雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

2度目のロンドン④ シェアハウスで暮らす上

2023-09-24 11:56:30 | Weblog
シェアハウスの共有スペース。左奥がマンションの入口のドアで、その右の少し扉の空いたスペースがトイレ、その右手前がキッチンとダイニングテーブル、そのさらに手前右の空間を入るとお風呂場など。目の前にあるのが共有スペースのソファ。これらの共有スペースをはさんで、個人のスペースとなる部屋がある。ちなみにこのソファでくつろいでいる人は、私が見たところ皆無だった。みなにとっての廊下にあたるので、遠慮しあった結果と思われる。

【お風呂に入る】
ハウスの入口すぐの中央にはキッチンやお風呂場などの共有スペースがありました。皆で気を使いあって暮らしているためか、とてもきれいです。でも私にとって、しっかりとプライベートが確保された居住スペースは西の一部屋のみ。6畳もなさそう。

 その部屋にはダブルベッドが一つ。ほかに物を入れる小さなワードローブやテレビ、小さな机といす、洗濯物干し台などはあるのですがそれは私にとってはどうでもいい。最低条件はベッド二つだったのですが、満室のためかなわなかった、というのです。仕方なく、日本から寝袋を持参してきました。何が悲しくてロンドンで寝袋生活を送らなければならないのか。

ほかにも同様に3つの個室があり、それぞれに居住者が暮らしているとのこと。掃除のときにちらっと見たら、我が家が一番せまいようで、後の3部屋は広々としていてベッドもツインで窓も複数ありました。

 家人はフィリピンでの3か月間、浴槽がなかったのが、よほどつらかったのか、必要条件は湯舟、でした。私は洗濯用たらいでなんとなく入った気分になっていたのですが、家人はたらいにおしりすら入らず、純粋なシャワー暮らしに辟易していたのです。

さて、たまたま誰もいないときに到着したので、まずは家人ご推奨のお風呂を使ってみました。お風呂は共同なので、入る前にきれいに掃除してから、湯を張りたいのですが、洗うための器具がぱっと見、見当たらず、結局、さっと手で洗って湯を張りました。

 頃合いを見計らって日本を出て以来の浴槽に浸かります。ここには洗面台もトイレもあります。みんなが使うところです。そう思うと、長湯はまずいし、しぶきを浴槽の外に出しては失礼、と緊張して落ち着けません。湯を張ってから気づいたのですが、目の前に曇りガラスの窓があっても、開け方がわからず、換気の方法もわかりません。浴槽の掃除も不十分だったせいで、落ち着かないお風呂でした。シェアハウスのルールがわからず戸惑うばかり。まずは掃除道具の対策をとる必要がありそう。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2度目のロンドン③ ベイズウオーター駅近くの住まいへ

2023-09-17 11:32:32 | Weblog
今後、2週間、暮らす部屋から見える景色。ザ・ロンドンという美しい家並みがみえ、ほんとうのイングリッシュガーデンが目の前にあった。

【ベイズウオーター駅の多民族感】
空港から地下鉄に乗って、降り立ったベイズウオーター駅は、世界最古の地下鉄・メトロポリタン鉄道(1868年10月開業)がパディントン駅から西に延伸した際に開業しました。
 現在、サークルラインなど2路線が通るロンドン中心部の西部側にあります。南に200メートル離れたところに上記以外の3路線が通るクイーンズウェイ駅もあり、交通至便。

 駅前を南北に走るクイーンズウェイ沿いには、7階建て程度の高さのレンガ造りの建物が連なっています。それらの建物の1階にはインド料理や東南アジア、中東料理、中華料理店やスーパーが入居し、その前を歩いている人の顔も、様々。多民族の街のようです。ゴミゴミ感はありますが、日本と違う、おしゃれさが漂っています。

 道を南に進んでクイーンズウェイ駅方向に進むと、ほどなくレンガをそのままを活かしたアクセントが美しい基本は白ペンキで外装された7階建ての建物が連なる一角に着きました。この一角でわずか2週間ですが、暮らすのです。

【靴からスリッパへ】
通りに面した扉を開けると、タブロイド紙片手に警備員さんが挨拶。その小さなカウンターの前を慣れた雰囲気で家人が通り、奥のエレベーターで3階へ。


東西に延びる長い廊下には青い絨毯がひかれ、その両側に扉が等間隔に並んでいます。壁が白く塗られていて、電気もついているのでとても明るい廊下です。この西側の奥の扉の中が私の住まいでした。

室内に入ってすぐに左に小さな靴置き場。右にスリッパ。入った左に窓から自然採光が降り注ぐ2畳ほどのキッチンと納戸、その中央に小さなキッチンテーブルとイス、まっすぐ進んで左にシャワーと浴槽、トイレのある一間、それを横目でみた空間に落ち着いた小さなソファと置物。ここまでは共有スペースで、その奥の西日がガンガン当たる部屋が、我が家が借りている部屋とのこと。

 部屋の窓からの眺めはすばらしい。

 借景でジロジロ見るのも申し訳ないのですが、戸建ての家々の巨木がたたずむ芝が敷かれた庭が見え、小さいながらも素敵なイングリッシュガーデンもあり涼やかです。それは裏庭で、その前に2階建ての重厚なレンガ造りの上にすすけた煙突が付いた、ピーターパンなどのイギリス小説の挿絵が飛び出したかのよう。このような家が横につらなり、その奥には十字が掲げられたギリシャ正教会の尖塔まで見えました。
 一方、住まいとなる空間は4畳半ほどで狭く、はっきり言って暑い。けど、クーラーはありません。いままでイギリスは涼しかったのでクーラーが必要なかったのだそう。

これは危険です。

 でもこの部屋以外は我が家であって我が家ではない。なぜなら、ここはシェアハウスなのです。ホテル住まいやマンションの一房を借りるにはロンドンは物価が高いので、日本人向けに貸し出しているアップルハウスと契約したのですが、シェアハウスで暮らすのは生まれて初めて。いったい、どういう生活になるのでしょうか?
      (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2度目のロンドン② 

2023-09-10 12:42:22 | Weblog
写真は地下鉄パディントン駅。地下から地上に出るところ。世界最古の地下鉄だけに、たくさんのケーブルがむき身で出ていて、まるで、地下鉄が五線譜の上を踊っているようにみえた。

【首都は古風なレンガの街並み】
乗り換え駅のポスターは、BBCの大人気ドラマ・ベネディクト・カンバーバッチ主演の「シャーロック」。地下鉄車両に爆破装置を取り付けるテロの話がありましたが、日本とは違う、この空間なんだ! とか思ったりして、すでに(ドラマの)聖地巡礼の気持ちです。

さて、車内で耳に入ってくるのは、カクカクと喉の奥で詰まったように一単語一単語発するクイーンズイングリッシュです。小さな子もおじいさんもみんな、です。

アメリカンイングリッシュを学ぶ日本の英語教育だと聞くことのない発音。正直、新鮮でした。日本で聞くのは英国王室や議員の方々のニュースの時が多く、イギリスのテレビドラマは大好きですが、これは吹き替えで聞いていて、イギリスの映画も、映画の音、として認識するばかりで字幕が主。当然、こちらこそ本場の英語なのですが、どんな日常会話でも、すごく格式ばった話をしている風情に見えるから不思議。なんとなく眉間にしわがよりそうな感じです。

一方で、大きな駅での駅側のアナウンスがまるでディズニーランドのよう。

「みなさん、列車が着きますよ。さがってくださーい」

と、ハリのある陽気な声でDJのようです。こういうときは陽気に聞こえます。どこか遠くで話しているのか、と思ったら、隣で駅員さんがICレコーダーのような小さなマイクで直接、話していたので驚きました。

地下鉄がたまに地上に出ると車窓からみえる建物はほぼレンガ造り。赤レンガはほとんどなく黒っぽかったり、黄色っぽかったり。昔の風情があって、なんだかパディントンが出てきそう。

(調べてみると、1666年9月2日、ロンドン大火によってロンドンの家屋の85%が消失したことによって一気にレンガ建築にシフトしたことがわかりました。それまでは木造、かやぶきだったのそうですが、法律で木造建築を規制し、レンガ造りが増えたそう。地震もほとんどないため、古い建築物がそのまま使用できるようです。日本は明治期ごろ、レンガが流行りましたが、関東大震災で地震に弱いことが証明され、以後、構造体には使われなくなりました。赤レンガじゃないのは地質の違いのようです)ォ

そうして小さな地下鉄の窓から小さな街を眺めているうちに目的のベイズウォーター駅に到着しました。
                      (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2度目のロンドン① 世界最古の地下鉄

2023-09-03 15:29:23 | Weblog
地下鉄のピカデリーラインの列車内。車内は丸くて狭いので、座席の間に人が立つ空間はなかった。

【違っていた2度目の景色】
2019年7月9日火曜日17時半、飛行機の降下とともに映画みたいなモクモクと沸きあがるような白い雲がみえてきました。その下に深い緑と陰鬱な黒味を帯びたレンガの建物がみえ、18時3分にヒースロー空港に到着しました。

ロンドンは二回目です。一度目は1990年の8月末で、わずかに4日間の滞在でした。今回は13日間ずっとロンドンです。大英図書館が主な目的ですが、もちろん、ちょくちょく回る予定。

 前回は30日かけたヨーロッパ学生ツアーの最終地でした。湾岸危機で帰りの飛行機(イラク航空でした)がなくなってしまったので、ツアー会社が見つけたロンドン発の別会社の飛行機に乗るために急遽、決まった目的地。本来の予定にはなかったので手持ちのガイドブックはなく、予習もしておらず、当時はインターネットもないので調べようがない。つまり、予備知識ゼロで行った不思議な国でした。

当時、よくわからないままパリを列車で出て、気が付くと列車ごとフェリーで海の上。驚きながらドーバー海峡とアタリをつけて緑の波涛を眺めていると、真っ白い岸壁がそそり立つ。あれはなんだと考えていると、まもなくガシャリと線路に連結して昔と変わらぬロンドンの街並みをスルスルと列車でかきわけるように進むという、じつにクラシカルな入国でした(1994年からは地下トンネル開通となり、いまでは遠い景色となりました)。観光も情報がなさすぎて少しトンチンカンだったので、今回はその誤解をとく旅でもあるのです。

【最古の地下鉄・ピカデリーライン】
 迎えに来た家人について、空港の地下に直結する地下鉄ピカデリーラインへ。大きなスーツケースを手に乗り込むと、日本の電車に慣れている身には、おもちゃみたいな空間です。

昔みた映画『デューン砂の惑星』にサンドワームというミミズの巨大版みたいな生物がでてきますが、それが彫りぬいたかのようなほぼ真円の空間。日本人女性の私でも頭上に圧迫感を覚える狭さです。

立っている乗客は大きい人はかがんでいますし、座っている人は膝突き合わせるとまではいかなくても、その間に人が立つことはほぼ不可能。座席は、ボックスシートタイプではなく、車両の側面に沿ってシンプルに2列の席が並ぶロングシートタイプ。
 それでいて、この狭さなので足の長い人のなかには向かいの座席に足を差し渡してしまう人もいるのでしょう。わざわざ車内に「それはダメ!」と書かれていました。

車内の張り紙。「座席から足を離してください」と書かれている。
左側の赤い丸の中の絵から、目の前の座席に足を載せてしまう人に
注意喚起していることがわかる。

ただ、そこからくる一体感は日本ではけっして味わえない独特な雰囲気をもたらしています。さすが世界最古の地下鉄です。
                     (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガルとスペイン113 帰国する② マドリード空港もラビリンス!

2023-08-19 16:31:49 | Weblog
写真はマドリード空港の駐機場よりマドリード空港乗り場をのぞむ。右に見える搭乗口はキャセイパシフィック空港。コロナ禍前の2019年時点では、料理も見た目は華やかではないが、味がよく、サービスもほどよい距離感だが、必要な点は抑えられていて、好みの航空会社だった。

【満員電車で出会った親切な人々】
こうしてマドリード駅ホームに到着した空港行の電車は、なんと通勤客でぎゅう詰めのごく普通の通勤電車でした。荷物があるので、申し訳なく思いながらもじりじりと乗り込みます。

 スリに会わないようにバックを前に抱え、スーツケースを横に置くと、カーブごとにスーツケースや私が倒れそうに。びっくりしたのですが、そのたびごとに3人ぐらいの手が横、ななめ、といろいろな方向から伸びて支えてくれるのです。嫌がる風情も、せきばらいでけん制、とかも一切ありません。ただただ親切心から、さりげなく助けてくれるのでした。

都心を過ぎると、急に車内が空いてきました。

すると今度は黄色い蛍光色のジャケットきた「警備員」のお兄さん二人組が乗ってきました。治安を案じてのことのようです。外国では疑い深い私になるのでしが、電車ではいちいちビクビクしてよくみると、ありがたい人々に感謝しかありません。

こうしてマドリード空港T4駅へ到着しました。駅には空港チケットに書かれたS4駅の表示があり、少しほっとしました。

【遠い搭乗口】
乗り込む航空機のカウンターで荷物を預け、水を飲みほして、手荷物検査を受けてS4駅の方向へ。これで搭乗口まですぐだぞと思っていたのですが、見ると電車乗り場まで「22分」との表示が。どうやら空港カウンターのある棟と搭乗口をつなぐ電車があり、乗り場までが意外に遠いらしい。
 慌てて1階下がると、そこから奈落に落ちるようなエスカレーターがあり、はるか下の方に電車の乗り場が見えました。急に時間が押していることに気づいて冷や汗がたらたら。ゆっくりめのエスカレーターを降りてS4駅につくと、すぐに電車がきました。そこから10分ほどで空港の内部には直通で、入国審査がありました。それも無事に通過し、気づくと航空券に表示された搭乗時刻の10時40分まで10分しかなくなっていました。こんなに空港で差し迫った思いをしたのは初めて。どこで時間を取られたのでしょう?

 とはいえ冷静に考えると出発時刻は11時30分。ということは50分前に搭乗するということ? 早いような? 

 駆け足で航空チケットに表示された43番ゲートを目指していくも、今度は43番ゲートが見当たりません。42番までのゲートと45番からのゲートの案内はあるのに。焦ってはいけない。心を落ち着けて見えない43番を探してやみくもに進むと「43,44」という表示がようやく見えてきました。すでに人が並んでいます。

 結局5分遅れで搭乗は開始され、中にはいると、バス乗り場で、バスはぐるぐると一番はしっこの駐機場に進んでいきました。つまり、キャセイパシフィック航空の飛行機が、だいぶ遠いところにあったので搭乗時刻が早かったのです。

◇今日の格言◇
マドリード駅と空港の表示は出たり消えたりが標準らしい。時間には余裕をもって動こう。

【無事、離陸】
 いろいろあったものの、結局、13時50分、つまり定刻通りに離陸。赤と緑と黒黒とみえる木々や地面のパッチワークに見送られて、スペインを離れました。

 ポルトガル、スペインの旅はこれでおわり。今はとても眠い。
大航海時代の足跡をたどった研究のほうは、今後も続きます。

※来週の更新はお休みします。次回からはイギリス編です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガルとスペイン112  トレドから帰国する①

2023-08-12 12:06:51 | Weblog
トレドのセルコテル・アルフォンソ6世(Hotel Sercotel Alfonso VI)ホテルの朝食会場。早朝のため、食事をとる人はほとんどいなかった。

【マドリード空港へ】
いよいよ、トレドから帰国の日を迎えました。
朝6時に起床して、ホテルの朝食をいただいていると、「シティトレイン」を教えてくれたおじいさんが隅のテーブルで食事をしていました。お礼をいうと、ホテルのセルフサービスのレモン水を継いでくれました。やさしい。


中世の騎士の武具などが、置かれていた。
このホテルのあちらこちらに、
さまざまな種類の甲冑があり、
こわい、というより、おかしみのある、
人形のような存在感を放っていた。

さて気分よくホテルを後にして7時半にタクシーでトレド駅へ向かいます。あらかじめスマホで調べておいたマドリード空港直行便は、便そのものがなぜかなかったので、マドリード乗り換えに不安はあったのですが、7時59分のマドリード行に乗りました。

さてあの迷宮ラビリンスのマドリード駅には今回も悩まされました。コルドバからトレド行きに乗り換える時にはうるさいほど見えた、「空港行の電車のりば」の矢印のついた案内板が今回は見えません。マドリード空港に行く人はトレドからはいない、と一方的に想定されているのでしょう。

 表示が不親切だと腹を立てている場合ではないので、数日前の記憶を頼って、ひとまず地下に行きました。すると、ようやく案内表示がありました。

ひとまず第一段階クリア。次に空港行の切符を買おうとするとまたも不可解なことが起きました。自動券売機の画面を押してさて、購入というボタンを押そうとすると、なぜか画面が最初の表示に戻ってしまうのです。何度やってもダメ。こんなところで遊んでいる場合ではないと、有人切符売り場へ向かいました。すでに5人が並んでいます。

前の3人ほどが英語で
「トレド、ONE WAY(片道で)」
というと
「ここでは売っていません。あちらへ」
と断られていました。あの人もマドリード駅のラビリンスに飲み込まれているのだ、とひそかな連帯感を覚えてしまう。

 自分の順番が来たのでおそるおそる
「空港行のチケット」
 と伝えると、あっさりと買え、しかも
「1番へ」
 とホームの場所まで教えてくれました。

ようやく波に乗れたと、勇んで1番ホームへ行くと、上に掲げられた電光掲示板の1番ホームの行き先は真っ黒。お隣の2番ホームには、知らない地名が表示されています。あわてちゃいかん、と腹をくくって待つこと10分。ようやく1番ホームの掲示板に空港行きの表示が出ました。こんなときに限ってトイレに行きたくなる私。

◇今日の格言◇
マドリード駅で迷ったら、地下に行こう!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル111 トレドのレストラン

2023-07-30 11:49:50 | Weblog
写真はレストラン・ラ・オレザのアーティチョークのグリル。上には生にいくらが添えられている。イカなどの魚介類の風味がなんだか懐かしい味がした。

栄枯盛衰が激しいので、お役に立つかわかりませんが、トレドでよかったレストランを紹介します。

【レストラン ラ・オルザ( LA ORZA)】
エル・グレコ美術館の近くにあり、テラス席からかつてのユダヤ人地区が一望できる。ミシュランガイド掲載店。ランチの時間に20分以上並んで案内されたテラス席は眺望抜群でしたが、アンダルシアの3月の日差しはすでに鋼のような強さなのに、太陽の角度は低いので店のパラソルは役にたたず、帽子を外すことはできませんでした。
メニューは郷土料理を主体としながらも、新たな料理の技術を取り入れた華やかで珍しい取り合わせが目につきました。
ワサビやからしを効かせた「TATAKI」は、ローストビーフ風。中近東でよく食されるナツメヤシの実「デーツ」のサラダにもドレッシングに、わさびが効かせてありました。アーティチョークの上に「いくら」がこぼれるように乗せられた料理も。つまりいろいろなメニューに日本食の影響が感じられました。
郷土料理の炭火焼きローストは、カリカリに焼きこんだ皮目とジューシーな赤身肉のうえに酸味のあるフルーツとトマトのソースがかけられていて最高の仕上がり。値段はトレドの中でも、お高め。地元客も多い店でした。

豚肉のロースト。


スイーツの盛り合わせ。いかにテラス席の日差しが強いかが、わかる。

【アサドール ラ・チュレタ(ASADOR LA CHULETA)】
大聖堂とアルカサール(軍事博物館)の中間あたりの入り組んだ細路地の石畳の庭にテーブルとイスが置かれたレストランです。値段の安さが一番の魅力。アサドールはグリルのことなので、当然、メニューは焼き物中心。リゾットやパンの上にレバーペーストを載せたバル系食材が人気です。


ピザはしょっぱかったのですが、上の具材(マッシュルームやサラミ)はふくらみのある味でした。ミネラルウオーター「ネバタの水」がスペイン料理独特の汁感の少ない口に、水分をもたらしてくれました。街歩きで疲れた観光客がゆっくり座れて、寒い人にはひざ掛けの提供があるといったサービスにほっとしました。

【まとめ】
トレドの旧市街のレストランは、グリル料理と生野菜のサラダが中心です。私は鍋料理やみそ汁文化で育ったせいか、料理の水分量が少なく苦戦しました。スープは野菜をすりつぶしたぽってりとしたポタージュ系が多く、口の中の水分を持っていかれてしまう。お茶文化はなく、料理とともに飲むものはアルコール類となります。アルコールが飲めない方はワインと同等か値段が高いミネラルウオーターになります。

※来週の更新はお休みします。
 猛暑、腹の力を保って、乗り切りましょう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新刊紹介『戦国日本を見た中国人』 海の物語『日本一鑑』を読む

2023-07-23 10:36:08 | Weblog
スペインの話の途中ですが、今回は新刊のご紹介です。じつはスペインが日本にも触手を伸ばした大航海時代ともかかわっておりまして・・。
(長文ですので、小見出しをご覧くださってもよろしいかと。)

【倭寇前夜】
戦国時代の日本といえば、織田信長ほか戦国武将が有名です。彼らの必須アイテムは鉄砲。そのためには火薬がかかせません。
 火薬は硫黄、硝石、炭粉でできています。硝石は日本で産出しなかったので、輸入が必要でした。一方、硫黄は輸出するほどありました。

ところが貿易をしようにも、お隣の中国は明(ミン)朝の時代で海を閉ざす海禁のまっただなか。そのため正式には10年に一度、国の盟主同士がものを贈りあう朝貢しかありませんでした。あとは全部、密貿易になってしまうのです。

 本書では、これらが本格化する前段からはじまります。

 日本では室町幕府が衰えていき、朝貢貿易のノウハウがうまく伝えられなくなった結果、1523年に「寧波事件」と呼ばれる日本人武士による抜刀事件が中国の港町・寧波で起こりました。以降、日本人は「凶暴」というイメージが固定化されました。実際、1550年代に入ると、倭寇(わこう)と呼ばれるザンバラ髪の武士のような集団が中国の沿海部を襲うようになります。

 
写真は本のカバーより。左のほぼ裸で戦う人たちが倭寇。
(「抗倭図巻」中国国家博物館蔵。)

【草莽の士、海を渡る】
そんななか、自らの意思で(海禁中なので「国の許可を受け」)中国の民間人が日本へ渡りました。名は鄭舜功(てい しゅんこう)。日本を理解し、日本国王に倭寇対策を行わせようと強い決意を抱いていました。

1556年、広州を船で出発し、九州は豊後の有力大名の大友義鎮(宗麟)のもとに滞在。そこから部下を京都に派遣して見聞を広げ、倭寇政策について了解の文書ももらいました。

この任務は大成功、と思ったのですが、じつはそのころ明の朝廷の権力闘争はし烈を極めており、別の勢力に倭寇対策のトップが入れ替わってしまいました。そして、そこからも日本に人が派遣されたのです。

これを知った鄭舜功は、ライバルに先を越されることを恐れ、京に派遣した部下を待つことなく、1557年1月に慌ただしく帰国することにしました。

【待ち受ける悲運と幸運】
ところが海難事故のため、漂着。さらに中国で官憲にとらえられ、7年間、投獄されてしまいます。反対勢力に倭寇取り締まりの総督が代わっていたため、彼の潔白は証明されなかったのです。

日本での見聞記録も破棄され、京に派遣した部下2人も中国で官憲につかまり、死刑となりました。
 帰国の際に豊後の大名の命令で鄭舜功とともにした日本人僧侶・清援は、なんと中国の内陸部の四川に流罪となりました。彼が鄭舜功にあてた手紙に書かれた詩が、本書には収録されています。なんとも痛切!

そんな逆境の中で鄭舜功は、獄中、日本での見聞をまとめました。これが『日本一鑑』です。残念ながら刊行されることはありませんでした。
ただし奇跡的にも写本などが断片的に残されました。現在、研究者の間で当時の日本の国情を知る一級史料として評価されています。

本書では『日本一鑑』に記された、日本の当時の風俗習慣や刀や陶磁器の見極め方、日本人には秩序があり、話し合いで十分に友好が保てること、などの具体的な内容を紹介しています。序文の鄭舜功の熱い志はしびれました。


写真は、椿泊湾。戦国時代に名を馳せた森水軍(阿波水軍)の拠点であった。今も森家歴代の墓が湾を見渡せる山の上に連なっている。

【ビジュアルから魅力的な海賊たち】
本書のもう一つの柱が倭寇です。ここには海を舞台にしたもう一つの歴史がうねっていました。日本人をよそおった中国や東南アジアの人々も海で暗躍していたのです。

本書でもっとも印象的だったのがこの、いわば「海賊」です。

おもな舞台は中国南岸の杭州湾の外縁に浮かぶ舟山群島。片目のリーダー陳思盻、僧侶姿で日本人にも中国の女性にもモテモテの徐海など、魅力あふれる海賊たち。とくに徐海が大小さまざまな島が浮かぶ舟山群島で1000以上の船を率いて進み、最後には官憲に砲弾で打たれる様子は目に浮かぶよう。ここは歴史学者の筆なので、やや抑え気味ですが。

【海洋ルートの詳細もわかる】
中国から日本に向かう船のルートも具体的に記されていて、とくに日本の領域内に入ってからの記述は興味深いものがあります。九州の南をまわって、瀬戸内海を通って大阪まで抜けるルートは『村上海賊の娘』などで知っていましたが、外洋船ならではのルートで四国沖を通って、四国と紀伊半島の間を通って大阪に至るルートは初めて知りました。

徳島の東南の海に抱かれた椿泊や淡路島の南にそびえ立つ沼島など、かつてのルートは昔の海賊の拠点でもあります。

現在、徳島には「海賊料理」という名でガイドブックなどに書かれている名物料理があります。ところが地元に人に話すと「水軍料理ね」と即座に言い直されるのです。地元の人にとっては、当然のように今でも「賊」ではなく「軍」なのです。

このルートは、大航海時代のポルトガル、スペインの商人も利用していたらしいです。

暑い夏、潮の香りがぴったりな本書で、まったり過ごすのはいかがでしょう?
『戦国日本を見た中国人』  海の物語『日本一鑑』を読む
講談社選書メチエ
上田 信著
1700円(税別)
 
参考;椿泊漁港の位置
https://www.bing.com/search?pglt=41&q=%E6%A4%BF%E6%B3%8A%E6%BC%81%E5%8D%94+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80&cvid=78b1c5c4a5e348399ea2dda66019f773&aqs=edge..69i57.24178j0j1&FORM=ANNTA1&PC=TBTS
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル110  サービスって難しい!?

2023-07-15 11:06:39 | Weblog
トレドで宿泊したセルコテル・アルフォンソ6世(Hotel Sercotel Alfonso VI)。トレドの世界遺産の地区のど真ん中にあり、アルカサル(軍事博物館)も近い。4つ星だが、プランを選べば、宿泊料も抑えられる上、部屋も整っていて空間にも余裕があった。

【ふらりと入った店で】
トレドの見どころの次は、食事処についてご紹介しましょう。

ミシュランのシールもいたるところに貼られていて、味よし、サービスよしの店にも行ったのですが(値段は観光地ど真ん中だけあって、ややお高め)、トレドの初日は、疲れのせいか、立て続けに不思議な店に当たってしまったので、まずはその話から。

トレドが最終目的地だと思うと、疲れがどっと出てしまい、食事をとる店を考えることも面倒くさくなりました。そこでふらりとホテルを出てすぐに看板がみえたレストランに入りました(普段だと、たとえば、地元の人でにぎわう店を探します)

店は道に面して窓が長ーく付いているにもかかわらず、ほのぐらく感じます。外側には料理名つきの料理の写真が所狭しと貼られていて、疲れた観光客の心にわかりやすく提示してくれるのです。店の入り口の囲う木枠の彫刻も雰囲気を醸し、老舗感もただよいます。

メニューは地元の特色料理のオンパレード。店の名前にある「Parrilla」はスペイン語のグリルのこと。その名の通り子豚やウサギのロースト、ウズラの焼き物など、炭火でじっくり焼いたグリルを心ゆくまでいただきました。塩気がきいてハーブとのバランスも良く、おいしいのですが、なにか落ち着きません。
たまたまだったのかもしれないのですが、やとわれた店員ががんこそうで、せっかちで戦闘的なのです。

たとえば客が帰ったあとのテーブルの片づけの最中に、店員がワイングラスを落として割ってしまいました。

日本だったら「失礼しましたー。」などといって、ささっと躊躇なく片づけるところなのですが、この店では落とした店員が、その状態になんのアクションもないまま、厨房に入っていき、次の瞬間、何食わぬ顔で別のテーブルの客のための料理を持ってきて、サーブしているのです。

割れたワイングラスはというと、しばらくたってから別のおばさんがあらわれて片づけていったのですが、それもなんだか雑。

翌日、別の店でのこと。メニューを頼むと、「本当にそれだけ?」という圧を目ににじませ、顔をくしゃっとされ申し訳ない気持ちに。たしかに旅の疲れで、食事量は減っていたのですが。

お隣のテーブルで「デザートは?」と訊かれたお客さん、明らかに最初、断りを入れていたのですが、店員に下から這うような声で「NO?」とダメ押しされ、勢いに負けてデザートを頼んでいました。料理の値段は少しお高めでした。

やっぱりマドリードから電車で30分の古都は、観光客が殺到するせいか、サービスが雑になるのか? 普段はおいしい店を見分ける私自身のセンサーが鈍っているのか? 

といいつつ、トレド最終日にも最初にいった郷土料理店に行きました。ホテルからのアクセスのよさと味には、捨てがたい魅力があったのでした。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル109 エル・グレコの最高傑作といわれる絵を見る 

2023-07-09 07:11:23 | Weblog
トレドの夜の街角。日中、大勢いた観光客が夜にはほとんどいなくなる。(マドリードから一日観光で訪れる人が多いためだろう。)夕食をとろうとレストランに入ると、いかにも、な観光客向けの店以外は、地元の人が集うディープな空間になっていた。スペインにしては店が閉まるのも早めだ。

【サント・トメ教会(Iglesia de Santo Tomé)】
トレド最終日の月曜朝。
何度もポルトガルとスペインを訪れている研究者のKさんから

「とにかく混むので、朝いちに行ってください!」

とアドバイスされていたサント・トメ教会に行きました。
開場前の朝9時50分だというのにすでに行列ができています。

ここにはエル・グレコの最高傑作のひとつ『オルガス伯爵の埋葬』があります。教会のためではなく、その絵1枚のための列なのです。

この教会はイスラム勢力からトレドを奪還したアルフォンソ6世が12世紀に建てたもの。13世紀末には荒廃していたため、当時の領主だったオルガス伯が私財を投じて再建しました。さらに伯爵は遺言で恵まれない人のために、ものや寄付金を教会に納めるように命じ、自身も遺産を教会のために遺したそうです。

16世紀半ばに、同教会の司祭がいろいろな意味を込めて、彼の死のときに現れた奇跡の絵をエル・グレコに依頼。1586年から1588年にかけて描かれたのが本作です。

さて順路にしたがって進むと、すぐに縦4.8m、横3.6mの巨大にして縦長の絵が礼拝堂脇のテラスを覆ってつくったような場所に恭しく飾られていました。この絵以外にはなにもない不思議な順路。

絵を見て、何も考えずに順路を進むとあっという間に外に出てしまいました。あまりにあっさりした順路に驚きました。ちゃんと探せば礼拝堂も見られるようです。

 画のほうはエル・グレコの最高傑作と形容されるだけあって、生生しいというか、神々しいというか。黒を基調にたくさんの神を含めた人々の顔が悲し気に白く浮き上がっています(政策当時のトレドの人々の顔やエル・グレコ、エル・グレコの息子も書き込まれているそう)。大きな絵なのに緻密で、緊張感がみなぎっています。それにしても彼の絵は手のかたちが本当に美しい。細くて繊細で、色白、で、なまめかしい。

門外不出だそうなので、現地でしか見ることができないという貴重さもこの列を生んでいるのでしょう。そして、絵を見る場所が少ししかないので、入場制限がかからざるをえないのでしょう。

カテドラル(大聖堂)の内部。このような手の込んだ芸術的でワビ・サビの対極にあるような空間があらゆるところで展開している。とても豪華。話はとぶがセブ島(フィリピン)で1566年に創建されたサント・ニーニョ教会の祭壇と雰囲気が似ていた。少しの余白も怖れるような豪華なしつらえや金の使い方の感性は時代なのかもしれない。

【カテドラル(大聖堂)】
この後、昼食をとって、カテドラル(大聖堂)へ。広く、薄暗く、金がふんだんに使われていて、彫像も彫刻もこれでもか、というほどふんだんにあり、圧倒されました。宗教画も数多く納められていて、エル・グレコの絵もありました。

大勢の参観者がいましたが広いので、ゆったりと日が傾くまで見学することができます。サント・トメ教会では一枚の絵に集中するだけでしたが、同じ集中力でカテドラルに対しようとしたら、あまりの質と量に気力が追い付かず、へとへとに。さすがスペイン・カトリックの総本山。まいりました。

参考:
 https://spainzatsugaku.com/arte-el-greco-santo-tome/ 2023年7月8日閲覧

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル108 ユダヤ教の教会と博物館(トレド)

2023-07-01 17:18:04 | Weblog
写真はトランシト教会とセファルディ博物館の外観。エル・グレコ博物館の前にある。

【トランシト教会(Sinagoga del Tránsito)】
14世紀に建てられたユダヤ教会です。トレドにはかつてセルビアと並ぶユダヤ人街があり、その中心に建てられていました。エル・グレコはその一角に住んでいたのですね。

街のあちこちにはめ込まれたユダヤ人街(1492)
と書かれたタイル。

1492年のユダヤ人追放令以降キリスト教の騎士団の教会となり、現在はセファルディ博物館というユダヤ教に関する関連物を集めた博物館が併設されています。

中に入ると、薄暗く、イスラム建築の色濃い影響を受けたムデハル様式で建てられた建物に、大勢の人が見学に訪れていました。

トランシト教会の内部。細やかな装飾が美しい。

教会を出て隣接の博物館へ向かうときに地下に不思議な空間がありました。じめじめしていて座敷牢のように見えたのですが、じつは2000年代初頭にシナゴーグの基礎部分を発掘したところみつかったイスラム浴場・ハマームの集合施設とのこと。つまりスパです。

ローマ時代から脈々と受け継がれた生活に欠かせないお風呂文化は、不思議なことにキリスト教世界では完全に排除されました。このシナゴーグには、イスラム建築そのままの部分も今も数多く残っている中で、この部分は基礎部分に埋もれていたわけですから、ローマ帝国とイスラム世界には根づいていたお風呂文化が彼らのお気に召さなかったかがわかるような気がしました。

【セファルディム博物館(Museo Sefardí)】
教会脇の博物館。ユダヤ教の帽子や聖書、十字架や秘物が所せましと並んでいます。ドイツでも現役の、ここよりずっと大きいシナゴーグ(ユダヤ教会)はありましたが、ここは詳細かつ、あっけらかんと並んでいて、気持ちが落ち込むことがありません。

なんとなく見てはいけないようなものまで、並んでいて不思議な感じ(貞操を守るためにつけるものなど)。なんというか大げさに肩ひじ張った感じのない、博物館だもん、と腹をくくったからこそ感じられる、ゆるさがありました。

もちろん、ユダヤ教徒が1492年にスペインより追放令が出た後、どのように移動したか、伝播したか活躍したかといった詳細な歴史も地図とともにパネル展示されています。

元ユダヤ教会として、近くにサンタマリア・ラ・ブランカ教会もあって、こちらにもたくさんの観光客がつめかけていました。
         (つづく)
参考:
https://es.wikipedia.org/wiki/Sinagoga_del_Tr%C3%A1nsito (2023年7月1日閲覧)
https://worldheritagesite.xyz/contents/sinagoga-del-transito/(上期日閲覧)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル107 エル・グレコ美術館(トレド)

2023-06-25 15:50:45 | Weblog
写真はエル・グレコ美術館の外観。美術館というより、私邸を開放したという雰囲気だ。

【エル・グレコ美術館(Museo del Greco)】
トレドのトラベルガイドに必ず登場するエル・グレコ(1541-1614)。彼が描いた対岸からみたトレドの景色は、今も変わらないと言われます。トレド・トレイン・ビジョンの時に、このブログでアップした、あの景色です。

エル・グレコは「ギリシャ人」という意味のイタリア語にスペイン語の定冠詞「エル」がついたあだ名です。本人は絵にサインを入れる時はギリシャ文字で本名ドメニコス・テオトコプーロスと入れていました。ヴェネチア領クレタ島に生まれ、後半生をトレドで暮らしました。

エル・グレコの絵は、一度、見るとけっして忘れることができないインパクトがあります。気迫でしょうか? 傑作と呼び声の高い絵ほど、その傾向が強いのです。白が浮き出た皮膚の感じと、人やものが縦長に伸びて、溶けているような不思議な絵。見つづけていると、荘厳な精神性が流れ込んでくる感覚があるのですが、一見したときの正直な感想は「少女まんがっぽい」でした。

手足が長く、小顔でほっそりとした人物群、中心キャラが立つように配された独特な構図、よくみると目にはキラキラの星だって描かれています。

縦長に伸びたぐにーん感は動きを動きのまま、とらえようとした工夫のように思えてきます。彼の絵の発する独創的空間には、詩的寓意がたっぷりとつまっているよう。鬼気迫る感じで怖い。

もし、自分がこの画家に肖像画を頼んでこんな絵が渡されたら、悩むなあと、ありもしない妄想が膨らんできました。じっさいに教会が彼に宗教画を発注し、出来上がった絵の受け取りを拒否したり、破格の値下げ交渉をして、応じざるをえない状況にエル・グレコが立たされたり、といったことがあったようです。

そのような独特の人物画に比べると、風景画はじつに精密で、彼の力量の確かさがわかります。

エル・グレコの大作はマドリードのプラド美術館やトレドのサント・トメ教会が有名ですが、この美術館は彼の絵と至近で向き合うには適した空間だと感じました。

もともとエル・グレコが住んでいた地区の廃墟を1906年にベガ・インクラン侯爵が購入して修復し、彼が生きたころの調度類を並べ、海外に流出しかけていたエル・グレコの作品を私財を投じて買い集め、1912年に公開したのが始まりの美術館。別名「エル・グレコの家」とも呼ばれていますが、前述のとおり、本当の家ではなく、その近くに住んでいただろう、という場所です。

いまは国営ですが、そもそもがスペインのパラドールの祖をつくるなど、スペインツーリズムの礎を築いた侯爵が手掛けた美術館。氏のなみなみならぬ情熱のなせる業か、驚くほど素直にエル・グレコの絵に向き合うことができました。
                        (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル106 モーロ博物館(トレド)

2023-06-18 10:48:17 | Weblog
モーロ博物館内に展示されていたイスラム式水道管の一部。一見、青銅製かと思ったが、焼成煉瓦の上に釉薬をかけて仕上げた、と解説がついていた。

【モーロ博物館(MUSEO TALLER DEL MORO)】
トレドでもっとも混むサント・トメ教会の近くにあり、14世紀のムデハル様式の建物がよく保存されています。当時のイスラム由来の水道管の一部、装飾された井戸の縁石などが一つ一つ丁寧にガラスケースに納められ、詳細な解説が英語でもついています。

博物館内に掲げられていた19世紀半ばにこの建物を描いリトグラフを見ると、当時、建物の立派さは知られていたものの、人が住んだり、寺院になっていたりというこてはすでになかったようで、馬でそのまま通過したり、倉庫に使われていたような、荒れ果てた様子。

「なんか昔はたいした建物だったらしいぜ」
「へえ、そういや、風格があるな」

なんて声が聞こえてきそう。
1931年に歴史的建築物として国の指定がなされ、1963年に整備されて博物館として公開されました。トレドにあるイスラム建築を構造から知りたい方にはおすすめです。
https://cultura.castillalamancha.es/museos/nuestros-museos/museo-taller-del-moro
※上記のような小さな博物館がトレドのあちこちにあります。さすが、歴史の混み入りと、ある時から時が止って17世紀から完全保存された街ならではの深さ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル105 西ゴート博物館・下 設立のわけは?

2023-06-11 10:29:54 | Weblog
写真はトレドで最も有名な名所であるサントトメ教会とカテドラルをつなぐ道沿いの小さな教会エル・サルバドール教会(Iglesia del Salvador)。古代ローマ時代の遺跡の上に建っていて、壁はローマ後期から西ゴート時代に建てられたままのもの。建物全体は9世紀のイスラームのモスクで、その後、塔を建てて教会とした。教会に設置された解説文には「初期キリスト教会もしくは西ゴート時代の教会の形態を残すユニークなピラスター(壁の一部を張り出した柱形)などが見て取れる」と書かれている。見落としがちだが、ローマ時代の生の遺構を見ることもでき、トレドの複雑な歴史を体感できる。


【フランコの後継指名の時期に開館】
 スペインの人にとってはどうやら常識らしいのですが、私自身が西ゴートをあまりにも知らなすぎると思ったので、もう少し調べてみました。するとスペインにとって特別な意味を持つ国だとわかってきました。

西ゴート王国はスペインで最初に築かれたキリスト教国です。そのため

「スペイン・ナショナリズムの文脈で繰り返し参照される存在であり続けている。」(※1)

 のだそうです。

 アルフォンソ6世が1085年にトレドを攻め落としました。これをスペインでは「奪還」と表現します。たんに堅固なイスラム拠点を落としただけはなく「かつて西ゴート王国の首都であったトレドを取り戻した」(※2)ことを意味しました。つまり、イスラム側にとってもキリスト教側にとってもレコンキスタの文脈でたいへんなインパクトがあったのです。

となると、この博物館の成立年が気になってきました。するとやはり、意味ありげな年月日が浮かんできました。

西ゴート博物館がトレドに建設されることが法令化されたのが1969年5月6日。この年は長くスペインを独裁していたフランコ(将軍)が、後継者に前国王の孫、ファン・カルロスを指名した年です。その時の公告を(グーグル翻訳で)読むと、

「西ゴート時代は伝統的なスペイン人の団結精神の基層をなす」(※3)

と定義した上で、

「そのためこの博物館をトレドに設置する」

と書かれています。実際に翌年に開館しました。


※1 『スペインの歴史を知るための50章』立石博高、内村俊太編著、明石書店、2016年10月
※2『一冊でわかるスペイン史』永田智成、久木正雄編著、河出書房新社、2021年3月
※3 州官報:https://www.boe.es/boe/dias/1969/05/06/pdfs/A06778-06778.pdf
(つづく。次回はモーロ博物館です。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル104 トレドの博物館① 西ゴート博物館・上 

2023-06-04 17:27:45 | Weblog
西ゴート博物館にあった展示物の一つ。龍の首が長くて胴体があり、首の先にはあわれ、人が飲み込まれようとしている。

【博物館めぐり】
トレドについた翌日は日曜日。日曜は驚くべきことに博物館、美術館の多くが無料開放になっていました(場所によっては午後だけといった時間指定あり。)いずれも無料だというのにまったく混んでいませんでした。
トレドは星の数ほど博物館、美術館があるので、あまりサイトで紹介されていなかったり、見るコツが必要だったりしたところから紹介します。)

西ゴート博物館の入口。

【西ゴート博物館】
まず西ゴート博物館。「西ゴート」という単語は私の人生で記憶にあるのは高校時代の世界史の教科書のなかの数行のみ。たしか

アジアからフン族が移動したことによって、ゲルマン民族の大移動がおこり、「西ゴート」が5世紀初頭、ローマ帝国の首都ローマに迫り、ローマ人を震撼させた

みたいなことが書かれていたなあ、ぐらいしか記憶がありません。ある意味、興味津々。

改めてスペイン史をみると西ゴート王国はイスラムに攻略されるまでトレドを首都として200年弱(560年代~711年)栄えていたそうです。日本の歴史で考えると奈良時代に入る前に滅亡し、その地に他の文化が栄えたわけですから、美品はほとんどないのですが、19世紀にトレド郊外の農地で、石柱のかけらや「最後に貴族らが逃げる時に埋めたのでは」といわれる宝飾品が発現しました。それらを中心に本物やレプリカが展示されています。

博物館は13世紀に建てられたムデハル様式のサンロマン教会にあり、西ゴートの建物ではありませんが、建物自体にも歴史があり見ごたえ十分。木組みがすばらしく、荘厳です。

さて西ゴートの品々を一言でいうと、素朴。かといって振り切った独自性があるわけでもない。精巧なギリシャ彫刻の対極にあるような石の彫刻物が並んでいました。この感じは、中国の歴史展で殷の時代の精巧な青銅器を見た後に、漢の時代の昔のものをまねて量産化していってだんだん、形がゆるくなっていった墓に納められた品々を見ているよう。

そんな中で一番印象的だったのが、人がドラゴンに食われている石像でした。ヘタウマ系のためぱっとみ、よくわからなくて、かわいげすら感じるのですが、よく見るとモチーフが狂暴で、戦闘的。ただわかろうとして逆に見入ってしまい、後々まで記憶に残りました。

解説がスペイン語でほとんどわからなかったのですが、ローマ式の石柱の一部や鋳造された十字の花弁のようなものやコイン、鍵、などの小品からローマ文化の影響が感じられました。
日本では西ゴートを主題にした展覧会や、研究書は多くないので、行く価値はあります。
https://www.arukikata.co.jp/web/directory/item/102274/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする