文禄慶長役時代の肥前名護屋城の鳥観図です。
日本の城郭の中で大坂城に次いで二番目に広大な城郭でした。
黒田官兵衛が渾身の縄張りです。
文禄慶長役時代の肥前名護屋城の鳥観図です。
日本の城郭の中で大坂城に次いで二番目に広大な城郭でした。
黒田官兵衛が渾身の縄張りです。
肥前名護屋城の立体図です。
壮大な城跡は黒田官兵衛渾身の縄張りでした。
黒田軍をはじめ日本軍はこの地から遥々、朝鮮の国へと海を渡って行きました。
文禄慶長役の肥前名護屋城には、
秀吉の栄華を物語る金蘭豪華な
「黄金の茶室」が京から移設され、
外交上や有力大名との接待の場
として使われていました。
秀吉の威光を誇示せんとした
心理的な威圧もあったと思われます。
それにしても、この茶室で飲む
お茶の味は美味かったか、否か?
秀吉を面前にして、各武将たちは
お茶を味わうどころでは
なかったのではないでしょうか。
肥前名護屋城は日本で二番目の大きな城郭でした。
黒田官兵衛が秀吉の命により縄張りをしました。
今は石垣のみが往時を偲ばせるばかりですが、
ここから徒歩で本丸跡迄ゆっくり歩いて行くと
彼方此方に兵どもの夢の跡が眼前に
鬼気迫るごとく現れて来ます。
この城から秀吉の一声により、
全国の大名たちが恭順し、
黒田藩はじめ有力大名は朝鮮へと
渡って行ったのです。
明けましておめでとうございます。
旧年中は当ブログをご覧頂き
ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
また、皆様にとって生涯で一番
幸せな年となりますように
祈念申し上げます。
肥前名護屋城は太閤秀吉が最も
栄華を誇った時代の遺構です。
太閤が遥か海彼の果てを望んだ跡に
建つ天主臺址の石碑に太閤の夢が
偲ばれます。
今年こそ大きな夢に挑戦して
みましょう。
名護屋城の俯瞰図です。
黒田官兵衛(如水)は秀吉の命で
名護屋城の縄張りをし、6か月と
言う工期をその半分の期間で
見事に成し遂げました。
当時有力大名の大半である
160もの藩がこの地に
屋敷を構えましたが、
朝鮮出兵から秀吉の薨去迄の
8年間はこの地が日本の政治的に
一大中心地となっていたのです。
十年ぶりに、肥前名護屋城に行って
きました。
まず佐賀県立名護屋城博物館を見学。
丁度いま、太閤が京都などで天皇を
おもてなししたあと、この名護屋城
まで運ばせて、茶会や外国使節の
応接に使用したという、
黄金の茶室を復元していました。
黒田長政公の400回遠忌法要の
行われた黒田家の菩提寺である
崇福寺さんのご厚意で寺宝である
長政公の肖像画をまじかに
見せて頂きました。
筑前福岡五十二万石の初代藩主黒田長政公の四百回遠忌法要が福岡市の崇福寺で催されました。
黒田家第十六代当主長高様や藤香会の黒田家家臣のご子孫はじめ、ゆかりの方々がたくさん集まり、我々中津黒田武士顕彰会も小野眞六会長とともに参列しました。
本堂の正面に長政公の肖像画が据えられ、厳粛な雰囲気いや増さり、僧侶の読経の声が響き渡る中、長高様のご焼香に始まり、多くのゆかりの方々が続きました。
法要が終わり、隣の黒田家墓所にある藩祖官兵衛(如水)公、藩主長政公はじめ歴代藩主のお墓に参拝し、その後市内の割烹で黒田長高様の歓迎懇親会があり、皆様と旧交を温めました。
黒田長高様とは黒田サミット中津でご厚誼を頂きましたが、ご壮健にてお会いでき嬉しく存じました。