黒田二十四騎の一人、堀平右衛門定則は旧姓明石久七という軽輩の出ながら、渡鮮した文禄役では晋州城攻めで高名。
黒田官兵衛(如水)考案の戦車「亀甲車」で晋州城の石垣を崩した時、平右衛門は黒田軍の先頭を馳せ、後藤又兵衛などと共に一番乗りを争った。
その武功により「明石久七」は、活躍した場所がお濠の塀際だったので名前を「堀平右衛門」と名乗ることになり、その後も朝鮮での戦で大いに暴れまわった。
慶長五年(1600)家康軍が会津へ出兵した隙を衝いて石田三成が挙兵した、関ヶ原の合戦の前哨戦である木曽川・合渡川の合戦で泥田に落ち水牛兜の先が見えるだけになった長政を引き上げ無事助け出した。
その後、関ヶ原の合戦で高名、二十二首級を上げ筑前入国後は黒田家三男長興が秋月城主と分封されると五千石の筆頭家老となった。
長興が長ずるに豪傑平右衛門の常軌を失した行いは次第に信頼を失う。
豪傑で名声もあった平右衛門は大奥で権勢を振るった春日局の息子老中でもある小田原城主稲葉正勝に乞われ召し抱えられる。
しかし、余りにもその我儘さに正勝の死後、新城主となった正則により手打ちにされた。
平右衛門の次男真明は真言密教の僧となり、豊後国(大分県)玖珠郡戸畑の地蔵院導伝寺の住職となり、今もそのご子孫が続いている。
古来より豪傑たるもの、戦の世には超人的な活躍をするが、戦が収まり平和な時代になると、なかなか世の中にそぐわなくなることが多々あります。
堀平右衛門の一生懸命に戦国の世を生き抜いてきた姿と時代の変化に翻弄されながらも、その無骨で一途な生き様を思いみると、茫々たる涙の流るるを禁じ得ないのであります。