風雲中津城 2

2007-11-30 11:37:09 | Weblog
風雲中津城もいろんな展開を見せてくるようになりました。一昨日の新聞では中津市と北九州市の市民団体が中津城買取りの運動方針を確認したと載っておりました。記事には市や市民の出資で買い取るべきとの方針ですが問題は山積しています。まず中津市は買い取りをOKするのか、また買い取るとしても市は予算として幾らくらい出せるのか、そして裁判の結審は何時頃でどちらの言い分が通るのか等々。風雲中津城よ、何処へ。
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風雲中津城

2007-11-29 11:52:43 | Weblog
このところ新聞やテレビを賑わしている中津城の売却のニュースですが、新たに大きな問題が浮かび上がってきました。何でも奥平家と現城主中津勧業社長の政幸氏との間の養子縁組に問題があったようで裁判沙汰になった事が大きく取り上げられています。これから先一体どうなるのでしょうか。この事が解決しないと中津市もどうにも手が打てないようです。この中津城ですが今や「時の人」ならぬ『時の城』となって世間の注目を集めています。お陰で風雲中津城を目当てに観光客(中には買いたいという方も)が増えているそうで中津市にとっては嬉しい限りです。その上全国的に有名になり遠くNHKさんの覚えめでたくなれば「戦国時代の名軍師黒田官兵衛(如水)をNHK大河ドラマに」という私達中津黒田武士の会の悲願が達成でき黒田官兵衛が中津城をバックに大活躍する姿が画面一杯に映される日もやがてそう遠くないのではないかと思えるのです。一日も早く一連の問題が解決し中津市民の宝として後世まで大切に伝えられていくことを願っています。
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黒田如水の陣太鼓

2007-11-28 11:24:41 | Weblog

中津市如水地区に伝わる陣太鼓です。1600年、黒田軍は家康に付いて関東の上杉征伐に向かっている時、大坂で石田三成が兵を挙げた。一躍引き返し三成を討たんとした家康軍と関ヶ原で天下分け目の合戦が起きようとしていた。その情報をいち早く早船で知った黒田如水は今まで蓄財した金銀を天守(黒田家譜)より大広間に運び領内の男子を集め兵として雇うことにした。応募してきたその数三千余人を俄か黒田軍として訓練したのが後の中津の如水原(旧助部/すけぶ村)であった。その中に若き日の剣豪宮本武蔵も居たという。如水原の住民は良く黒田軍を助けたので感激した如水は陣太鼓や槍・刀を与えたという。それが今に残るこの陣太鼓と言い伝えられています。地元上如水地区にある中津工業高校が以前甲子園に出場したとき球場にもって行き応援のために大いにこの陣太鼓を敲いたそうです。皮が破れたので最近張り替えたとか。地元にある『官兵衛会』の相良さんが写真を撮ってくれました。何時か実物を拝見したいものです。

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宇都宮氏居館跡

2007-11-27 11:42:31 | Weblog
則松さんが是非お見せしたい所があるというので、そちらに回りました。そこはそのあたりの地形に似合わないような平坦な広い土地で則松さんは文献から推し量って宇都宮氏の居館跡ではないかと説明されていました。500坪くらいの長方形の土地に空堀が四方に張り巡らされておりいわば一段高く台座の上に土地が坐っているというような様子が見える。敵を防ぐ城砦とまではいかなくても居館としてすぐには攻められないように深さ約1,5メートル、幅7,メートルの空堀が確認されている。現在は個人の所有地で農地となっている。ここで則松さんとお別れです。実りのある貴重な一日でした。ありがとうございました。
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天徳寺宇都宮鎮房墓

2007-11-25 23:37:35 | Weblog
堂山城を見学後、麓の正光寺で解散。皆さんと別れて則松さんと宇都宮氏の菩提寺天徳寺へと回りました。境内は紅葉の真っ盛りでした。宇都宮鎮房の墓は寺の裏手に一族墓所の真ん中あたりにあり、何方が参られたのか綺麗なお花が活けられていました。中津城で長政に討たれた後、大坂の秀吉の下に送られ首実験をされたと思われます。亡骸は武士として丁重に葬られるのが慣わしとされていました。この天徳寺のお墓は何方か一族の方が建てられたと思われます。その両隣に嫡男朝房、父君長甫の墓が並んでいます。そのいずれにも今活けられたかのような綺麗な供花があたりの静寂と相俟ってすずやかに香りを放っていました。
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堂山城

2007-11-24 11:41:20 | Weblog
白彼岸花の正光寺から登っていくと堂山城があります。小河内城のような400メートルもの尾根の上に築かれた城でなく、ここは正光寺から歩いて10分くらい上ればたどり着きます。地理的な要所で古くから遠見番所とよばれ狼煙台を置いたと伝えられています。今は写真のように木立の中に埋もれた感じになっていますが、中世に築かれた山城跡がこの近辺にはたくさんあり宇都宮400年の歴史を感じます。写真は堂山城本丸跡です。
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後藤又兵衛の手水鉢

2007-11-23 10:34:33 | Weblog
本庄の大楠の近くに不老山正光寺という白い彼岸花祭で有名なお寺があります。境内には4000本の白彼岸花が植えられていて毎年9月23日頃には素晴らしい花を咲かせるということです。このお寺の庫裏のそばに後藤又兵衛手製の手水鉢が伝わっています。黒田長政が若気の過ちで城井の宇都宮鎮房を攻め大敗したとき又兵衛は一時囚われの身になり、手遊びに岩をくり抜き手水鉢を創ったといわれたものです。なかなか味わいのある作となっています。当時豪傑後藤又兵衛がどんな気持ちでノミをふるって彫っていたのかと思いやるのも歴史の一断面を見るのに興味があることです。
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本庄の大楠

2007-11-22 11:21:03 | Weblog
小川内城の麓に本庄の大楠があります。樹齢1900年といわれ国の天然記念物になっています。幹周りが20メートル以上もある日本有数の巨樹で、この大楠の葉っぱを懐に入れると無病息災長生きをするといわれています。黒田如水軍は小川内城を築くときこの大樹の下に勢揃いして神のご加護を祈念したに違いありません。この木ノ下に立つと人間の一生なんて誠にちっぽけなものに見えてしまいます。大楠も人間が日々戦に明け暮れているのを見てどんな物思いをしていたのでしょう。しかし、戦国時代には厳しい現実が眼前に展開されていて人々は毎日生きるのに精一杯の世でした。
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小川内城実測図

2007-11-21 13:44:11 | Weblog
鎮西宇都宮氏の研究家則松弘明氏と同行していただいた山城登山見学会の築上町教育委員会の担当職員高尾氏と馬場氏に詳しく説明していただきましたが中でも資料としていただいた実測図は大変貴重なもので当時の山城の様子が良くわかります。どの城も尾根に築かれています。ここ小川内城は350名もの黒田軍が詰めていました。対峙する宇都宮軍も必死です。敗北は一族の滅亡と死を意味します。
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小河内城2

2007-11-20 11:02:00 | Weblog
小河内城の本丸跡です。木立で見えませんが宇都宮の城がその後方にあります。足元にあるのが土塁ですべて敵側に向いて築いています。当時は杉木立は無く遠くまで見晴らしが利いていました。ここから宇都宮氏の城を見張っていたのです。ただ『城』と便宜上書いてますが当時の山城は平屋建てでいわば砦のようなものであったようです。山頂なので風が冷たく寒い一日でしたので厚着をしていますがお腹が出て見えるのはそのせいで本当はもっとスマートなのです。
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