隠岐と本土を結ぶ海上航路は、1885年(明治18年)西ノ島の松浦氏が、隠岐四郡連合町村会と共同で大阪商船のイギリス製木造蒸気船「速凌丸」(132トン)を購入して「隠岐丸」と改名、菱浦から浦郷、境港間を運行させたことに始まったようです。
菱浦港

松江藩士の娘、小泉セツと結婚したアイルランド人、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その「隠岐丸」に乗船して1892年の夏に菱浦を訪れ、ここで9日間滞在しています。
旅館跡地の小泉夫婦像

その3年後、1895年に隠岐汽船株式会社が設立されていますが、設立当初の最大の株主は、中ノ島海士村崎に居住していた渡辺新太郎で、渡辺は初代社長に就任しています。
郵便局

菱浦郵便局前には、それを示す「隠岐汽船発祥の地」の石碑があり、明治28年隠岐汽船はこの地に誕生しましたとあるので、社長の出身地である中ノ島菱浦に本社を置いていたようです。

また中ノ島福井村の魚山幸市も第三代社長に就任していて、隠岐汽船黎明期の社長は中ノ島から出ているようです。
小泉八雲来島100年の記念碑

ちなみに隠岐汽船創設時、その総株数の6割以上が島前3島(中ノ島、西ノ島、知夫里島)、残りが島後と境港の折半と「島根県の歴史」にありました。
西ノ島の浦郷港

島前3島は、島後、境港に比べると一番人口が少ない地区ですが、隠岐汽船に6割も出資したのは、島後と境港間を結ぶ別の海運会社があったからでしょうか。
島後と本土を結ぶ隠岐汽船フェリー「おき」

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こんばんは
東京から中ノ島までは、かなり距離がありますが、
ご先祖の墓参ができて良かったですね。
隠岐女の幼児を抱きつつ(歌う)世にも稀なる、古代風な子守唄の声さへ、耳に入るのであった。
「ネンネコ オ山ノウサギの子
ナゼ 又 オ耳ガ 長イヤラ
カカサンノ オナカニ居ル時ニ
枇杷ノ葉 笹ノ葉 タベタソナ
ソレデ 御耳ガ 長イソナ」
その音調、一風変わりて、優しく又哀れに、出雲や他の所で歌うのとは、人を動かすに於いて、大に優れて
いるのである。・・との、記述に感動しました。
また、小泉八雲の銅像写真を初めて拝見し、コメントさせていただきました。 東京郊外の福生市より、
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