大河ドラマ軍師官兵衛が終盤に入って来ましたね。
戦のない世の中を目指して、信長、秀吉と己の生涯を賭けた官兵衛でしたが、その夢も秀吉の明の国王になるとの朝鮮出兵などにより天下人の傲慢さに世の中の状況はさまざまに変わって行きました。
秀吉の薨去後、官兵衛は己自身の知力で戦国時代の荒波の中に身を委ねつつ、前田利家、徳川家康と対峙し、あくまでも戦乱のない世の中を目指したのです。
このほど、我々豊前国中津黒田武士顕彰会の活動をさらりと大分合同新聞の読者の声に載せていただきました。
よく10年もの間、活動が続いたものだと会員の熱意と根性に感謝することしきりです。
戦国時代稀代の名軍師初代中津城主黒田官兵衛を全国の皆様に知って戴いたことに顕彰会としても嬉しく存じます。
大河ドラマ軍師官兵衛も佳境に入り、いよいよ目が離せなくなってきました。
全国の軍師黒田官兵衛フアンの皆様におかれましては、最後まで楽しんでいただければ幸甚に存じます。
黒田官兵衛連載24は官兵衛と太宰府天満宮です。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の武功により黒田家は中津から福岡52万石へと転封しましたが、官兵衛は福岡城の築城中2年間ほど太宰府天満宮本殿のそばに草庵を結び最愛の妻光姫と暮らしました。
当時、戦禍にあい社殿は見る影も無かった天満宮を官兵衛は再建しました。
菅原道真を祀る太宰府天満宮は勉学だけでなく和歌や茶道の神様でもあり、日々連歌会や茶会を催し平和な日々を楽しんだのです。
菅原道真は百発百中の弓の名手、遣唐使を廃止したり、国風文化の開化を推進したりと文武両道の素晴らしい施政者でしたが讒言により太宰府へと左遷されました。
その時詠める歌
東風吹けば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
菅原道真公は海路太宰府へ向かう途中、嵐で中津市中尾の浜に漂着し数か月滞在したのでその地に「菅公御着船旧蹟碑」が建てられています。
中津と官兵衛と菅原道真公は強い縁で結ばれているのです。
*写真は太宰府天満宮の如水井戸と中津市犬丸中尾の浜に建つ菅公御着船旧蹟碑