっとく! いまも「考える」文化が濃厚なのかもしれません。

【世界遺産・メスキータ】
写真はメスキータ内部。

コルドバ最大の目玉メスキータは、とにかく広い。136メートル×138メートルが一部、直線的に見渡せるのです。
ここは、もともとイスラムのモスクだったところに16世紀になってスペイン王カルロス1世(申請ローマ帝国カール5世)の命令で、建物の中心部分を壊してキリスト教の大聖堂を無理やり建てたため、建物はモスクを貫く形でキリスト教の尖塔がモスクの上に飛び出す形となりました。

カール5世はコルドバに住む甥の陳情を許可することでコルドバ市議会の反対をものともせず、工事を強行したにもかかわらず、のちに現地に赴いた際、

「余がもし、あなた方のなそうとしていることをあらかじめ知っていたら、決して許可は与えなかったろう。あなた方がここに造ろうとされているものは、どこにでも見られた。しかしながら、壊されたものは世界のどこにもないものだ。」(旅名人ブックス『アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語』より)

と後悔ともとれる言葉を残しています。

ほかのガイドブックでも「みにくい」とさんざん書かれていたので、教会部分はさぞや見苦しいのだろうと覚悟していったら、今まで見た教会の中でも1,2を争う白い輝きと、手が込んでいるのに開放的でのびのびとした美しい建築物だったので、意外でした。
 モスクの建物の一部に完全にはまり込んだ感じなのですが、年月がそうさせたのか思った以上にマッチしていてモスク部分に引けを取りません。

写真はメスキータ内のゴシック様式のキリスト教の聖堂。

一方でモスク部分の赤と白のスとライプ模様のアーチの連続。それが遠近感をともなって、延々と重なるように奥まで続いています。世界史の教科書でも有名な部分なのですが、この修復具合がちょっとひどい。本来は白大理石と赤レンガで飾られていたのでしょうが、下手なペンキで描いたよう。写真で撮る分には美しいのですが、おそらく修復に失敗している気がしました。
(つづく)

※春は異動の季節。いろいろと身辺あわだつほど慌ただしい日々の方もいらっしゃることでしょう。どうぞ、少しでものんびりと。
来週の更新はお休みします。
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スペインとポルトガル95 愛すべきコルドバ気質

2023-03-26 15:26:52 | Weblog
写真はコルドバ初日に偶然入ったレストラン「エル・カパール・ロホ」の中庭入口。店内には有名人が来店した写真が掲げられていた。若かりし頃の現天皇や現上皇、さらに首相だったころの海部氏がそれぞれ来店された時の写真もあった。

【グラナダからコルドバへ】
昼にグラナダをあとにし、バスでコルドバへ。
とはいえグラナダ駅ではバスの到着が遅れ、中学生ぐらいの女の子は不安でついには泣き出してしまったものの、そのほか乗客は、ひたすら静かにおだやかに待っていたのが印象的でした。3月7日の話です。

2時間40分の道中、道路が荷馬車一台分ほどの狭さで、車窓からは羊の群れと低めのオリーブ林しか見えません。畑すら一度も見ることはなく、大地は乾ききっていました。

それだけに3時ごろコルドバに近づくと街がみえ、たっぷりと水の流れる川もあり、それが斜めの日差しに映えて感動もひとしお。セビリヤなどの大都市とは違った異国のおだやかな風情が漂っています。

コルドバは8世紀から11世紀初頭にかけてイスラームの後ウマイヤ朝の首都でした。最盛期の人口は50万人。コンスタンティノープル(イスタンブール)と並ぶヨーロッパ大陸随一の大都市です。文化レベルも高く、アラビア語に翻訳された古代ギリシャやローマの文献を見るために中世ヨーロッパ各地から学究の徒が集まっていたとか。

現在では、高校世界史の教科書などで、美しさとエキゾチックさが際立つ「メスキータ」を中心にして街全体が世界遺産に登録されています。
とはいえ、ここもやはり人通りの決して多くない、商店のシャッターの目立つ、黄昏の街となっていました。

【街の歴史がエネルギー?】

写真はグアタルキビル川にかかるローマ橋。
橋の上ではきままに演奏する人が数グループいて自由を謳歌していた。

グアタルキビル川にかかる優雅なローマ橋をわたって黄昏の静かな街を散策していて、気づいたことがあります。コルドバ気質、というものがあるのか、なにか独特なのです。

あまりうまくないバイオリンをアラブ調に奏でる人、それにノリノリで踊り始めるおじいさん、アコーディオンの悲しい調べをどや顔で弾くおじさん。みんな、自分に没入していて、だれかに見せたり、聞かせたり、ましてや稼いだりするつもりは一ミリもなさそうです。でも楽しそう。
八百屋に行っても、肉屋に入っても新規の客(私)を一顧だにすることなく、お得意さんと話し込む店主。こだわりの食材をじっくりと吟味し続ける地元のお客たち。

極めつけは夕食にふらりと入ったレストランでのことです。

小さな通りに面した隠れ家的レストラン「エル・カパール・ロホ(EL CABALLO ROJO)」。従業員6人プラス厨房にコックさんが、たぶん1人。対して客は我々のみ。

テーブルにやってきた一人の従業員に白ワインを頼むと、自信たっぷりにそれに見合ったコップを選んでどや顔で持ってくる人、と、白ワインを選んで持ってきてボトルを見せ、「ブランコ(白)」とよくとおる声でのたまわってから、しずしずと注ぐ人が、同時にテーブルにやってくるのです。

また、たまたま選んだメニューが彼らの真のお気に入りだったときなど、遠くからじーっとこちらの食べる様子を見続け、一口食べて顔がほころぶと、納得顔でうなずくおばさん従業員も。さらに食事がすすんで別の皿にこちらが挑もうとしていると、すっと近づいて「このソースがいいんだよ」と自慢げに誇る人まで。こういった従業員がさみだれにテーブルに近づいては、小さな用事を済ませて去っていくのでした。

漫画チックというか、なんだかとぼけてておもしろい!

 このあともいろいろなレストランに行ったのですが、コルドバの人は自分がおいしいと思っているものを客が頼むと、必ず我がことのように喜びます。   人口は多くはないのですが、とても人の心が安定した街のようです。

地元の人のつがなりがきちんとある、歴史ある小さな街の、ある種の形なのかもしれません。住みよい街の予感がしました。
                       (つづく)
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スペインとポルトガル94 もてなしのグラナダ

2023-03-11 10:52:17 | Weblog
アルハンブラ宮殿を囲む森の急坂を降りると街にでる。途中、日本のガイドブックを見ても出てこないビバランブラ門がどこにも接続することなく、静かにたたずんでいた。(グラナダ門でもワイン門でもザクロ門でも裁きの門でもなかった。)スペインのホームページによると、1933年に紆余曲折を経て再建された門のようだが、歴史も深さを否が応でも感じてしまう。

【アルハンブラを囲む森】
山の上にあるアルハンブラ宮殿の周囲は手入れされた森でした。急な下り坂を速足で降りていると、ところどころに門があり、まったく人通りがないのがもったいないほど気持ちのいい一本道です。

宮殿周辺の森の中にはリスもいた。

『旅名人ブックス アルハンブラ宮殿』(谷克二他著、日経BP)によると、イスラム勢力の時代は裸山で、守備兵の視野をさえぎることのないようにしていたのを、レコンキスタ後に皇帝となったカール5世(スペイン王カルロス1世)が命じて、坂道沿いにポプラ並木を植樹。さらにフランスのナポレオン1世を廃帝に追い込んだ英国の英雄ウェリントン将軍が全山に樫、楡、プラタナスなどを植えさせたのだとか。

【もてなしの実力】
 山の上でも、その下の食事をした店でもスマホの聞き込みに余念のない私。インフォメーションセンターで再度、聞くと、センターの女性がほうぼうに届け物がないか、問い合わせてくれたり、地元の人が集うレストランでは店主が店の中の人に大声で聞いてくれ、その上で「ないなあ」と回答をくれたりと、親切に対応してくれました。

お昼は庶民的な居酒屋ボデガス・カスタネーダ(BODEGAS CASTANEDA )。翌日、スマホ探しにも協力してくれた。

上記の居酒屋のサラダ。スペインでは小さい白菜のような野菜を4分の1に切り、そのまま、生で添えられることが多かった。生白菜の外側の葉の味がした。

 駅に向かうタクシーは、たまたまピカピカのメルセデスベンツ。運転手は珍しく英語を話し、感じのいい音楽まで流れています。さらに我々がコルドバに行くと聞くと、
「このタクシーなら180ユーロだよ」
と陽気に売り込みをかけてくる、すごく仕事にやる気のある、できる人でした。
 商品ジャーナリストの北村森氏のコラムに「訪れた人をもてなす雰囲気が、その地域に根づいているか」は「タクシーに乗った時の印象」でわかると書かれていてなるほど、と思ったことがあります(2023年3月2日東京新聞朝刊)グラナダは、たしかに「もてなし」が根づいている街でした。
(グラナダの回は終わり。次回、コルドバに行きます。)

※来週の更新はお休みします。春は、いろいろと変化のある季節です。ときにはゆっくり深呼吸して、月や花をめでて、心と体を大切に。
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スペインとポルトガル93 アルハンブラ宮殿の思い出

2023-03-04 12:47:02 | Weblog
写真はアルハンブラ宮殿の壁面。白大理石に彫り込まれた彫刻の細やかさと美しさに圧倒された。

【美しさ、の代償】
グラナダの目玉はなんといってもアルハンブラ宮殿です。外観は少しの装飾をのぞけばのっぺりとした土の壁ですが、中に入ると、彫りこんだ凸凹装飾の美しさに心を奪われてボー。人混みに押される感じで進んでいると、「ライオンの中庭」で日本人の小集団に解説する日本語が聞こえてきました。

「12頭の白大理石で作られたライオンの背に乗る12角形の水盤。端正でしょう? ここでくり広げられた血なまぐさい歴史をお話ししますと・・」

白髪にジーンズ姿の初老の日本人男性ガイドの話はおもしろく、久々に聞く日本語解説に聞きほれました。(ただ聞きはご迷惑だったことでしょう。ご勘弁を。)

それから、庭を中心にした回廊や部屋の空いている場所でしゃがんでみました。すると景色が目にピタッとはまり迫ってくるのです。細やかなイスラム装飾は壁面と天井にとくに力が注がれていて、それらはちょうど絨毯に座った位置にぴったりセットされていたのです。

 我が発見に感動して、ふと写真を撮ろうと手を伸ばすと、ポケットに挿していたスマホがありません! あわてて、経路をたどりなおしたものの見つからず。

出口のお土産コーナーでたたずむと聞き覚えのある物悲しいギターの音色が心に沁みてきます。今の気分にぴったりです。それがギターの名曲「アルハンブラの思い出」だったと、あとで知りました。

一つの王朝が終焉を迎えた悲しい場所。その象徴の曲が個人的な悲劇の思い出の曲ともなってしまいました。

我に返って、アルハンブラ宮殿のインフォメーションセンターにスマホの落とし物届をだしました。そして、こちらの連絡先を伝え(家人の電話番号やメールアドレス)帰りました。

帰った先もアルハンブラ宮殿。パラドールとして一角を開放していたのです。スペインでもっとも高い宿泊費でしたが、これはよかった!

アルハンブラ宮殿の早朝。雨上がりの空気がすがすがしい。
いつも混んでいるこの宮殿に泊まると夕方から早朝にかけて、
ゆっくりと宮殿の空気を堪能できる。

見学時間が終了すると訪れる静寂。夕暮れのアルハンブラ宮殿は宿泊者と従業員だけの世界。鳥の羽の音まで聞こえてきます。山の端から夕日が真っ赤に輝いてそれがアルハンブラ宮殿を赤く染めあげました。ちょうど雨上がりで空気も澄んでいて絶景。「アルハンブラ」がアラビア語で「赤い城」を意味することを実感したのでした。

その夜、テレビをつけると、バルセロナをのぞくスペイン全土が久々の雨に大はしゃぎしていました。各局が中継していたのです。この時期の雨は相当、珍しかったのでしょう。

しかし私も相当、疲れているみたい。セルフでお灸をして休もう。
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