黒田武士と虎退治

2007-01-31 12:19:25 | Weblog
文禄の役(1592年~)で黒田軍は豊前中津から出兵し朝鮮で大活躍しました。その時勇猛な黒田軍の中に虎退治をした勇士がいます。黒田長政は愛用の銃で、菅六之助は愛用の備前吉次の刀で、林掃部は愛用の京信国の槍で大虎を仕留めました。世に加藤清正の虎退治は有名ですがそれは後世の講談のフイクションで清正自身は虎退治をしていません。黒田の仕留めた3匹の虎の骨は江戸時代まで福岡城本丸の武具櫓に保管されていたが戦災で消失した。黒田の24騎と称される武将達は兎に角その名を残すほどみな勇猛であったのです.関が原でも大活躍しましたが、如水には智勇に優れたすごい侍大将達がその傘下にたくさん集まっていました。これは偏に如水の人徳によるものと思われます。我社にも黒田24騎のようなすごい部下が欲し~い!なんぞと無理勝手なことをを言うのではありません。自ら育てるのですぞ!!


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黒田如水の石垣

2007-01-30 11:30:15 | Weblog
中津城に黒田の石垣があります。近江に穴太(あのう)衆という石垣造りを専門にするすごい集団がありました。その築垣方法がこの中津城に施されています。当時、門外不出の技で何故中津城の石垣にその方法が使われたのか想像するに面白いことではないでしょうか?如水が近江や各地を戦で駆け巡っていたときに素晴らしい石垣を見る機会がありひそかに研究していたとか、穴太衆に知り合いがあって頼み込んだとか、、、、。どなたかご存知の方があったらお教えください。穴太積の石垣は一つ一つの石が奥深くまで埋め込まれ、とても強固に積まれている石垣です。九州最古の石垣と先日の発掘調査で判明しました。この写真の右奥がその石垣で看板と説明板があります。傍を流れる山国川の上流から運んできたものもあったようです。当時、黒田如水は当代一の築城名人とよばれ各地の縄張り(設計)に名を残しています。中津城をここ丸山の地に選んだのも如水の時代を見据えた判断でした。
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黒田武士と合元寺

2007-01-29 12:54:32 | Weblog
中津市寺町に赤壁寺と呼ばれる合元(ごうがん)寺があります。戦国時代、島津に耳川の戦いで大敗した大友宗麟は秀吉に助けを請うた。四国・中国を平定した秀吉は島津を討つべく黒田官兵衛を軍監として大軍を差し向けた。秀吉軍の力を甘く見た地方の豪族は非協力的で中でも鎌倉時代以来400年間豊前国を支配していた宇都宮氏の棟梁鎮房は病気を装い少数の兵力を派遣したのみで、日和見の態であった。関門海峡を渡った秀吉軍は官兵衛の働きで次々に親島津の豪族を攻略していき序々に島津もその勢いに押され後退しつづけとうとう降伏した。その軍功により官兵衛は豊前12万3千石の大名となった。しかし、秀吉の怒りをかった宇都宮鎮房は今治転封を言い渡されたが一族として400年間その地を治め愛着のある豊前の地は離れ難くその命令を変更されんことを願い出た。秀吉は今治転封の朱印状を返納した宇都宮鎮房を許さず(旧国、駿府から江戸へ転封させられた家康でさえ有無を言わず従ったほどの朱印状を宇都宮氏は拒否したのだ。世間知らずでもあった。)討伐せよと官兵衛に命じた。秀吉の命令は誰も従わざるを得ないほど絶対的であった。或る日、熊本の佐々氏を救援すべく(佐々氏は黒田と同じく九州平定の論功行賞で越中、新川郡10万石から肥後12郡52万石の大名となり赴任したが地元の豪族の反乱を治めきらず秀吉に切腹させられた。国をもらうとはその地を有無を言わさず治めねばならず生死を賭けた仕事でした。山内一豊も土佐24万石をもらって赴任したが長曾我部の残党の始末に苦労した)出陣した官兵衛の不在の間、宇都宮鎮房は200人の家来を連れて中津城に挨拶に来た。城に残っていた長政等は鎮房の傲慢な態度をみて討つことにした。酒宴の最中突然切りかかって鎮房を討ち取ったが、供の者達は逃げ、合元寺に立て籠もった。長政の兵は合元寺に攻め入り全員を討ち倒した。その時斬り合いの返り血が寺の白壁に飛び散り壁は真っ赤になったという。その後、幾度も壁を塗り替えても中から血が滲んできてとうとう寺は壁を赤壁にしてしまった。合元寺には当時の刀傷が柱に残っていて、壁は今でも赤く当時の様子を伝えています。中津においでになったら戦国時代の武将の栄枯盛衰に思いを馳せ、合元寺を訪ねて見ては如何でしょうか。住職の村上鉄瑞氏は私の友人ですが、中々の才人です。刀傷は玄関を入ったら正面に見ることが出来ます。ただし許可を得てお入りください。中津の人は皆優しく特に旅人には親切ですよ。
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後藤又兵衛屋敷跡

2007-01-28 11:00:36 | Weblog
中津市片端町に義氏通りと呼ばれる小道があります。地元の古老の話ではその一帯は後藤又兵衛の屋敷跡と言い伝えがあるようです。中津城の直ぐそば、当時は上級武士の屋敷はこのあたりにずらり並んでいたと思われます。我らが母里太兵衛の屋敷も近くにあったのではないかと。どなたか名槍日本号が置かれていた母里太兵衛屋敷跡をご存じの方はいないでしょうか?よく選ばれた土地には霊気があるといわれます。例えば霊峰富士山とか呼ばれますが近くでは高塚地蔵尊や国東半島の富貴寺、熊野磨涯佛、英彦山修験場、宇佐神宮、薦神社といった有名な神社仏閣には必ず素晴らしい霊気が宿っています。ここ後藤又兵衛の屋敷跡にも霊気を感じる方がいらっしゃることでしょう。中津城に来られたらこのあたりを散策され後藤又兵衛のパワーを戴いて帰られることをお勧めします。

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中津市寺町 西蓮寺

2007-01-27 12:33:29 | Weblog

由緒あるお寺というのは風格があります。黒田如水は筑前52万石に移封したとき縁りの人々(商人、職人、お寺等)もほとんど福岡へ移っていきましたがここ西蓮寺は残りました。何か事情があったのではないかと思われます。住職にお尋ねになってみてください。
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黒田武士と西蓮寺

2007-01-27 12:28:27 | Weblog
中津市寺町に西蓮寺さんがあります。開基は天正16年(1588年)黒田如水の弟で光心教師(俗名黒田市右衛門)です。黒田官兵衛が播磨の国から当地豊前中津に入封の時随行して来ました。以来400年以上の長きにわたり中津の変転を見続けてきたことになります。若住職は義照さんといって勿論黒田姓です。地元では有名な音楽家で校歌を作曲されたりして活躍してます。黒田武士に縁りの方やファンの方は是非一度足を運ばねばならないところです。

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黒田藩筆頭家老栗山利安と栗山堂

2007-01-26 12:06:44 | Weblog
中津市京町に外郎(ういろう)の美味しい栗山堂があります。黒田藩筆頭家老の栗山備後守利安を子孫とする由緒あるお菓子店です。栗山利安は母里太兵衛が生涯兄として慕った素晴らしい武将です。中津に来られたら是非栗山堂のういろうをお土産にお求めください。如水や太兵衛、利安、黒田の二十四騎はじめ黒田武士縁りの方々も泉下で喜ばれることでしょう。

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黒田藩筆頭家老栗山利安

2007-01-26 11:45:47 | Weblog
中津市京町に栗山堂という「ういろう」の美味しい店があります。黒田藩筆頭家老栗山利安を子孫とする由緒あるお菓子店です。栗山利安は黒田如水が最も信頼した家来で如水が伊丹の有岡城に幽閉されたのを母里太兵衛と共に助け出したり、関が原の前、石田三成が人質要請した大阪黒田屋敷の如水と長政の奥方を無事助け出して中津までお送りした。その後如水の九州征伐では豊臣方についた大友義統(よしむねー宗麟の息子)を別府の石垣原の合戦で破り如水の片腕として沈着冷静な人柄は、暴れん坊でやんちゃな太兵衛も幼時から慕っていたほどです。

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黒田武士と国家の品格

2007-01-25 17:31:08 | Weblog
ベストセラー「国家の品格」の著者藤原正彦氏のご講演を聴く機会がありました。ツーショツトもお気軽に撮って頂き幸せなひと時でした。今、先生はほとんどの講演依頼を断っているとの事(今回は本当にラッキーでした)。ご講演の内容は日本人はまず読み書き算盤だ。英語で話せるのが国際人ではなくまず人間として内面を磨くこと人格を高めることである。それを怠れば諸外国でいかに流暢に英語を話そうとも外国の人にはその人はただの英語のしゃべれる程度のー中身の薄っぺらなー人だと軽んじられる。そのためには小さいときから漢字を教え本を読ませ、算数を徹底的に教えることだ。(英語を習うよりもっと大事なことは幼時から算数の計算、国語による人格形成を高めるための学び、つまり人としてして良いこと悪いこと、物事の善悪の判断が出来、その区別を身をもってわかるようになることを徹底的に教えることだ)鎌倉以来受け継がれてきた武士道の精神を復活させ日本人の道徳の中核となさねばならない。武士道とは慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠、名誉、恥など。弱いものをいたわれ、卑怯なことをするな、家族愛、郷土愛、祖国愛、そして人類愛を持つ人になれ。江戸時代の日本の識字率は50%以上そのころ一番優れていたイギリスでも20%。いかに日本人の優秀さが突出していたか。文学作品でも世界中で日本文学に比肩する作品は当時の世界中を探してもどこにもない。数学においてもそうである。元禄時代の少し前鎖国の中、関孝和は行列式を世界で初めて発見した。日本は世界並みではいけない、突出した異常に文化の発達した国でなければらない。そのために国家には品格が無ければならない、、、。あと詳しくは著書をお読みください。きっと心を揺すぶられることでしょう。名誉を重んじ、惻隠の情豊かな黒田武士が輝いて見えます。

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中津市新年賀詞交歓会

2007-01-25 11:34:36 | Weblog
先日中津市の賀詞交歓会がホテルで行われました。黒田武士の舞を披露し黒田武士が中津と縁のあることを大いにピーアールすることができました。少しずつ豊前中津の黒田武士のことが身近に感じていただければ嬉しい限りです。昨日まで東京出張でした。今回すごいことに大ベストセラー『国家の品格』の著者藤原正彦先生の講演を聴くことが出来ました。ツーショットを撮らせていただきましたので後日ご紹介します。「黒田武士」と「国家の品格」は武士道でつながりのあることが分りました。「国家の品格」はもちろん新渡戸稲造の「武士道」そして藤原正彦先生のお母上藤原ていさんの書かれた「流れる星は生きている」ー幼年時代の藤原正彦先生がお母上やご兄弟と共に終戦後満州から引き上げてこられた時の壮絶な物語です。読みつつ涙溢れました-をお読みになることをお勧めします。
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