信長時代の三茶頭(信長を大統領とすれば大統領首席補佐官のような立場か)津田宗及、千利休については先日紹介しましたので、今回は今井宗久です。
今井宗久が修行した南宗寺築地塀とデイゴの花
今井宗久(1520~1593年)は、堺の豪商、武野紹鴎(1502~1555年)の女婿でしたが、信長の台頭を見て古参会合衆(政治指導者)を説得し、堺を織田方に味方させているので、先見の明のあった人物だったようです。
武野紹鴎住居跡
その武野紹鴎の住居跡と伝わる場所が堺の中心にあり、また紹鴎の墓(供養塔)は南宗寺に残されています。
茶釜の形をした供養塔
今井宗久の住居跡も、岳父紹鴎の住居跡に近い場所にありますが。現在は石碑があるだけで当時のものは見当たりません。
今井宗久の住居跡
今井宗久は、実力を見込んだ織田信長に、2歳年下の千利休を紹介、利休はすぐに信長のもとで頭角を現しています。
南宗寺隣の古刹海会寺
本能寺の変の後に秀吉の時代が来ると、三茶頭の中から特に千利休が重用されるようになりますが、結局秀吉によって切腹させられたことは先日紹介した通りです。
南宗寺の甘露門
その頃から今井宗久(1593年没)とその子今井宗薫(1552~1627年)は、徳川家康に接近しはじめ、家康の6男松平忠輝と伊達政宗の長女五郎八姫の婚約成立に尽力しています。
南宗寺築地塀の瓦に何故か葵紋が
今井宗薫は、鉄砲など兵器の商売もしていたようで、1600年の関が原では、当時日本最大の鉄砲生産地であった堺から多量の鉄砲を調達して徳川方に納入しています。
堺鉄砲鍛冶屋敷町跡の石碑
今井宗薫は、1614年大坂冬の陣の直前に一度大坂方に捕えられますが、友人であった織田有楽斉(淀君の叔父)の助言で解放されています。
南宗寺の枯山水庭
開放された宗薫は、徳川方に大坂城内の軍事情報を伝え、さらに大阪城天守に砲弾を撃ち込む大砲を調達したと伝わっていて、この活躍を評価されてか大坂夏の陣の後に、幕府から1300石の旗本に取り立てられています。
参考文献「堺と博多 戦国の豪商」(泉澄一著)
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