黒田官兵衛(如水)と黒田24騎 栗山利安(善助)

2015-05-28 08:21:32 | Weblog

黒田家の勇猛果敢な侍大将である黒田24騎のなかで最も有名な武将、重臣中の重臣が栗山四郎右衛門利安(善助)である。

幼少の砌、官兵衛を生涯の主君として自分から押しかけて臣下となった。

常に官兵衛のそば近く仕え、黒田家が戦国時代の荒波に翻弄された時も、家臣団を一致団結させ強力な黒田軍団にまとめて行った。

官兵衛が有岡城の地下牢に幽閉されたとき、厳重な警戒をかいくぐって沼を泳ぎ渡り、牢の外から声をかけ、衰弱し今にも死にそうな官兵衛を励ました。

豊前入国後、耶馬渓の地の国人領主の一人野仲鎮兼の長岩城を攻め落としその地の平田城を預かる。

朝鮮出兵中、民を大事にし慕われた。

官兵衛の信頼最も厚く、後に一番家老として黒田家の中でも重きをなした。

官兵衛死去の枕辺で官兵衛から赤合子型兜を授けられ長政の後見を頼まれる。

寛永8年(1631)81歳の波乱の生涯を終えた。

 

 


黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎

2015-05-23 07:52:53 | Weblog

黒田家は関ヶ原の合戦の武功により、筑前福岡52万石の国内でも有数の大大名となった。

徳川幕府となり、戦の無い時代になったことから、黒田家は歴代の家臣のうち特に勇猛な侍大将を二十四人選び、黒田二十四騎として顕彰した。

その殆どは、中津時代に秀吉の朝鮮出兵や石垣原、関ヶ原の合戦で大活躍した武将が選ばれている。

初期は長政を入れて二十五騎でしたが、後に家臣のみの二十四騎となった。

それぞれ固有の特徴ある甲冑姿が勇者の面影を伝えています。

福岡県黒崎市の春日神社には黒田二十四騎が御神霊として祀られている。

また各地には有名な絵師による黒田二十四騎図が伝わっている。


黒田官兵衛(如水)黒田氏家臣連署起請文

2015-05-19 11:20:38 | Weblog

黒田官兵衛は荒木村重の謀反を翻意させるために説得に行くも、かえって有岡城の牢に幽閉された。

有岡城に入城したまま帰ってこない官兵衛に信長は寝返りしたと疑い、嫡子長政の殺害を命じた。

官兵衛の生死も分からず、長政の運命もはやつきようとした苦難の黒田家であったが、家臣団は一丸となって黒田家に忠誠を尽くすことを誓ったのが「黒田氏家臣連署起請文」である。

母里太兵衛(友信)外11名から御本丸様(光姫)宛となっている。

主君小寺政職は毛利方に寝返ったが、黒田家臣は官兵衛室(光姫)を守り立て、父職隆に従う旨の誓いを立てた。

官兵衛や嫡子長政の生死も分からぬ黒田家最大の難局を、家臣団は強い意思で一つにまとまったのです。


黒田官兵衛異聞 勝海舟切子 2

2015-05-13 08:19:52 | Weblog

 ~大御代はゆたかなりけり旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき~

勝海舟が海路上陸した大分県鶴崎に宿泊した際に詠んだ歌です。

勝海舟直筆の筆の運びもそのままに切子の中に再現されています。

肖像写真、家紋や文字も格調高く、素晴らしい出来栄えです。

オリジナルな、世界にたった一つの記念品として出来上がっています。

自分の思い出として、または大切な方への贈り物に最適かと思います。

贈られた方はきっとお喜びになる事でしょう。

 


黒田官兵衛異聞 勝海舟切子

2015-05-08 09:05:53 | Weblog

鎌倉に工房のある高山さんの下町切子さんから大分学様を通じて、素晴らしい切子の作品が届きました。

「勝海舟と坂本龍馬の師弟の旅」と題した作品は、幕末4か国連合艦隊による下関砲撃中止の交渉のために長崎出張を命じられた勝海舟が坂本龍馬を連れて、神戸から海路佐賀関(大分県)に上陸し長崎へ向かったことを記念して作られました。

作者の高山さんは勝海舟の五世(玄孫)で、先日中津でお会いしましたが、工房ではオリジナルな記念品を制作販売しておられます。

親しい方、お世話になった方への心のこもった贈り物や記念品に最適であり、皆様にご紹介したい逸品です。

先日頂きました官兵衛モデルの作品と合わせてご紹介しますので、心ある方は高山様までご連絡してください。

 高山谷戸の工房 高山 TEL・FAX 0467.23-3475

*勝海舟は近い将来NHK大河ドラマになりそうです。期待してください

 


黒田官兵衛と吉弘嘉兵衛統幸

2015-05-04 11:53:19 | Weblog

戦国時代に名将といわれた武将は綺羅星のごとくいるが、吉弘嘉兵衛ほどその生き様に感銘を受けた武将は居ないといっても過言ではない。

主君大友義統が領地召し上げとなり、名門大友家が滅亡した後もお家再興の望みを捨てずに、野に伏していた。

秀吉没後、豊臣秀頼より西軍に付けば領地復活との誘いを受けた大友義統を、これからは徳川の世ゆえ東軍に付くべく進言するも、叶わずやむなく西軍に組した主君に従い、別府石垣原の合戦で死に場所を此処と定め、旧知の黒田家重臣井上九郎右衛門と一騎打ちをし、見事に討ち死にしたがまったくもって義に厚く生きた武将であった。

名将は名将を知るの喩えどうり官兵衛も嘉兵衛統幸の見事な散りざまを惜しみ、その地にて供養をし魂の安穏を祈った。

石垣原合戦場跡に吉弘神社が建立され、今もなおその遺徳を偲び、お参りする人々が絶えない。