黒田官兵衛(如水)とキリスト教21 二十六聖人

2016-01-25 08:00:56 | Weblog

 秀吉は慶長元年(1597)キリシタン26名を長崎で磔刑にした。

キリシタン大名や信者の力が増大し、宣教師の中には日本人を奴隷として売買したり、神社仏閣を破壊するなど目に余る事件が各地で横行した。

秀吉はバテレン追放令を発令しても南蛮貿易は捨てがたく、様子見の様相であったが、いよいよ危機感を感じるようになり、キリスト教に対して禁教令を発布し、石田三成に命じてキリシタンを捉えさせた。

捉えられた信者たちは耳を削がれ、長崎まで極寒の中、徒歩で護送された。

途中、棄教するなら命を助けると勧められるも、今生の命よりあの世の永遠の命のほうを選んだ信者たちは全員殉教を選んだ。

信者たちはキリストの磔刑されたゴルゴダの丘に似ている長崎の西坂の丘での処刑を望んだ。

当日はもの珍しさに4千人もの群衆が見守る中、26人のキリシタン信者は磔刑にされた。

秀吉はある意味官兵衛が信仰を捨てず、秀吉に抗っていることに苦々しく思っていたことから、見せしめのためキリシタン弾圧をしたのではないかと思われるのです。

官兵衛はそれでも生涯キリシタンで通した。

1862年、二十六人はローマ教皇のもと聖人に列された。

 

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黒田官兵衛(如水)とキリスト教20 天正遣欧少年使節

2016-01-19 07:56:34 | Weblog

天正遣欧少年使節図です。

天文18年(1549)8月15日、イエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエル等が日本人キリシタンアンジローを伴いインドのゴアから4カ月かけて鹿児島に上陸した。

信長はじめ各地の大名は南蛮貿易から、高度な西洋文明を知り、天文・地理、軍船・兵器・築城術などを取り入れた。

天正10年(1582)、キリシタン大名大友宗麟、大村純忠、有馬晴信は伊藤マンショ・千々石ミゲル・原ミゲル・中浦ジュリアンの4人の少年(13~14歳)をポルトガル・スペイン王やローマ教皇に謁見させ、経済的・精神的な援助を求める事と少年たちにキリスト教国の偉大さを見聞、体験させるために派遣した。

それは想像に絶する困難な旅であった。

信長の死(1582年6月)後、天下人となった秀吉もキリシタンには好意的であったが、九州島津征伐後キリシタン信者の増加やポルトガル軍船の装備を見て危機感を募らせた。

天正15年(1587)、秀吉は突然バテレン禁止令を発布、日本国中が混乱し多くの有力大名は棄教したが、信仰心の厚い高山右近などは信仰を捨てずに自領を捨てた。

天正18年(1590)少年使節団はそのようなキリシタンにとって逆風の中、混乱の日本に帰国した。

*高山右近は慶長19年(1614)家康のキリシタン国外追放令が発布されるとマニラ、ルソン島へと追放される道を選んだが、旅の疲れと老齢のため翌年マニラで死去した。

*2016年1月、高山右近は福者に列せられた。

 

 

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)とキリスト教19 高山右近

2016-01-14 08:59:02 | Weblog

戦国時代の武将高山右近はジュストという洗礼名を持つ高槻城主であった。

官兵衛の秘策「備中高松城水攻め」により、毛利軍と和解したのち、信長を本能寺で亡き者とした明智光秀を討ちに進軍した有名な「中国大返し」で先鋒をつとめたのが高槻城主高山右近であった。

人格者であった右近は秀吉側近の武将たちに影響を与えること多く、あるとき官兵衛は右近の勧めで切支丹になった。

一部の宣教師の横暴を目にした秀吉は伴天連禁止令を発布し、長崎で二十六人の信者を処刑した。

関ヶ原の合戦の後、天下を取った徳川幕府は慶長17年(1612)、二代将軍秀忠は増え続けるキリシタンを抑えるために禁教令を発布、高山右近は苦悩の末、信仰を捨てず国や家臣を置いて、国外へと追放される道を選んだ。

 

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黒田官兵衛(如水)とキリスト教18 泰西風俗図屏風④

2016-01-10 08:40:32 | Weblog

黒田家に伝わるこの泰西風俗図屏風には単なる泰西の風俗図ではなく、宣教師の影響か西洋風の衣服を身にまとった日本人的な人物像が、描かれているのが見受けられます。

ザヴィエルによって伝えられたキリスト教は西洋文明や先進兵器の情報とともに日本国中に嵐のように吹き荒れたのです。

その中で黒田官兵衛(如水)は絶対君主秀吉に逆らってまで、キリスト教と如何に対峙し、受け入れたのか。

それは一歩間違えば、高山右近のように国や家臣を捨ててまでの国外追放か、はたまた切腹させられかねない危険を冒してまでの命を懸けた信仰であった。

 

 

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黒田官兵衛(如水)とキリスト教17 泰西風俗図屏風③

2016-01-05 08:50:15 | Weblog

黒田家に伝わる泰西風俗図屏風のもう一折です。

フランシスコ・ザヴィエルによって伝わったキリスト教ですが、その後、多くの宣教師が日本にやって来ました。

その中には純粋に教義のみを伝道しようとした宣教師が多く、命をかけて遠くヨーロッパ大陸から、数か月にわたる困難な航海を経てやって来たのです。

よく歴史家が言われるような、まずキリスト教の宣教師がやって来て信者を増やし、その後軍隊が来て国を植民地化することもあったようですが、ザヴィエルを始め多くの宣教師たちは、純粋にキリスト教に殉じようとした人々たちでした。

故に、日本の多くの知識人に受け入れられたのです。

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新年のお祝いを申し上げます。

2016-01-01 10:09:13 | Weblog

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は黒田官兵衛ブログを応援して戴き、ありがとうございました。

軍師官兵衛の放映が終わり、少し落ち着いた昨年でした。

本年は黒田官兵衛(如水)の生誕470年の記念すべき年に当たります。

今まで軍師や武将としての面ばかりが注目されてきた官兵衛(如水)ですが、キリシタンとして別の面から光を当てることは、なかなか面白く調べ応えがありました。

もう少しキリシタンとしての人間官兵衛(如水)を掘り下げて行きたいと思います。

2016年が皆様にとって良い年となりますように祈念申し上げ、当ブログを応援して戴きますよう宜しくお願い申し上げます。

*この正月も中津城には全国各地からたくさんの観光客がお見えになっています。未だに軍師官兵衛ブームは続いているようです。我々中津黒田武士顕彰会が創築した「黒田官兵衛像」も青空のもと多くの観光客の写真スポットとなっていました。皆様もぜひ一度官兵衛公と一緒に写真に納まってください。何よりも生涯無敗の縁起の良い官兵衛公からパワーを頂き、見守ってくださる有難いパワースポットでありますので。

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