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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1941年(昭和16年)には丸紅商店、伊藤忠商事などの業績が回復するにつれて伊藤家の事業を統一しようとする動きが強まり、伊藤忠兵衛が役員をしていた鉄鋼専門商社の岸本商店と丸紅商店、伊藤忠商事の3社が合併して三興株式会社となっている。

伊藤忠大阪本店



三興会長には伊藤忠兵衛、社長には初代伊藤忠兵衛の長女の娘婿であった伊藤竹之助(当時伊藤忠商事社長)が就任したが、すぐに太平洋戦争が勃発して経済統制が強化され、貿易活動は困難となっている。

豊郷本宅の説明看板



1944年(昭和19年)三興と大同貿易、呉羽紡績の3社が合併して大建産業が設立され、17歳で丁稚からスタートした2代目伊藤忠兵衛は、58歳で国内外に関係会社103社を抱える伊藤忠財閥ともいえる大建産業のトップにまで上り詰めている。

豊郷本宅の裏庭



大建産業は国内外に関係会社103社、生産部門だけでも16業種に及ぶ大企業集団で、商事部門は繊維品や重化学品、穀物、肥料などの集荷と配給、軍納物資の取扱をしていたが終戦となり、海外の資産をすべて喪失している。

豊郷本宅の2代目伊藤忠兵衛の説明



1948年(昭和23年)大建産業は財閥解体の指定を受けて丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割され、伊藤忠と丸紅は再び別会社となっている。

この時から伊藤忠は、○の中に紅の印を使うのを止め、ひし形の中にCIの文字を入れたマークを採用、丸紅が伝統ある紅忠(伊藤本店)のマークを受け継ぐのである。

豊郷本宅にある丸紅の印が入った行李



1955年、丸紅は高島屋百貨店の商社部門であった高島屋飯田と合併して丸紅飯田と社名変更したが、1972年になって伝統ある丸紅の社名に戻している。

本町の丸紅大阪本店



2代目伊藤忠兵衛は1953年、国策会社の東洋パルプ会長に就任し1960年には晴れて伊藤忠商事相談役に就任しているが、1973年に胃がんで死去している。

カナモジ運動の草分け2代目伊藤忠兵衛



今年3月期の決算によれば伊藤忠の売上総利益、経常利益は9087億円、1771億円、丸紅は5312億円、1193億円と両社とも好調なようである。


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