野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事からの続きです。・・・西郷がその名前を高め、維新の元勲となるきっかけをつかんだのが禁門の変でした。その際の西郷を紹介しましょう。

西郷の薩摩第二隊(600名)には、大砲隊長中原猶介(33歳)の指揮する新式の葡萄弾砲(榴散弾砲)四門がありました。それを長州軍に向けて一斉射撃したため、攻勢だった長州軍は動揺。

<長州軍を率いる来島又兵衛(48歳・長州の猛将)は、満面に朱をそそぎ馬首を返して烏丸通りに飛び出してゆき、薩摩軍の正面に突きこんだ。鬼来島の名にそむかぬ武者ぶりであった(中略)>

<(西郷側近の)村田新八(29歳)と税所篤(38歳)は、(巨体の)総大将の西郷吉之助が第一線に飛びだしてゆこうとするのを引き留めるのに苦労していた(中略)>

馬上の西郷は、長州側からも良く見え、集中射撃を受けましたが、勇敢にも第一線に飛びだしたのでした。

<西郷は銃弾の乱れ飛ぶ街路の真ん中に馬を止め、味方の兵士たちに向かって「退くな、一歩も退くな」と怒鳴っていた>

西郷は、長州軍の銃弾で足を負傷(側近の税所篤も3発の銃弾で重傷)、西郷の指揮で奮い立った薩摩兵は長州軍を圧倒、来島又兵衛が戦死したことで長州軍は撤退し蛤御門は守られたのです。

蛤御門を守備していた幕府軍(会津・一橋連合軍)は壊滅寸前の状態にあり、西郷の援軍がなければ、長州軍が京都御所になだれ込み、天皇を奪うクーデターが成功した可能性がありました。

それを防いだのは、西郷と彼が指揮する薩摩軍だったのです。この戦闘以降、西郷は幕末におけるカリスマ的な存在となったのでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )