隠岐汽船は、設立から3年間赤字が続き、4年目に僅かの利益を出し、1910年までの13年間、乗客数が少しづつ延びて業績が黒字となったようです。
設立時本社があった菱浦

その後、隠岐丸は3隻に増船され、日露戦争後の1905年には舞鶴で阪鶴鉄道に連絡する航路を開設、1910年の朝鮮併合直前には隠岐から下関、鬱陵島を経由して朝鮮東岸を巡航する北韓航路も開設し、日本の成長と共に力強く歩みはじめています。
菱浦に1892年来島した小泉八雲夫妻の銅像

しかし、北韓航路開設は、体力に余る拡大策だったようで、翌1911年から1915年まで毎年のように赤字決算となっています。
菱浦港のヨット

1916年には、航海数を大幅に削減するリストラをした結果、創業以来最大の利益を出しています。
菱浦を出るフェリー

その後も航海数を押さえ、隠岐汽船の業績は徐々に回復したようです。(参考文献:島根県の歴史)

現在の隠岐汽船は、2300トンクラスのフェリー3隻、高速水中翼船1隻の4隻で隠岐と境港、七類港を運行していますが、島の人口減少で経営状況は思わしくないようです。

そこで、隠岐郡の4町村で構成する隠岐広域連合が船を買い取り、2007年から隠岐汽船に無償リースして運航委託しているようです。
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ラフカデイオ・ハーンの「日本瞥見記」に隠岐の島の菱浦といふ漁村の印象を次のように書いてあります。
「自分は隠岐に於ける何の場所よりも、此処(菱浦)を喜んだのである。兎に角、菱浦の方が、西郷(港)よりも、一層自分の気に入った・・」
此処の入江は、遊泳に持って来いの所であるらしい。
こんばんは
ラフカデイオ・ハーンの「日本瞥見記」ですか。
一度読んでみたいと思います。
ナゼ 又 オ耳ガ 長イヤラ
阿母サンノ オナカニ居ル時ニ
琵琶ノ葉 笹ノ葉 タベタソナ
ソレデ オ耳ガ 長イソナ
其の音調、一風変わりて、優しく又哀れに、・・との
記述ありますが、現在でも歌い継がれて、いるかな~
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