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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事からの続きとなります。さて翌日の慶応4年1月6日、薩長連合軍と幕府軍との戦闘が橋本で開始されますが、藤堂勢は昨晩の勅使の指示にもかかわらず未だ迷っていました。

上野城



しかし、長州支藩の徳山藩10代藩主、若い毛利元功(もといさ、後に子爵1851~1900年)が藤堂藩の陣屋に駆け込んできて、藤堂藩が持っていた新式山砲3門を長州軍に貸すよう迫ったのです。

上野城本丸石垣の上



錦の御旗と、勅使の来訪、さらに目前の徳山藩主の催促を受け、藤堂勢を率いていた伊賀上野城代の藤堂采女元施(もとひろ、1836~1877年)は、ついに独断で1キロ離れた対岸の幕府軍に対する砲撃命令を出したのです。

伊賀市の菅原神社



藤堂勢の4斤山砲3門の威力はすさまじく、橋本にいた幕府軍は瞬く間に壊滅状態となって全軍が大阪へ潰走する事態となっています。



これを聞いた徳川慶喜は、翌1月7日、ひそかに大坂城を脱出して天保山沖から幕府の軍艦開陽丸に乗り、江戸に逃げ帰ったのはよく知られています。

伊賀鉄道上野市駅



つまり、藤堂藩の伊賀上野城代が突然、幕府軍に対する砲撃を命じたことが鳥羽伏見の戦いの勝敗を分け、幕府軍の敗退を見た諸藩がなだれをうって官軍側についたことが戊辰戦争を短期に終結させたのです。

上野城本丸石垣の上



藤堂家は、最初に官軍に寝返って、藩祖高虎の伝統(主人を浅井、織田、豊臣、徳川と変えた)が良く受け継がれていると皮肉を言われていますが、真っ先に寝返ったのは、現職の老中、稲葉正邦の淀藩で、他の諸藩も会津と桑名を除いてすべて官軍に寝返ったのです。

だんじり会館



藩を独断で寝返らせた藤堂采女元施は、上野城内で謹慎し、切腹の沙汰を待っていましたが、藩主藤堂高猷(たかゆき、1813~1895年)から賞賛され、400石の加増まで受けています。

上野城城代屋敷の石垣



藤堂藩は、その後も官軍の東海道先鋒、橋本実梁(さねやな、1834~1885年)の指揮下に入り、江戸上野の彰義隊攻撃や、奥州の戦いに従軍しています。

上野城城代屋敷裏門付近



明治に入り、藤堂高猷が津藩知事に任命されると、藤堂から保田と改姓した保田元施は、求められて津藩の権大参事筆頭になり、その後伊賀一ノ宮の敢国神社の権宮司に退き、明治10年、41歳の若さで亡くなっています。

上野城城代屋敷の東にある歴史資料館



1884年華族令が制定され、新政府に功績のあった15万石以上の大藩の旧藩主は、侯爵に叙任されていますが、藤堂家(32万石)は、何故か1段低い伯爵に留まっているので、鳥羽伏見での最初の寝返り大名という誤解があったのかもしれません。

参考文献「最後の伊賀城代」(著者:藤林明芳氏)


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