西郷隆盛(1864〜1877年)は薩摩藩の下級武士(家督相続時に禄高41石)でしたが、名君島津斉彬の目にとまって抜擢されたことは有名です。中之島公園のバラの写真と一緒に西郷隆盛を紹介しましょう。
西郷は、藩主斉彬の急死で失脚、3年間も奄美大島に流され、復帰後すぐにまた2年間の流罪となり、1864年にやっと赦免され、京都に派遣されています。
二度も島流しにあった西郷隆盛が薩摩藩のカリスマ的な存在となるのは名君島津斉彬に寵愛されたことの外に、1864年(西郷37歳)の蛤御門の変で長州軍と命懸けで戦ったことがきっかけとなったのではないでしょうか。
この禁門の変以降、西郷は急速に存在感を高め、薩長同盟を成立させ、王政復古、戊辰戦争を主導、さらに勝海舟との降伏交渉による江戸城総攻撃中止も有名です。
西郷隆盛が禁門の変のときにどう活躍したかについて、林房雄の小説から紹介しましょう。<・・・>がその引用
<薩摩屋敷には1200の精兵が結集していた。大部隊である。屋敷の庭には入りきれぬのでとなりの相国寺の境内にまであふれ出て、さかんな篝火を焚いて気勢をあげていた>幕府側の総兵力は3200人だったので38%が薩摩部隊でした。
<(薩摩軍奉行の)伊地知正治(当時37歳)の軍略によれば、この軍勢を二手に分け、第一隊の主将は島津図書(24歳・久光の第二子)。大目付町田民部(27歳)と軍役奉行伊地知正治がこれを補佐し、鹿児島城下隊の他に隈の城、水引、蒲生の外城隊を率いて「乾御門」をかためる(積極的に戦闘をしない守備隊)>
<第二隊の主将は島津備後(22歳?・久光の第三子)。家老小松帯刀(30歳)と軍賦役西郷吉之助(37歳)がこれを補佐>(経験と年齢からみて実質的な指揮官は西郷隆盛でしょう)
<城下隊の他に出水、高岡、阿久根の外城隊を率い、これに大砲隊長中原猶介(33歳)の指揮する兵庫海軍修業所の生徒達が新式の葡萄弾砲(榴散弾砲)四門を持って加わり、天龍寺方面の敵の本陣を突くことになっていた(積極的な攻撃部隊)>
つづく