野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



阪急神戸線の六甲駅で下り、鶴甲行きの市営バスに乗って六甲山の山裾にある神戸大学近くまで来ると、六甲川沿いの急な斜面にマンションが一杯建っています。



六甲川の右岸を少し上ると、神戸松陰女子学院大学のキャンパスで、女子大らしい綺麗な校舎が斜面に点在していました。



その南側にある広い通学道路が西に突き当たった地点に「ジークレフ六甲の丘」という分譲マンションがあります。



このマンションの全面道路の勾配を見ると、真夏に外を歩くのがどれほど困難か理解できるのではないでしょうか。



さて、この敷地にはもともと神戸製鋼所の古い社員寮がありましたが、1995年の阪神大震災でダメージを受けて取り壊され、震災復興住宅として1999年にこのマンションが建てられています。

ジークレフ



写真のコンクリート打ち放し仕上げを見てすぐ判ると思いますが、設計者は安藤忠雄建築研究所です。

ジークレフ



年月が経っても古さを感じない安藤デザインの特長でしょうか、完成から既に10年が経過していますが、全く古いマンションという印象はありませんでした。

ジークレフ



実は、このジークレフ六甲の丘の南側には、同じ安藤氏の設計の「パラマウント六甲」(1993年完成)、さらにその西に隣接した土地に「ザ六甲アパートメンツ」(1983年完成)という二つのマンションがあるのです。

ジークレフ



安藤忠雄建築研究所では、最初の「ザ六甲アパートメンツ」を六甲の集合住宅Ⅰ、「パラマウント六甲」を六甲の集合住宅Ⅱ、「ジークレフ六甲の丘」を六甲の集合住宅Ⅲと呼び、阪神間を代表する集合住宅作品としているようです。

ザ六甲アパートメンツとパラマウント六甲(右)



Yahooのスクロール地図を見ると、マンション名はちゃんと出ていますが、「六甲の集合住宅」とは出ていないので、近くまできてそれを探すのに苦労する人が多いようです。

ジークレフ六甲の丘前の道路



では、早速「ジークレフ六甲の丘」の前の道路を下り、「六甲の集合住宅Ⅰ、Ⅱ」が見える場所まで私がご案内しましょう。  つづく



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7月に入ったUSJでは、「マジカル・スターライト・パレード」のスタートを午後7時45分(土日祝日は、午後8時)からとしていますので、早く入場した客はパレード開始までかなり長く待つことになります。



梅雨明けのUSJは、日が暮れるといくらか涼しくなるものの、大阪特有の蒸し暑さの中、午後7時45分まで会場で待つのは大変です。



そこで、冷房の利いた涼しいホテルの中から「マジカル・スターライト・パレード」が見えるポイントが無いか探してみました。



USJのオフィシャルホテル、ホテル京阪ユニバーサルタワーは、地上138mもあるので、ひょっとしたら客室からパレードが見えるかも知れないと思い、高層階のファミリールームから地上を覗いてみました。



するとUSJ寄りのファミリールームの小窓から、パレード出発前に整列した37台のフロートが見えるではありませんか。



パレードのスタート時間には未だ早かったので、イルミネーションが点灯していないフロートもちゃんと見ることができました。



USJの中で見る「マジカル・スターライト・パレード」では、すべてのフロートのイルミネーションが点灯していますが、ここでは点灯前のフロートを見ることができます。



さて、スタート時間が来ると、イルミネーションが点灯したフロートが動き出しますが、遠くから見るせいかLED(発光ダイオード)の色の変化が実に良くわかります。



また、パレードが始まる前の舞台裏にいるスタッフの緊張なども手に取るように見えて、興味深いものがありました。



このパレードは、37台のフロートが連続して出発しますので意外と早く、ちょっと目を離すと最後のフロートが通り過ぎるところでした。



USJ会場の混雑が苦手な人や、暑さが苦手な人に、ホテル京阪ユニバーサルタワーの客室からゆったりとパレードを鑑賞するというのはどうでしょう。



但し、チェックインの時に「USJが見える部屋」と頼み、うまく空室があればラッキーなのですが、これから混雑が予想される夏休み中は難しいかも知れませんね。


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セルリアンタワー東急ホテルの客室ルームキーは、扉のカードスロットに入れるカード方式なので、センサーにかざす非接触式よりも少し古いタイプでした。



今回の宿泊で予約したデラックスツインルームは、面積44平米の広さと、浴槽から外を眺めることができるビューバスがあるのが特長です。

窓から下を見ると客室の高さが判る



ドアを開けて中に入ったすぐ左側に、広いウオークイン・クローゼットがあったのには吃驚しました。

ベッド突き当たりの壁の向こう側がクローゼット



客室には、幅120センチのベッドが2台、ベッド足元の先には冷蔵庫が収納されたテレビカウンターと37インチのプラズマテレビが置いてあります。



ベッドと窓との間には、一人掛けのソファーとテーブル、さらに大型デスクと椅子が置かれていて、下界を見下ろしながらデスクで事務作業ができるようになっています。



さて、サニタリーゾーンの扉を開けると、左側が、透明ガラススクリーンで区切られたシャワーブースで、これからの暑い季節にはありがたい設備です。



シャワーブースの奥に浴槽が置かれ、その左が広い窓となっていて浴槽に入ったまま東京を眺めることができるビューバスです。



セルリアンタワー東急ホテルのビューバスは、窓の腰が低く、窓も大きいので実に開放感がありました。



渋谷の周辺にはあまり高いビルが無いので、中を覗かれる恐れは少ないのではないかと思いますが、一応ブラインドは装備されていました。



夕方、窓際にビールを置いて入浴しましたが、東京の超高層ビル群を見ながらの入浴は、開放感があって得難い体験でした。



この浴室の正面は、洗面台となっていて、手前には椅子が置かれているので椅子に腰かけて洗面所が使えるようになっていました。



浴槽の反対側はウオッシュレット付きのトイレでしたが、所謂バストイレ仕様ということで扉がありませんので、首を伸ばせば外の景色を見ながら用が足せるようになっていました。



セルリアンタワー東急ホテルに宿泊するなら、少しだけ奮発してビューバスが有るデラックスツインかコーナーツインルームを選択するのが正解ではないでしょうか。



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六本木ヒルズノースタワーの前、六本木通りには、メトロハットという六本木ヒルズの玄関部分があり、地下1階の日比谷線六本木駅から2階の66プラザに直接上がれるエスカレーターがあります。



そこで六本木通りから一旦地下に下り、そこからエスカレーターに乗ることにします。



2階には、屋根付き回廊がショッピングゾーンとなるウエストウオークまで通じているので、濡れずに移動することができます。



六本木ヒルズのウエストウオークは、森タワービルの低層階部分に当たり、2階から6階までの4層が大きな吹き抜け空間となっています。



そのうち2階から4階までの3フロアがショッピング、5階がレストラン、6階は医療、銀行、旅行などの店舗です。



吹き抜けの回廊は、なんばパークスと良く似ていましたが、設計を担当した会社が両方ともジャーディ・パートナーシップという同じ会社だったので、なんとなく納得できました。



回廊の突き当り左側にある扉を外に出ると、正面に槇文彦氏の設計というテレビ朝日のビルが見え、下に降りるエスカレーターがあります。



地下2階のレベル、六本木ヒルズアリーナと呼ばれているこの場所は、イベントなどに使われるようで、テレビ朝日側には大型映像ビジョンが置かれていました。



アリーナの横に売店があったので、コーヒーを買ってアリーナで一旦休憩し、その後でテレビ朝日1階にある一般公開ゾーンに入ってみました。



入口を入ると、右側にテレビ朝日の番組キャラクターを販売するショップがあり、奥には広い吹き抜け空間と、窓際に喫茶コーナーがあります。



ちょうど鳥越俊太郎さんが局の人?と打ち合わせをしていましたが、テレビでしか見たことがない人でも、ここに来れば本物と会うことができるようです。



折角の吹き抜けのロビー空間には、東京タワーの巨大模型と番組宣伝用の派手な幕が垂れ下がり、落ち着かない空間となっていたのが残念でした。


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地下鉄副都心線の明治神宮前駅で下り、地上に出ると若者でごったがえしている表参道と明治通りの交差点です。



表参道は、1920年に明治神宮が創建されたのを機にその正面側の参道として整備された道路なので、苗から11年目の幼樹で植えられたとすれば、ここのケヤキの樹齢はちょうど100年になります。



従って、1937年に植樹された御堂筋のイチョウよりも17年早く植えられていますが、中国広東省広州にはアヘン戦争の直後の1861年に租界となった場所に並木道があり、中には樹齢300年を越えるクスノキの古樹もあります



渋谷駅の東口から延びている明治通り交差点を渡り、緩い上り坂となった表参道を先に進むと、去年来たことがある表参道ヒルズが見えてきます。



明治通り交差点との混雑もすごかったですが、表参道ヒルズの前の歩道もすごい人で、東京のエネルギーを実感できました。



表参道を挟んだ表参道ヒルズの向かいには、ルイビトンのショップ、その隣には厳かなユニオンチャーチが見えています。



表参道の両側には、ブランドショップが軒を並べていて、東京の中でもひと際ファッショナブルなゾーンとして、これほどの人が集まるのでしょう。



さて、表参道を東に進むと青山通りとの交差点で、この地下に地下鉄千代田線、銀座線、半蔵門線合計3つの表参道駅があり、地下鉄を使って東京都内各地からここでショッピングを楽しむ人が続々と地上に出てきていました。

青山通り交差点からの表参道



青山通りとの交差点を右に曲がると渋谷駅ですが、そのまま直進して根津美術館方面に向かうと、そこもブランドショップが軒を並べる「みゆき通り」と呼ばれる一帯です。



みゆき通りの三宅一生のショップの前を先に進むと、特徴のあるプラダ青山ビルが見えてきます。



スイスの建築家ヘルツォークとド・ムーロンが設計したプラダ青山ビルのひし形窓の斜め格子は、単なる飾りではなく、建物を支持する主体構造物です。



このプラダ青山ビルのことは、去年大阪に無いと書きましたが先日、大坂のなんばグランド花月の向かいに規模は小さいですが良く似たデザインのパチンコ店ビルを見つけました。



このビルは、エントランス部分だけが長方形となっていたので、ひし形を徹底したプラダ青山ビルとは少し違いますが、そこから上の外観は非常に良く似ていました。


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渋谷のセルリアンタワー東急ホテルから、地下鉄副都心線の渋谷駅を探し、そこから明治神宮前まで出かけてみました。



地下鉄駅の出口から地上に出ると、表参道と明治通りの交差点の歩道は、人が溢れ大混雑していました。



混雑の原因の一つは、交差点から明治通りを北にすこし寄った場所にスウェーデンのアパレル会社H&Mとアメリカのアパレル会社Forever 21があるからのようです。

明治通り



低価格でファッション性の高い服の販売で世界的に人気を集めるH&Mは、1947年に創立された意外と歴史のある会社です。



最初は婦人服専門でしたが、1968年にストックホルムの狩猟用品店を買収し、H&Mを正式なブランド名としています。



2008年9月に日本1号店が東京銀座に進出、この明治神宮前店が2号店となるようで、大阪には戎橋の北、キリン会館の跡地に新店舗が現在建設中です。



Forever 21は、1984年に韓国系アメリカ人のドン・チャンによってカリフォルニア州ロサンゼルスに設立された比較的新しい会社ですが、既に世界10ヶ国に460店舗を展開しているようです。



その日本1号店は、2009年4月、H&M渋谷店の隣にオープンしてるので、H&Mをライバルとして意識しているようです。



中に入った人の情報では、H&Mよりもさらに低価格で、品質もそれなりですが、新しいファッションを次々と買い換える楽しさを提供することに徹底しているようです。



さて、Forever 21前の混雑をやっと通り抜けたと思ったら、すぐ隣に7月1日にオープンしたタレントの田中義剛氏が経営する花畑牧場のショップがあり、そこも大混雑していました。



行列に並んで買った人から田中義剛氏が自慢する生キャラメルを食べさせて貰いましたが、蜂蜜とバターがうまく調合された、とろけるキャラメルでした。



花畑牧場は、東京だけで5店舗、北海道に11店舗、それ以外にホエー豚亭という豚肉料理店が5店舗もある急成長ぶり、田中義剛氏の手腕恐るべし。


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昨晩は、樹齢300年の小田原城の松が折れるほどの強風が全国に吹き荒れていたようですが、風も納まった本日の通勤散歩は、四つ橋線の「難波駅」からスタートすることにしました。

道頓堀



湊町リバープレイス前から地上に出て、深里橋の手前で右折し、道頓堀通りを御堂筋に向かって歩きました。

道頓堀通



すぐ大黒橋が見えてきますが、この橋の上流側にあった可動堰は、いつのまにやら無くなり、その跡地には普通の橋ができていました。

仮囲いの右側



そのまま道頓堀通りを進むと、アジア、アフリカ、アラブ、ヨーロッパ人の顔をエントランスの柱に使ったユニークな道頓堀ホテルがあります。



道頓堀通りを左に曲がると、御堂筋のオフィス街となりますが、この辺りのオフィスビルの1階には、有名ブランドのショップが入居しています。



心斎橋の大丸前にあるアクタスビルでは、ようやく耐震工事が終わったようで、仮設の囲いが取れていました。



散歩しながら、なにげなくイチョウ並木の株元を見ると、何か緑色をした丸い物体が落ちているではありませんか。



拾って良く見ると、何とギンナンの若い実でした。



どうやら昨晩の強風で吹き飛ばされて落下したようですが、頭の上を良く見ると緑色をしたギンナンが一杯実っていました。



秋に熟して落下するイチョウの実は、7月上旬にこれほどの大きさにまで成長しているようです。



さらに本町に向かって散歩を続けていると、エルメスビルの隣、米国の高級宝飾店「ハリー・ウィンストン」が入居しているビルで作業員が窓掃除をしていました。



屋上からロープ1本でぶら下がっての窓掃除ですが、本人はもちろん、地上の通行人に取っても危険な作業なので、できるだけ安全に進めて欲しいと思います。



それよりも、ビルの窓が安全に清掃作業できるような建物を、設計してもらいたいものですね。


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宿泊した日は、あいにく曇り空で天気は良くなかったのですが、セルリアンタワー東急ホテルの客室から代々木公園越しに新宿の超高層ビルが見えました。



高さ184mのセルリアンタワー東急ホテルの最上階からの眺めは、もっと素晴らしいと思いますが、渋谷周辺には超高層ビルが少ないので、我々の部屋からでも十分な眺望でした。



窓から見える一番左側の超高層ビルは、西新宿にある東京オペラシティビル(高さ234m、54階、延面積31万1千平米、1996年完成)で、新宿新都心の超高層ビルよりも目立っていました。



その右の新宿パークタワービル(高さ235m、52階、延面積26万4千平米、1994年完成)屋上のアンテナは、まるで兜の鍬形のようです。



東京都庁(高さ243m、48階、延面積19万6千平米、1991年完成)は、特長のあるデザインですぐわかりました。



その右に、新宿超高層ビルのさきがけのような新宿住友ビル(高さ210m、52階、延面積17万8千平米、1974年完成)が見えますが、周囲に高いビルが林立してきたので210mもある高さが目立たなくなっています。



その横に、住友ビルよりも13m高い三井ビル(高さ223m、55階、延面積18万平米、1974年完成)があり、三井グループの権威を誇っていました。



特徴のある安田火災ビルの右に、モード学園コクーンタワー(高さ204m、50階、延面積5万1千平米、2008年完成)がその個性を際立たせています。



最も右側、渋谷区千駄ヶ谷には、エンパイアステートビルに似ているNTTドコモ代々木ビル(高さ240m、27階、延面積8万平米、2000年完成)が見えていますが、このビルの高層階は通信アンテナ基地として使われているようです。



さて、今回宿泊した部屋にはもう一箇所の窓があり、そこからはライブドア事件で有名な六本木ヒルズ森タワー(高さ238m、54階、延面積30万平米、2003年完成)を見ることができました。



大阪市内には、たった4つしかない高さ200mを越える超高層ビルが、東京には数多くあることにあらためて驚かされました。



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渋谷にあるセルレアンタワー東急ホテルに宿泊したので、渋谷駅について少し紹介してみたいと思います。

渋谷駅から見たセルレアンタワー東急ホテル



現在、この渋谷を駅名とする駅は、JR東日本、東京急行電鉄(東横線)、相互乗り入れしている東京急行電鉄(田園都市線)と東京地下鉄(半蔵門線)、東京地下鉄(副都心線)、東京地下鉄(銀座線)、京王電鉄の6つです。

セルレアンタワー東急ホテルから見た渋谷駅周辺



この6駅の合計一日乗降者数は、265万人、大阪(梅田、東西梅田を含む)も同じ6駅ですが、1日の合計乗降者数は191万人なので、渋谷の混雑は大阪の1,4倍、さらに同じ6駅が集中する新宿駅263万人をも上回っているのです。

夜景



また、渋谷は、大阪梅田地区よりもかなり狭い面積に駅が集中していることと、歩道の整備が遅れている関係で、駅周辺は人で溢れ返っていました。



このために渋谷駅周辺の鉄道利用者の流れを良くするための再開発が望まれますが、調べてみると東急東横線の渋谷駅は、2012年に東京地下鉄副都心線の駅に移転するそうです。

副都心線チケット売り場



そのために2008年6月に開業したばかりの副都心線渋谷駅には、ホームが既に4つもありますが、現在はまだ2つのホームしか使われていません。



今回、その事実を知らないまま改札から副都心線のホームに降りてみたら、何と地下鉄に4つもホームがあり迷ってしまいました。



この副都心線渋谷駅は、安藤忠雄氏の設計で、地中の宇宙船として駅をデザインしたとかで、プラットホームの内装にステンレス板が多用され、確かに宇宙船の中にいるようでした。



大阪に拠点を置く安藤忠雄氏は、一時東大教授を引き受けていたせいか、この駅や表参道ヒルズの設計など、東京での活躍も凄いですね。

表参道ヒルズ



東急東横線の渋谷駅が地下に移ると、現在地上にあるホームは解体され、その跡地の一部にJR埼京線と湘南新宿ラインのホームが移設されるそうなので、渋谷駅もかなりスッキリしそうです。



幸いセルレアンタワー東急ホテルの建つ場所は、駅から少し離れているので、渋谷駅前のような喧噪はありませんでした。


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5ヶ月ぶりの東京観光の宿泊は、渋谷のセルリアンタワー東急ホテル、英和事典で調べてみると「セルリアン」とは澄んだ空のような青という意味のようです。



あいにく澄んだ空とは程遠い梅雨空でしたが、渋谷駅前の陸橋から見上げると、高さ184m、41階建て、延面積10万6千平米の巨大なビルが聳え立って、超高層ビルの少ない渋谷を睥睨しています。



2001年、東急電鉄本社跡地に完成したセルリアンタワービルは、2004年に東急グループの損失補填のために売却されていますが、東急ホテルズの旗艦ホテルであるセルリアンタワー東急ホテルはそのまま営業を続けているようです。



このビルへは、JR山手線渋谷駅から長い陸橋を渡り、さらに坂道を少し上った場所にあるので、JR渋谷駅からゆっくり歩いて6、7分くらい、雨の日などは傘が必要です。

渋谷駅



ビルの1~3階はホテル共用ゾーン、4~16階が事務所 19~37階がセルリアンタワー東急ホテル客室、38階がセルリアンタワーレジデンスという賃貸住宅、39階がサロン、40階がレストランとバーとなっています。



地下2階には能楽堂があり、日本の伝統芸能を楽しめることから外国人観光客には結構好評らしく、ホテルロビーでは外人をよく見かけました。

渋谷駅陸橋からの入り口



また渋谷ビットバレー近くにあるせいか、事務所階にはGoogleジャパン、マスターカード日本法人などのITや外資系企業が入居しているようです。

ホテル客室からの渋谷駅周辺



ミシェランガイド2009年による東京のホテル格付けでは、上位4位グループ10ホテル(帝国ホテル、ホテル日航、インターコンチネンタル、ヒルトンなど)の中に入っています。

夜景



ということは、最高クラスの7ホテル、2位と3位の5ホテル合計12ホテルよりも格下と評価されているようです。



さて、セルリアンタワー東急ホテルのロビーは、4位グループとはいえ余裕の広さがあり、窓際にあるロビーラウンジも結構混雑していました。



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信長時代の三茶頭(信長を大統領とすれば大統領首席補佐官のような立場か)津田宗及、千利休については先日紹介しましたので、今回は今井宗久です。

今井宗久が修行した南宗寺築地塀とデイゴの花



今井宗久(1520~1593年)は、堺の豪商、武野紹鴎(1502~1555年)の女婿でしたが、信長の台頭を見て古参会合衆(政治指導者)を説得し、堺を織田方に味方させているので、先見の明のあった人物だったようです。

武野紹鴎住居跡



その武野紹鴎の住居跡と伝わる場所が堺の中心にあり、また紹鴎の墓(供養塔)は南宗寺に残されています。

茶釜の形をした供養塔



今井宗久の住居跡も、岳父紹鴎の住居跡に近い場所にありますが。現在は石碑があるだけで当時のものは見当たりません。

今井宗久の住居跡



今井宗久は、実力を見込んだ織田信長に、2歳年下の千利休を紹介、利休はすぐに信長のもとで頭角を現しています。

南宗寺隣の古刹海会寺



本能寺の変の後に秀吉の時代が来ると、三茶頭の中から特に千利休が重用されるようになりますが、結局秀吉によって切腹させられたことは先日紹介した通りです。

南宗寺の甘露門



その頃から今井宗久(1593年没)とその子今井宗薫(1552~1627年)は、徳川家康に接近しはじめ、家康の6男松平忠輝と伊達政宗の長女五郎八姫の婚約成立に尽力しています。

南宗寺築地塀の瓦に何故か葵紋が



今井宗薫は、鉄砲など兵器の商売もしていたようで、1600年の関が原では、当時日本最大の鉄砲生産地であった堺から多量の鉄砲を調達して徳川方に納入しています。

堺鉄砲鍛冶屋敷町跡の石碑



今井宗薫は、1614年大坂冬の陣の直前に一度大坂方に捕えられますが、友人であった織田有楽斉(淀君の叔父)の助言で解放されています。

南宗寺の枯山水庭



開放された宗薫は、徳川方に大坂城内の軍事情報を伝え、さらに大阪城天守に砲弾を撃ち込む大砲を調達したと伝わっていて、この活躍を評価されてか大坂夏の陣の後に、幕府から1300石の旗本に取り立てられています。

参考文献「堺と博多 戦国の豪商」(泉澄一著)


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鬱陶しい梅雨空が続きますが、JR環状線弁天町駅で下り、弁天埠頭から安治川内港まで散歩してきました。



かつては、この弁天埠頭から加藤汽船と関西汽船の客船が発着し、賑わっていたことは、以前のブログに書いたことがあります



その弁天埠頭の汽船乗り場に行ってみると、防潮扉が閉まり、時間が止まったような場所となっていました。





カメラを持ち上げて防潮扉の内側を写してみると、今は運航していない愛媛阪神フェリーの看板が残っています。



船着場の先にある荷役ヤードに向かって歩き、倉庫の間にある防潮扉の外にでると安治川内港の岸壁です。



ここから見える安治川内港は、かつて陸地でしたが、港区の地盤をかさ上げするために掘削されて港となったことは以前のブログで紹介しました。



安治川内港の入り口には、天保山の大観覧車と天保山大橋があり、内港が以外と広いことが良く判ります。



安治川内港が最も奥に入り込んだ場所まで歩き、内港の全体を見ると、ユニバーサルスタジオのホテルが丁度正面に見えていました。



その左側の倉庫前の岸壁には船が着き、荷揚げをしているようです。



岸壁から防潮扉の内側に戻り、ふと振り返ると倉庫の扉が開き、その正面に船の後部が見えていました。



しっかり歩いたので、弁天町駅前の超高層ビルをめざして戻ることにします。



それにしても環状線の駅から歩いて僅か7,8分の距離に本格的な港湾設備があることを知らない大阪市民も多いのではないでしょうか。


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さて、堺きっての豪商だった津田宗及、今井宗久は、本業でも多忙を極めていましたが、中規模の商人だった千宗易(1522~1591年)は、彼らほど家業に力を注ぐ必要がなく、もっぱら茶頭の職に専念できたようです。

堺の南宗寺



主君信長(1534~1582年)よりも一回り年上で、配下の武将たちから仰がれる千宗易は、手紙の中で秀吉(1537~1598年)を呼び捨てにできるほどの地位にあったようです。

南宗寺方丈前の枯山水庭



アメリカの大統領首席補佐官に似た立場だったのかもしれませんが、千宗易がこの地位にいたことが、後に秀吉の逆鱗に触れることになった可能性があります。

南宗寺の茶室のにじり口



1582年、本能寺の変に続く山崎合戦の後、秀吉は津田宗及、今井宗久、千宗易を呼んで茶会を開き、信長後継者としての地位を磐石のものとしています。

利休も使った?手水鉢



秀吉は、主君信長の三茶頭の中で茶道に工夫を凝らし、また15歳も年長で教養のあった千宗易を次第に重用しはじめるようになります。

南宗寺の井戸



秀吉大統領が政権を確立してゆく過程で、石田三成など若い官僚と百戦錬磨の武将との間の摩擦を調整する存在として、大統領首席補佐官千利休の教養と経験は重宝されたのでしょう。

南宗寺の回廊



1585年に秀吉は、千宗易を同行させて宮中で茶会を開いていますが、その際に千宗易は、天皇から「利休」の号を賜り、茶頭としての地位を一段高めています。

枯山水の庭にあるキリシタン燈篭



号の由来は「名利、既に休す」とか「利心、休せよ」という意味で、名誉欲や金銭欲を休めて、茶道の「わびの世界」に徹しなさいということでしょう。

南宗寺の回廊



しかし利休と名乗りはじめて6年後の1591年、小田原攻めの後に秀吉は利休に切腹を命じています。

南宗寺の千家一門の墓



表向きは、大徳寺の山門の上に自分の木像を置いたこと、自らの権威を利用して茶道具を売り、不正な利益を得たことが秀吉の逆鱗に触れたとされています。

中央が利休の墓石



実は、豊臣政権の官僚制度か確立し、首席補佐官としての役割が終わったことに気がつかず、「利休」という名前通りの行動が取れなかったことが秀吉の怒りの真相という説があります。

焼失した建物の瓦が塀に再利用されている



秀吉が亡くなる5年前、1593年には、三茶頭(大統領首席補佐官)の生き残りだった今井宗久も亡くなり、その頃から子の今井宗薫(1552~1627年)は、急速に徳川家に接近をはじめていますので、秀吉を見限った父親の遺言だったのかも知れません。


参考文献「堺と博多 戦国の豪商」(泉澄一著)

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うっとうしい梅雨空が続きますが、健康のためにJR環状線弁天町駅から大阪市港区と此花区を結ぶ安治川大橋まで散歩してきました。

弁天町駅前



ありがたいことに、国道43号線が通る安治川大橋の両側には歩道があるので、歩いて橋を渡ることができます。



この橋は、下を船が通行できるよう、かなりの高さがあるために、歩道からの景観もなかなかのものでした。

安治川大橋から見た天保山大橋



まず、橋の西側を歩いてみると、万一の高潮や津波に備えたアーチ状の安治川水門があります。



かつて、大型台風が襲来した際に、安治川上流の中之島地区が高潮に襲われたことを教訓にここに設置され、万一の際にはアーチが回転して高潮を防ぐ機構となっているようです。



安治川水門のアーチの先にはユニバーサルシティのビル群が見えていますが、以前に比べるとかなりマンションが増えているようです。



さて、橋を先に進むと住友大阪セメントの工場があり、その北側にある六軒家川には水門がありません。



その謎は、安治川大橋の東歩道を歩くとすぐ判るのですが、六軒家川の水門は、安治川大橋の上流側にあるのです。



安治川大橋の東歩道からは、江戸時代に河村瑞賢によって開削された安治川が、不自然な直線状となっているのが良く判ります。



また、橋の高さが高いので、ここから北東方向にある梅田のビル群が見えますが、梅雨空だったのでクリアーな画像にはなりませんでした。



さて、安治川大橋の東歩道を弁天町に向かって歩くと、目の前に3棟の超高層ビルが見えてきます。



安治川大橋を車で渡るとあっという間に通り過ぎるこの景観も、徒歩で渡ればじっくりと楽しむことができるのです。


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昨日の記事からの続きですが、織田信長(1534~1582年)が台頭する前、三好長慶(1522~1564年)が隆盛を誇っていたころ、絶頂期を迎えた堺に貿易商天王寺屋(津田)宗達(1504~1566年)が出ています。

三好氏の菩提寺南宗寺惣門



津田宗達は、三好衆、松永久秀(1510~1577年)、京都の公卿衆(前関白、前大納言)などと、何度も茶会を開いているので、当時の権力者と互角に付き合いができたようです。

南宗寺にある三好一族の墓



父親の津田宗達のあとを継いだ津田宗及(不詳~1591年)の生年は、不詳とされていますが、父親の年齢から想像すると織田信長の年と近かったのではないでしょうか。

南宗寺にある天王寺屋(津田家)一門の墓



1568年、新興勢力の織田信長は、堺に対して二万貫の軍資金を命じていますが、信長に敵対する三好方の根拠地であった堺は、津田宗及らの意見で一旦その要求を拒否しています。

南宗寺仏殿(1652年建立の重文)



しかし翌年、三好勢が信長に敗れたことで、堺はあっさりと信長の軍門に下り、堺を代表する大商人津田宗及は、信長から何度も茶会に招かれるようになっています。

禅堂横の門



信長の時代の三茶頭は、津田宗及(不詳~1591年)、今井宗久(1520~1593年)、千利休(1522~1591年)でしたが、堺における商業上の地位と同じように、当初は信長の信頼度もこの順序だったようです。

禅堂



正倉院の香木「蘭奢待」は、1574年に信長によって一部切り取られたことで有名ですが、その一包みは津田宗及と千利休にだけ分け与えられているので、信長は年齢の近い宗及と学識豊かな千利休を頼りにしていたようです。

方丈の縁側



津田宗及は、信長配下の秀吉、明智光秀とも何度も茶会を開き、昵懇の関係にありましたが、1582年「本能寺の変」の後、堺の豪商をまとめて秀吉側につき、秀吉の「中国大返し」の際の物資輸送で貢献したようです。

回廊



信長を継いだ秀吉によって千利休は1591年に切腹させられますが、津田宗及もほどなく亡くなり、その跡を継いだ子の津田宗凡は、年齢が近かった石田三成(1560~1600年)と特に親しくしていたようです。

津田宗達の没年より古い天文9年(1540年)津田家と記してある墓石



そのため、宗凡の天王寺屋(津田家)一門は、関が原の合戦で石田三成の西軍につき、戦後豪商の地位からの没落を余儀なくされたようです。

参考文献「堺と博多 戦国の豪商」(泉澄一著)


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