秀吉は慶長元年(1597)キリシタン26名を長崎で磔刑にした。
キリシタン大名や信者の力が増大し、宣教師の中には日本人を奴隷として売買したり、神社仏閣を破壊するなど目に余る事件が各地で横行した。
秀吉はバテレン追放令を発令しても南蛮貿易は捨てがたく、様子見の様相であったが、いよいよ危機感を感じるようになり、キリスト教に対して禁教令を発布し、石田三成に命じてキリシタンを捉えさせた。
捉えられた信者たちは耳を削がれ、長崎まで極寒の中、徒歩で護送された。
途中、棄教するなら命を助けると勧められるも、今生の命よりあの世の永遠の命のほうを選んだ信者たちは全員殉教を選んだ。
信者たちはキリストの磔刑されたゴルゴダの丘に似ている長崎の西坂の丘での処刑を望んだ。
当日はもの珍しさに4千人もの群衆が見守る中、26人のキリシタン信者は磔刑にされた。
秀吉はある意味官兵衛が信仰を捨てず、秀吉に抗っていることに苦々しく思っていたことから、見せしめのためキリシタン弾圧をしたのではないかと思われるのです。
官兵衛はそれでも生涯キリシタンで通した。
1862年、二十六人はローマ教皇のもと聖人に列された。