豊前の国を統治していた宇都宮家は鎌倉幕府の平家追討の命を受け、関東より地頭として派遣された名門でした。
爾来、四百年に亘り豊前の国の各地に一族を配置させて治めて来ました。
秀吉の九州島津征伐の勲功で豊前国六郡を拝領した黒田官兵衛が新領主として入封し、当主宇都宮鎮房は秀吉の命で伊予へ転封命令が発せられるも、郷土への愛着のあまりその命を拒否した。
秀吉は命に従わなかった鎮房を許さず官兵衛に殺害を命じた。
戦国時代の大きなうねりの波に翻弄された宇都宮一族は滅んだ。
豊前の国を統治していた宇都宮家は鎌倉幕府の平家追討の命を受け、関東より地頭として派遣された名門でした。
爾来、四百年に亘り豊前の国の各地に一族を配置させて治めて来ました。
秀吉の九州島津征伐の勲功で豊前国六郡を拝領した黒田官兵衛が新領主として入封し、当主宇都宮鎮房は秀吉の命で伊予へ転封命令が発せられるも、郷土への愛着のあまりその命を拒否した。
秀吉は命に従わなかった鎮房を許さず官兵衛に殺害を命じた。
戦国時代の大きなうねりの波に翻弄された宇都宮一族は滅んだ。
官兵衛の洗礼名が「ドン・シメオン」となっている解説書や歴史書がありますが、ドン/Donはスペイン語、Domはポルトガル語、貴人や高位聖職者を敬う言葉であり、英語で言うMrの意味で敬称を表します。
正確にいうと洗礼名は「シメオン」となります。
黒田官兵衛がクリスチャンであったことは、これまでほとんど知られてなく、大河ドラマを機に少しずつ知られるようになりました。
官兵衛が京都の黒田藩屋敷で逝去し、福岡での葬儀は仏式、キリスト教式、神式で執り行われということです。
後年、黒田家では徳川幕府を刺激しないように官兵衛がクリスチャンであったことはすべて削除されましたが、官兵衛の遺言で教会に多額の寄付をしキリスト教式で葬儀されたことは記録には残されてなく、当時の宣教師の日記や報告書に残されているのみです。
官兵衛は福岡城が出来上がるのを待ち、太宰府天満宮内の草庵に二年ほど滞在していた時、茶会や連歌会などを催し戦禍で焼け落ちていた本殿などを再興したので、太宰府天満宮にとっては大恩ある藩祖ゆえに神式で厳かに葬儀をあげ、その恩に報いたということです。
仏式、キリスト教式、神式と三つの式典による葬儀をあげられたのは官兵衛公の偉業は勿論のこと、お人柄をも髣髴させます。
戦国時代に活躍した豪傑後藤又兵衛は最も有名で愛すべき武将の一人です。
幼時より官兵衛に仕え、年下の嫡子長政と兄弟のように育てられ、一説では長政よりも可愛がられたという伝説も残っているくらいですが、そのために官兵衛亡き後、藩主となった長政と軋轢が起こり、真っ直ぐな性格の又兵衛とは相容れなかったようです。
自分の家臣や一族を路頭に迷わすほどの軋轢が長政とにあった故の黒田家からの出奔でした。
その行いには多くの謎があります。
大坂夏の陣で敵方の徳川家康から「高禄で召抱えるから寝返って徳川に付くべし」と誘われたが、「万一徳川軍の戦況悪ければお味方しましょう」~(万に一つもその可能性は無いのは誰の目にも明らかであった)~と返答し、死に場所を此処と定めたその義を通した潔さに民衆は痺れたのです。
放浪の身であった又兵衛を大坂城に招いてくれた豊臣家に殉じたゆえに、後世までその名が語り継がれたのです。
後年、黒田家では二十四人の勇猛果敢な武将を『黒田二十四騎』として称えようとして選んだが、その中の一人に藩主に逆らい黒田家を飛び出したにも拘らず、この後藤又兵衛を選んでいます。
黒田家も懐が広いが、又兵衛が大物過ぎたので選ばざるを得なかったともいえる。
黒田官兵衛を語るときに欠かせないものの一つに、幼少の砌、母より薫陶を受けた和歌があります。
官兵衛が豊前国六郡12万3千石を拝領し、中津の町創りをしたとき、求菩提山を訪ね修険道場で修業している山伏たちに協力を頼んだ。
ある時、求菩提山を訪ねた官兵衛は、戦に明け暮れた身にもあはれを感じたのか、移ろう季節に寂情感をおぼえた官兵衛は風雅の趣にふと心を揺さぶられ、桜狩りの和歌を詠んだ。
山深く分入(わけいる)花のかつ散りて春の名残もけふのゆふ暮 円清
求菩提資料館(福岡県豊前市)から城井の上城へ向かう道から少し入った芭蕉塚あたりに桜の古木があり、そこで官兵衛が桜狩りをしたのではないかとと伝えられている。
この春には官兵衛公を偲んで、芭蕉塚に桜狩りに行こうと思っています。
黒田官兵衛(如水)の生涯を描いた「軍師の門」や大河ドラマ「天地人」の原作者火坂雅志さんがご逝去されました。
突然のご逝去の報にとても驚きました。
火坂さんとは大河ドラマ軍師官兵衛が決まる以前、中津で豊前国中津黒田武士顕彰会主催の講演会で、「黒田官兵衛の魅力」の演題でご講演をしていただき、我々も前座で黒田二十四騎の甲冑姿で舞をご披露し、中津市民の皆さんに官兵衛の素晴らしさを伝えて戴いたのです。
当日は一泊して戴き、中津黒田武士顕彰会の皆さんと楽しく杯を酌み交わし、中津名物のフグや鱧を堪能していただくなかに、大河ドラマになるには地元として如何に動けばよいかなど、教えて戴いたものです。
ご冥福をお祈りいたします。
黒田官兵衛(如水)像は2013年12月、豊前国中津黒田武士顕彰会の浄財により建立されました。
日本各地にはそれぞれの地の偉人・賢人そして武将などの銅像が誇らしげに建っています。
しかし、戦国時代稀代の軍師と謳われた黒田官兵衛(如水)公の像は未だに無かったのです。
これは由々しき問題であり、大河ドラマ軍師官兵衛の放映があったことから、これからゆかりの地では、全国区の知名度になった官兵衛(如水)公の銅像建立の流れは興って来るものと期待しています。
各地のゆかりの地の自治体、民間の有志の皆さん宜しくお願いいたします。
PS:当ブログがこの程、閲覧180万PV,訪問者42万IPを越えました。軍師官兵衛の放送が終わりましたが、まだ官兵衛(如水)公について知りたい、大好きだという方が沢山いらっしゃることに感謝です。