黒田官兵衛(如水)と 光姫389回遠忌

2015-08-27 09:14:38 | Weblog

8月26日は黒田官兵衛正室光姫様の389回忌でした。

我々豊前国中津黒田武士顕彰会と中津を粋にする集いの皆さんが、松厳寺にて法要を営みました。

本堂の正面に照福院殿光姫の肖像画とお人形を据えて、雰囲気も最高です。

ご住職の読経が始まり、参列の方々の焼香が続いたあと、光姫の生涯を簡単にご説明し、顕彰会の軍師官兵衛の歌と舞をご披露しました。

官兵衛の次男熊の介が朝鮮へ出兵せんと若気の至りで出港したが玄海灘で遭難したことから、嘆き悲しんだ光姫は中津市寺町にある円応寺で法要を営んだ。

官兵衛が有岡城の土牢に幽閉された日々、熊の介の非業の死、関ヶ原の合戦の前、石田三成の人質要請の苦難など、光姫は数多くの災難にあいながらも、戦国時代のなかで波乱の生涯を生き抜いたのです。

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と 黒田二十四騎 ~野口左助一成

2015-08-25 08:14:59 | Weblog

野口左助一成は播州加古郡の生まれ。

一成の父は野口念仏で有名な教信寺の僧でしたが、官兵衛と気の合う囲碁仲間、ある時官兵衛はその子一成を見込んで家臣として貰い受けた。

天正八年(1580)三木城攻め、豊前国香春岳攻め、島津を攻めた時の財部城攻め、天正18年(1590)官兵衛が無血開城させた小田原北条攻めに参陣、文禄の役、慶長の役、関ヶ原の合戦に高名を上げる。

慶長11年(1606)江戸城の天下普請では母里太兵衛と共に天守台石垣を担当し、見事に作り上げた。

寛永20年(1643)、戦に明け暮れ、黒田家のために奮励した闘将は八十五歳の天寿を全うした。

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黒田官兵衛(如水)異聞 如水のバナーと赤合子ラペルピン

2015-08-20 07:58:54 | Weblog

ライオンズクラブ国際協会337-B地区(大分・宮崎県/69クラブ3200名)ガバナー小野眞六のバナーとラペルピンです・

バナーは黒田官兵衛(如水)の石像を、ラペルピン(襟章)は如水の赤合子をデザインしました。

各地区のガバナーはそれぞれ自地区のバナーとラペルピンを作り、他地区のガバナーや地区役員などに贈ります。

先日、広瀬大分県知事を表敬訪問し贈りましたが、「この赤合子ラペルピンは官兵衛が生涯57戦無敗の縁起の良いもので、何か勝負事がある時はこのラペルピンを握りしめ願掛けすると必ず勝利します」と説明しましたら、知事は思わず「このピンが先の選挙(四月知事選挙)で相手陣営に行かなくてよかったね~」と頬を緩められて仰いました。

これから各クラブ訪問などがありますが、その中で「ガバナー入場」の場面には我々が作詞作曲した「軍師官兵衛」の曲に乗って行うことになりました。

これから1年間、黒田官兵衛(如水)と共にこのバナーとラペルピンを胸に社会奉仕に精進してゆく所存です。

*ライオンズクラブは世界中で140万人、日本では12万人余の会員が活動する世界最大の奉仕団体です。世界中の自然災害に対する義援金援助(フィリピン台風被災地支援、ネパール大地震被災者支援、日本では東日本大震災復興支援、広島豪雨大災害、大分県北部豪雨大災害など)、青少年健全育成(薬物乱用防止運動・期待される成人への育成プログラム)、献血・献眼(アイバンク運動ー失明した人へ角膜移植により視力を取り戻す)・献腎運動(腎臓移植)、視力保護、環境保全運動、地域への奉仕活動などに取り組んでいます。会員として社会奉仕活動に賛同したい方は、お近くのライオンズクラブにお問い合わせください。

 

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黒田官兵衛(如水)と 黒田二十四騎 ~菅六之助(和泉)正利~

2015-08-16 08:51:32 | Weblog

 

勇猛果敢な黒田二十四騎の中でもひと際豪勇な武勇伝で名を残している一人が菅六之助(和泉)正利であります

 菅六之助は永禄10年(1567)播磨国越部に生まれる。

太宰府天満宮で神様と崇められている菅原道真公を先祖とする名門です。

賤ヶ岳合戦、岸和田の戦いで戦功をあげ、豊前城井谷攻略の時泥田に馬を落とした長政を助けた。

文禄の役での朝鮮出兵でも大活躍。

文禄3年(1594)機張城に居た黒田軍は近辺の深山を巡った時、大虎に遭遇した。

長政が愛用の銃で虎の眉間を討ち取ると、もう一匹の虎が菅六之助目がけて突進して来た。

剣の達人である菅六之助は虎の喉元目がけ思いっきり踏み込んで切り付け討ち取った。

慶長5年(1600)石田三成との合渡川の戦いで活躍、関ヶ原合戦では松尾山の小早川秀秋反忠(寝返り)への使者の護衛の役を見事に努め、合戦では石田軍総大将島左近を打ち破る武功を立てた。

剣の達人菅六之助は宮本武蔵の師父新免無二之助の弟子でしたが、師匠を越えるほどの腕前であった。

大坂冬の陣に出陣、藩内で準家老格となり長政に重用された。

寛永2年(1625)、黒田藩の重鎮として戦に明け暮れた59歳の波乱の生涯を閉じた。

 

 

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黒田官兵衛(如水)と 高浜京泊

2015-08-12 07:03:55 | Weblog

吉富町古表八幡神社へ参拝後、近くの高浜京泊を訪ねました。

ここ高浜京泊は黒田藩の海の玄関口として、重要な湊の役目をしたところです。

1598年(慶長3)秀吉が薨去し世の中に大乱が起こると読んだ官兵衛(如水)は上方と中津の間に鞆、上関の連絡基地経由で3日で上方からの情報が伝わる早船を用意した。

石田三成が大坂で挙兵し、人質になりそうになった官兵衛の正室光姫、長政の正室栄姫を母里太兵衛と栗山善助が助け出し、海路中津へ無事送り届けた時、着いた湊がこの高浜京泊でした。

今、この地に立って遥か上方を望み、振り返って中津城を見遣ると、悲喜交々の官兵衛の心情が窺えるようです。

また、この地から文禄元年(1592)朝鮮出兵の基地名護屋へと出立したのです。

 

 

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黒田官兵衛(如水)と 黒田家奉納神衣~吉富八幡古表神社

2015-08-08 09:04:49 | Weblog

 

中津城対岸の吉富町(福岡県)にある紙相撲で有名な八幡古表神社で年に一度の神衣の虫干しがありました。

民も領主も厄除け、子供の誕生祝、歳祝い、武運長久などの願をかけて神社に神衣を奉納したのです。

黒田家から奉納された神衣も四百年余を経て今に伝わっており虫干しされていましたが流石に衣は歴史を感じるほどでした。

長年にわたってこのような催事が続けられていることに、驚くと同時に、関係の方々の神社を敬う精神的な伝統に感動しました。

 

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黒田官兵衛(如水)異聞 広瀬大分県知事表敬訪問

2015-08-04 08:00:40 | Weblog

この度、大分合同新聞に小野ガバナー就任の記事が大きく掲載されたことから、広瀬大分県知事を表敬訪問しました。

広瀬知事には我々が「黒田官兵衛を大河ドラマへ」と活動していたころから、応援してくださっていましたので、話がライオンズクラブのことと共に大河ドラマ軍師官兵衛として結実した苦労話で盛り上がりました。

 

 

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