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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



859年の旱魃の際、清和天皇の勅使が大和神社に使わされた記録があり、平安時代までの宮中の祈雨幣帛には必ず大和神社が与っていたようです。

拝殿



927年頃の延喜式にも、雨乞いの際に奉幣する神社のリストの筆頭に大和(おおやまと)神社が位置しています。

平成20年にも幣帛があったようです



古来、朝廷から祈雨の神として尊重を受けていたのは、大和丹生川上神社と京都の貴船神社でしたが、丹生川上神社の上社と貴船神社の祭神は、双方ともに高龗(たかおかみ)神です。

大和神社の本殿



は、水や雨を司る神である龍の古語とされ、「高」は山の上を指すので高龗神社は、大和神社の東にある龍王山(586m)を神体山としていたようです。



丹生川上神社の高龗神は、大和神社の拝殿の南側に鎮座する摂社、高龗神社を勧請したと伝わっています。



祭神の「龗」を社名とする神社(龗神社、高龗神社、闇龗神社、意賀美神社…など)は全国2千社を超えるといいますが、その総本社が大和神社にある高龗神社のようです。



ヤマトタケルの故郷にあって日本最古の神社、伊勢神宮に匹敵する宮中の尊崇を受け、最高の祈雨の神(高龗神)を摂社とし、戦艦大和に祭神を分霊していたのが、この大和神社なのです。


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今日は終戦記念日なので、大和神社と太平洋戦争とのかかわりについてご紹介しましょう。

大和神社の社務所



今から100年以上前の1898年、JR桜井線の前進となる奈良鉄道の奈良京終から桜井間が開通しています。

桜井線の線路と長柄駅から見た大和神社の森



その途中にある長柄駅の設置は、少し遅れた1914年、その長柄駅から程近い場所に大和(おおやまと)神社があります。

拝殿



日本書紀には、崇神天皇6年、それまで宮中に天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を祭っていましたが、二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにしたとあります。

大和大明神の扁額



天皇家が最も大切にしていた二神のうち、倭大国魂神を主祭神として祀るのがJR長柄駅に近い大和神社です。

一の鳥居と参道



1941年11月に完成した戦艦大和には、同名であることから大和神社の祭神の分霊が艦内に祀られていたことはあまり知られていません。

二の鳥居から見た参道



また戦艦大和が母港に帰還するたびに、艦長以下の幹部が大和神社に詣で、武運長久を祈願したこともあったようです。

拝殿は当時のまま



その戦艦大和は、1945年沖縄出撃中に米軍機の攻撃を受けて沈没しましたが、そのときに亡くなった2736名の英霊(大和神社のHP)が末社の祖霊社に合祀されています。

末社の祖霊社



さらに1972年には、戦艦大和と共に出撃した巡洋艦矢矧や駆遂艦8隻の戦没將士英霊をも併せ、海戦の全戦死者3721柱がここに祀られているようです。



大和神社の拝殿の上には、戦艦大和進水当時の呉海軍工廠造船部長、元海軍技術中将、庭田尚三氏自筆の琵琶歌が書かれた額が掲示されていました。



山の辺の道の途中にある静かな大和神社にも、かつて戦争とのかかわりがあったのでした。


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昨日の記事からの続きですが、アラビア石油から分譲契約解除の申し入れを受けた大阪市は、1967年(昭和42年)8月に南港を重化学工業用地とする計画を変更し、企業用団地と住宅地ポートタウンの整備計画を発表しています。

ポートタウン



アラビア石油が予定通り進出していれば、現在の南港は石油化学工場がひしめきあう堺臨海石油化学コンビナートのようになっていたのかもしれません。



南港埋め立て計画は、このあとも順次追加されて最終的に937ヘクタールとなり、この面積は神戸ポートアイランド1,2期合わせた826ヘクタールを100ヘクタール以上も上回っています。



埋め立てとともに南港のコンテナ埠頭の整備も進み、大阪万博の前年となる1969年(昭和44年)に完成、フェリー埠頭も1971年(昭和46年)7月にオープンしています。

一部のフェリーがコスモスクエアに移転して寂しいフェリーターミナル



また1978年(昭和53年)には、ポートタウンの一部が完成、住民の入居が開始されているので、ポートタウンは今年31周年となるようです。

ポートタウン



1980年(昭和55年)12月には埋め立て工事とすべての埠頭が完成、翌1981年にはニュートラム南港ポートタウン線も開業しているので、ニュートラムは今年が28周年となります。

ポートタウン東駅



さて、バブル全盛期1988年に決定された「テクノポート大阪」計画に基づき、大阪市は南港にATC、WTCなどの巨大ビルを次々と建設しましたが、バブル崩壊でその全てが破綻したのは有名な話です。

左がATC中央がWTC



2000年以降、土地の定期借地権方式による分譲を導入し、コスモスクエア駅前には大規模なマンションの建設も始まっていますが、南港地区937ヘクタールとトンネルで繋がった北港地区(夢洲と舞洲あわせて780ヘクタール)の今後の発展は、大阪府庁のWTC移転にかかっていると思います。

港湾施設とWTCとポートタウン



南港と北港あわせて1700ヘクタール(17平方キロ:中央区と城東区をあわせた面積とほぼ同じ)もある埋立地の有効利用を図るため、大阪市は全力を上げて大阪府庁をWTCに誘致する行動を起こすべきでしょう。


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8月1日に大阪南港(咲洲)から夢洲に渡る海底トンネル「夢洲トンネル」の開通式があり、北港と呼ばれていた夢洲、舞洲地区と南港地区がつながっています。

ATC前の帆船あこがれ



さて、南港の埋め立ての歴史を調べてみると、今から82年前の1927年(昭和2年)、大阪築港第二次修築計画に盛り込まれた南港埋め立て構想からスタートしたようです。

コンテナ埠頭



実際に、ニュートラムの南港口駅から西地区の埋め立て工事が開始されたのは、1933年(昭和8年)7月からで、埋め立てが完了した土地を大和川国際飛行場とし、そこに木津川河口にあった飛行場を移転させる計画でした。

船の後が木津川河口



それまでの繋ぎの仮設空港が伊丹空港だったのですが、本命の大和川国際飛行場は日中戦争、太平洋戦争に突入したために、1944年(昭和19年)に63ヘクタールが埋め立てられたまま工事が中断しています。

フェリーターミナル



工事が再開されたのは、1958年(昭和33年)からで、大阪経済の地盤沈下を解消するため、重化学工業用地として574ヘクタールを整備することが決定してからでした。

フェリー



翌年には、アラビヤ石油から330ヘクタール(100万坪)の敷地分譲の申し込みがあり、埋め立て事業に拍車がかかっています。

港湾施設とWTC



アラビヤ石油の進出で勢いついた大阪市は、1960年(昭和35年)に、1、2区337ヘクタール、3区368ヘクタール、合わせて705ヘクタールと面積を増やす計画を発表しています。

関西電力南港発電所の煙突



埋め立てには手間取りましたが、1、2区337ヘクタールは、予定通り1965年に完成する目途が立っていました。

ポートタウン東駅前



ところが、1期工事完成直前の1964年(昭和39年)、突然アラビア石油から国の石油政策の変更を理由に分譲契約解除の申し入れが出てきたのです。

つづく


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かつて歴史学者の直木孝次郎氏(1919年~)は、JR桜井線の三輪駅から長柄駅沿線が狭義のヤマト(倭国造が支配していた地域)で、6~7世紀頃まで繁栄していたという説を発表しています。

長柄駅と桜井線



倭国造の祖は、神武天皇の東征の際に明石海峡付近で海導者となった椎根津彦とされ、その祖神が大和神社の主祭神、倭大国魂神です。

一の鳥居



ヤマトタケルの父親が景行天皇、その祖父が崇神天皇ですが、大神(おおみわ)神社から大和(おおやまと)神社までの間のJR桜井線の沿線には、南から箸墓古墳、景行天皇陵、崇神天皇陵などの古墳が存在していて、かつて重要な地域であったことが判ります。

大和神社二の鳥居



692年、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに大和神社に奉幣し伺いを立てていますので、当時朝廷が尊崇する4大社のひとつだったようです。

大和神社拝殿



奈良時代までの大和神社は、倭大国魂神を祀る神社として、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得ており、隆盛していたのは確かなようです。

伊勢神宮内宮



平安時代に入り、10世紀末頃に定められた二十二社でも、「上七杜」の次に大神神社・石上神社・住吉大社などと共に「中七社」に列せられています。

石上神宮



しかし次第に衰退し、中世には社領を全て失ったために、他の神社に比べると知名度の不足は否めないようです。



衰微した理由として、大和神社の鎮座地が、景行天皇陵付近(大和神社の祭りと伝承:桜井、菊池共著)とされる当初の場所から現在地に遷座したことがあるようです。

大和神社拝殿



しかし、大和神社の歴史を知る人々によって明治に入った1871年、官幣大社に列せられ、新たに社殿が造営されています。


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かつて倭建命(ヤマトタケル)は、日本を平定する戦で亡くなる直前「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭しうるはし」と故郷を歌ったといいます。

ヤマトタケルの故郷の山



それは、「大和は国の中心ですばらしいところ。山々が重なり合い、青々と垣根のように囲んでいる。大和はなんと美しい国だろうか」という意味のようです。

大和神社の森



この歌に詠まれた倭(やまと)とは、JR桜井線の三輪駅から長柄駅まで辺りの地域で、ヤマト王権の故郷はこの地にあったとされ、そこにはヤマトタケルの父親、景行天皇陵もあることが知られています。

長柄駅



3世紀の魏志倭人伝には、中国(魏)が当時の日本、ヤマトを「倭」と書いていますが、背の低い、なよなよとした人々の住む国という意味です。

大和神社の森



中華思想の中国から見た辺境は、東夷、南蛮、西戎、北狄という侮蔑すべき人々が住む地域で、日本も当然その対象だったのです。

道の右が大和神社



8世紀前半までの日本では、その意味を知らずに自ら大倭国と記していますが、この背伸びしたがる姿勢は、「大日本帝国」と称していた60数年前まで続いていたように思います。

大和神社の参道



しかし、意味に気がついたためか、757年に倭を和と改め、以降のヤマトは「大和」と書かれ、その読みは「おおやまと」でしたが、次第に簡略化されて「やまと」と詠まれるようになったようです。



JR桜井線の長柄駅から程近い場所にある大和(おおやまと)神社も、かつては大倭神社と呼ばれていて、藤原宮造営の692年、「伊勢、大倭、住吉、紀伊の大神」に勅使による奉幣があったと記録されていますので、当時は伊勢神宮と並ぶ4大神社の一つだったようです。


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安治川西岸から難波にあるビル群を見てみると、ひと際明るく光っているビルが、ナンバHIPSで、上空にビルの影ができるくらい強烈な照明に照らされています。



その右側はるか先には、小さな通天閣の白く光る姿が見え、手前の安治川は川幅が不自然に広がっています。



この広くなった部分の東側は、かつて住宅があり電車も走っていた地域でしたが、戦後ここから土が掘削されて周囲の土地の嵩上げに使われ、掘りこまれた部分は安治川内港となっています。

通天閣と月



さらに右側には、巨大な港大橋の全体が見渡せますが、橋にとりつく高架道路の曲線が芸術作品のように見えています。



安治川西岸から最も右側に見えるのは、観覧車のある天保山ハーバービレッジ、海遊館、さらに南港のWTCビルです。



その拡大



天保山大橋のケーブル越しに見えているのは、コスモスクエアの新しいマンション群で、ひときわ明るく輝いていました。



安治川西岸のように梅田から南港まで大阪市内を一望に見渡せるスポットは、大阪市内でも少ないのではないでしょうか。



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大阪の夜景鑑賞スポットは、市内にいくつもあると思いますが、中でも安治川の西岸から見た大阪の夜景は上位にランキングされるのではないでしょうか。



安治川の西岸からは、中之島のビル群を中心に、左に梅田、右に本町までの大阪のビジネス中心が一望できます。



中之島の手前に見える安治川水門は、台風など高潮が発生した際に閉じられて水害から大阪中心部を守るためのもので、今でも万一の際の機能確認のために定期的に作動させているようです。

昼の北浜タワー



大阪のビジネス中心でひときわ高いビルが、日本最高の超高層マンション、北浜タワーで、各階に照明が点灯していることから既に居住されているようです。



その右側を見ると、安治川内港の弁天埠頭とJR環状線弁天町駅前にある超高層ビル3棟、さらに難波のビル群が見えています。



弁天町駅前の超高層ビル3棟の背後にあってほとんど隠れていますが、京セラドーム大阪の姿も少しだけ伺うことができています。



その右側のずっと先には、大阪の観光名所、通天閣が白くライトアップされロウソクのように立っていました。



つづく

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大丸心斎橋店の北隣にあるそごう心斎橋本店は、この8月末をもって閉店し、心斎橋での歴史に幕を下ろすことになります。

大丸とそごう



1877年(明治10年)、心斎橋に移ってきた小さな「そごう呉服店」は、明治、大正期を通じて周囲の土地を買収しながら店舗を増築、昭和に入っても御堂筋に面した土地の買収と店舗の増築工事に着手しています。

大丸



その費用をまかなうため、小樽に本社のある板谷商船の社長、板谷宮吉(二代目)から資金を調達しましたが、拡大路線は裏目に出て、1935年(昭和10年)に十合一族の持ち株の大半は、板谷宮吉のものとなっています。

大丸でもセール中



つまり、そごう百貨店は、その時点で十合一族から離れ、板谷財閥と資金を貸し付けた銀行のものになっていました。

そごう



1958年、二代目板谷宮吉と遠縁となる水島廣雄氏が興銀から副社長として入社、後に社長となって積極的な拡大路線を取ったことでまたもや失敗し、破たんを招いています。



さて、そごう本店は、8月31日の営業終了に向けて、在庫を残さないよう次々にセール品を投入し、日ごとに値下げ幅を大きくするので、これからそごう心斎橋本店での買い物は、めったにないチャンスかもしれません。



大阪市民の一人としては、ライバル関係にある百貨店が心斎橋で競争をしながら、サービスの質を高めて欲しいと思っていたので、撤退は残念です。

そごうマーク



今回大丸に売却されたことで、11月に大丸心斎橋店北館となり「そごうマーク」を撤去する必要に迫られますが、外壁のそごうマークは大丸マークに簡単に取り換えすることができるのでしょうか。


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インターネットで「御堂筋」を検索してみると276万のヒット、一方「芭蕉」を検索してみると、ほぼ同数の270万がヒットするので、松尾芭蕉の人気の高さが伺われます。

伊賀市の芭蕉像



「奥の細道」で有名な俳聖、松尾芭蕉が南御堂のすぐ東、現在は御堂筋となっている花屋仁左衛門方で1694年に亡くなっていることを知る大阪市民は少ないのではないでしょうか。

御堂筋南御堂前



その150回忌の天保年間(1844年)に、南御堂に句碑「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が建てられ、この句碑は現存しています。



さて、花屋のあった御堂筋の緑地帯の中には、1934年に建てられた「芭蕉終焉の地」を示す小さな石碑が残されていますが、あまり目立たないので見逃す人も多いのではと思います。



そこで大阪市に提案ですが、芭蕉の315回忌を記念して、「芭蕉終焉の地」付近の御堂筋緑地帯にバショウの株を植樹し、大阪御堂筋が松尾芭蕉にゆかりのある場所であることを市民や観光客にアピールするのはどうでしょうか。

石碑のある又一ビル前



「芭蕉終焉の地」の石碑のすぐ南側に植樹すれば、ビルの無い九太郎町通りから朝日が差し込むのでバショウの成育に良いのではないかと思います。

又一ビルの前に石碑が小さく見えている



また芭蕉命日となる旧暦11月28日は、年末に当たるので、バショウをライトアップして芭蕉を偲ぶというアイデアもあると思います。

南御堂のバショウ



江戸時代の大坂商人は、芭蕉150回忌に南御堂の句碑を残し、それから165年目の大阪市民は、御堂筋にバショウを植樹したと後世の人に感謝されると思いますが・・・・

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松尾芭蕉(1644~1694年)の生家を購入した旧藤堂藩士立入氏が、1950年に伊賀市に建物を寄付したことで、芭蕉ゆかりの建物が現在まで残ったようです。

生家正面



奥の8畳の間の横にはかまどや井戸もあり、江戸時代の民家の様子が良く保存されていると思います。

奥8畳



土間を抜けた奥に、茶室のような質素な書斎「釣月軒」があり、芭蕉はここで処女句集「貝おほひ」を執筆したと言われています。

台所



釣月軒の入口前にはビワの木があって、そのビワの実が少し釣月軒の屋根に落ちていました。

釣月軒



釣月軒の前には、芭蕉句碑があり、「冬籠り またよりそわん 此はしら」とあり、旅から庵に帰ってホッとした気持ちを詠んだ句のようです。

句碑



また釣月軒の奥の庭には、俳号にちなんだバショウの木が植えられ、芭蕉生家の雰囲気を出していました。

バショウ



上野城跡には、1959年に開設した芭蕉翁記念館があり、館内展示室には芭蕉直筆資料などが展示してありました。



数え年51歳でなくなった芭蕉に「翁」とは、ちょっと違和感がありますが、後の本居 宣長(1730~1801年)が「二人なき翁なりけり、この道に翁といえばこの翁」と書いて賞賛して以降、芭蕉翁と呼ばれるのが普通になったようです。

句碑



だんじり会館前にある新しい句碑には、「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉の花」とあり、奥の細道の旅で見た紅花が、化粧道具の眉刷きに似ていることを詠んだ句のようで、ドナルド・キーンの英訳(They me recall A lady's powder puff These saffron biossoms)が絶妙でした。


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松尾芭蕉(1644~1694年)は、三重県伊賀市で生まれ、幼少の頃から29歳まで伊賀市上野赤坂町で過ごしたと言われ、その生家が観光名所となっています。

上野市駅前の銅像



その後1672年に江戸に出た芭蕉は、野ざらし紀行、鹿島紀行、笈の小文、更科紀行、奥の細道などの紀行文を残す旅に出ていますが、その途中たびたび伊賀上野の生家に立ち寄っていますので、実兄のいた故郷を大切にしていたようです。

芭蕉生家



先日、伊賀上野に立ち寄った際に芭蕉生家を訪ねてみると、300年以上前に芭蕉が暮らした家にしては新しいように感じました。

芭蕉生家



よく聞いてみると、芭蕉生家は1854年の安政の大地震で伊賀上野の街と共に被災、幕末に復旧された時点でかなり改築されているようです。

芭蕉生家



生家の西門の外には、芭蕉句碑があり「古里や 臍のを(緒)に泣(なく) とし(年)のくれ(暮れ)」とあり、生家に立ち寄った芭蕉が、自分のへその緒を見つけて、生母をしのんだ句のようです。

芭蕉句碑



芭蕉の実兄から続いた松尾家は、明治までこの地に住んでいましたが、1885年にこの家を売却して転居したようです。

上野城内にある芭蕉翁記念館



説明によれば、内部の間取りはよく保存されていて、芭蕉が住んでいた当時と余り変わってないそうです。

芭蕉の書斎、釣月亭



さて、生家に入った右手にある表の間は、公用に使い、その奥の4畳と庭に面した8畳の座敷はプライベートな用途に使っていたようです。

芭蕉生家、表の間



奥の8畳座敷に面した庭の隅には小さな土蔵もあり、火災の多かった江戸時代、貴重な財産はそこに収蔵していたのでしょう。

つづく

参考文献:松尾芭蕉(阿部喜三男著)


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御堂筋に面したシティバンクビル北の路地を西に入ると道頓堀変電所ビルのタイル壁に描かれた有名なイラスト「PEACE ON EARTH」が見えてきます。



大阪生まれの黒田征太郎氏(1939年~)のこのイラストは、アメリカ村を象徴する壁画として、何度も紹介されてきている有名作品です。



ところでアメ村は、かつて木材加工業などの倉庫など並ぶ殺風景な地区でしたが、1969年に空間プロデューサーの日限萬里子さん(1942~2005年)が三角公園の近くに喫茶店「ループ」を開き、評判を集めたことから若者が集まる地区になったようです。

三角公園



一時は西の原宿とも呼ばれ、店舗数2500を越える若者ファッションのメッカのような賑やかな街で、歩道は若者で溢れていたことを思い出します。



喫茶店「ループ」の開店から20年後の1989年には、三角公園の横に「BRUTUS」ビルがオープンしています。



さらに1990年には、タワーレコードがオープン(2006年閉店)、バブル崩壊直後の1993年には、旧大阪市立南中学校跡地にビッグステップが誕生しています。



このビッグステップの共有空間が、若者たちのコミュニケーションの場となり、アメ村にますます若者を引き付けるようになったと言われています。



ということは、アメ村のスタ-ト(喫茶店「ループ」開店)から今年が40周年となるわけですが、アメ村も時代の流れか、街自体の荒廃からか、客足は次第に遠のき、今では最盛期の半分以下とか。



確かに、三角公園の隣にあったアメ村の中心「BRUTUS」ビルまで閉鎖されていたのには吃驚しました。



そのすぐ南側には、空き地があり雑草が生い茂っていましたが、昔のアメ村では考えられない状況でしょう。



若者に20年前のようなエネルギーが見られなくなった大阪で、果たしてアメリカ村は復活するのでしょうか。


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昨日の記事からの続きですが、1694年芭蕉が亡くなった花屋の跡地には小さな「芭蕉終焉の地」の石碑が置かれています。



当時の花屋は、南御堂の東側、又一ビルの西側辺りにあり、今は御堂筋の緑地帯となってしまっている跡地に芭蕉翁終焉の地の石碑がひっそりと建っています。



さらに、南御堂の北側には、史蹟芭蕉翁句碑の石碑があり、境内には150回忌となる天保年間に建てられた古い句碑「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が残されています。



その芭蕉翁句碑を見に行くと、近くに植えられたバショウに花がついていて、付け根にバナナのような実も見えていました。



中国原産のバショウ科の多年草バショウは、高さ2~3mに達し、長さ1~1,5m、幅50cmくらいある大きな葉をつけ、花や果実はバナナとよく似ています。



主に観賞用として植えられ、花序の付け根にバナナそっくりの小さな実ができますが、バナナと違って食用にはできないようです。



後に俳諧師となった小林一茶(1763~1828年)は、「芭蕉様の すねをかじって 夕涼み」と、芭蕉に感謝する俳句を残しています。


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「古池や 蛙(かわず)とびこむ 水の音」の俳句で有名な俳聖、松尾芭蕉(1644~1694年)の実家は、城主藤堂家の侍大将(5000石)藤堂新七郎家につかえていた地侍だったようです。

伊賀市の芭蕉像



芭蕉も幼いころから藤堂新七郎家の良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の主人とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入っているので、幼少期よりしっかりとした教育を受けてきた人物です。

南御堂は芭蕉にゆかりの地



1666年に主人の藤堂良忠が若くして歿すると、芭蕉は俳諧師を職業とすることを目指して仕官を退き、1672年には故郷を出て江戸に下っています。

今の南御堂



6年後の1678年には「江戸三吟」を出版、俳諧師としての実力を認められるようになったようです。

南御堂本堂



1680年には深川の草庵に入り、門人からバショウの1株を贈られたところから、草庵を「芭蕉庵」と呼び、1682年頃から自らの俳号もそれまでの「桃青」から「芭蕉」へ改めています。

南御堂境内のバショウ



さて、最晩年の1694年、江戸から伊賀の生家を経て大坂にでてきた芭蕉は、南御堂に近い花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残していますが、「病中吟」との前詞があり、辞世とは意識していなかったようです。

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