天下分け目の関ヶ原の合戦は西軍の石田三成が己の命運を懸けて仕掛けた大戦(おおいくさ)でした。
稀代の軍師黒田官兵衛(如水)に比べられていた嫡子長政は関ヶ原の合戦で東軍の為に大活躍した。
豊臣恩顧の武将を東軍につけ、松尾山の小早川秀秋を反忠(寝返り)させた。
秀吉の正室ねねの親族である秀秋は官兵衛の助言で小早川隆景(毛利元就の三男)の養子になった。
最初は名門毛利本家(輝元)の養子にと秀吉は目論んでいたが、毛利家が難色を示していたのを官兵衛がとりなして小早川家へと話をまとめた。
秀秋と黒田家は水面下ではこのような経緯があったのです。
関ヶ原の合戦の後、外様である黒田家が豊前国六郡12万3千石から、一気に筑前52万石の大大名へ成ったのは、偏に長政の活躍に家康が感激したからと言える。
後世の欧州の戦略家が関ヶ原の合戦図の布陣を見て、これは西軍の勝利と読んだほどの東軍劣勢の様相を見事に覆したのが長政であった。
ただ、長政のあまりもの見事な働きであったので、官兵衛(如水)の天下の夢も潰えたという皮肉な一面もあった。
西の関ヶ原・別府石垣原の合戦は如何にして起ったか?
朝鮮征伐の折り、秀吉の不興をかった大友義統(宗麟の嫡子)は豊後の領地召し上げの後、毛利家へ、息子は家康に預けられ、吉弘統幸はじめ家臣たちは浪人となっていました。
豊後の国を西軍に組せんとした石田三成は大友義統に旧領を与えんと豊臣秀頼の命で武器弾薬と共に豊後木付(杵築)城を与えた。
しかし、東軍としては細川領の飛び地でもある木付城を渡すわけにはいかない。
木付城を受け取りに行った大友氏と渡すわけにはいかないという細川家の戦いが起き、豊前中津で挙兵した黒田官兵衛が細川の助勢に行き、西の関ヶ原といわれた石垣原の合戦へと時代は流れて行ったのです。
大友義統は史実で伝えられるひ弱な君主ではなく、唯に浪人中の家臣はじめ大友氏一統を、また元の豊後の国に復帰させて、禄を食む安定した生活の礎を築きたかったのではないかと思えるのです。
その当時、徳川に付いても旧領の復帰は保障されるかどうか判らなかったという憶測もあった。
大友義統が大いに呻吟したことは、想像に難くなく、同情せざるを得ないのです。
細川ガラシャ夫人と黒田家は切っても切れない縁で結ばれているのをご存知の方は少ない。
徳川家康が上杉征伐に出立した間隙をぬって、石田三成が挙兵した。
三成は東軍の武将の奥方を大坂城へ人質に出すように強要し、各屋敷を取り囲んだ。
ガラシャ夫人は人質になるのを拒否し、家老に胸を一突きさせ屋敷は炎上。
その火を見て黒田屋敷を取り囲んでいた三成の兵は細川屋敷に向かい、手薄になったところで母里太兵衛と栗山善助の機転で官兵衛と長政の奥方は無事に脱出し大坂から船で中津の地へと帰還した。
太兵衛と善助はもし奥方が人質になるようなことになれば、お前たちも一緒に死すべしと官兵衛に命じられていた。
もし、細川ガラシャが死ななかったら、黒田家と両夫人の運命、ひいては東軍の士気にも大いに影響していたであろうし、関ヶ原の合戦や石垣原の合戦もどうなっていたか分からない。
関ヶ原の合戦の一つのターニングポイントでもあった。
黒田藩の酒豪と言えば、大酒飲みの代名詞「ふか」と呼ばれた母里太兵衛です。
『黒田武士母里太兵衛は愛(は)しきやし 酒にてその名残したりけり 〈達〉』
という和歌に残されているように、愛すべき豪傑でした。
無口な無骨者というイメージが強い母里太兵衛ですが、各地の戦で奮戦著しく首級を挙げた数76首は藩内一、また1596年の正月、福島正則屋敷での「名槍日本号呑み取り」は、これぞ真の黒田武士と称えられ、その出来事が後世に民謡黒田節となり、♫ 酒は飲め飲め飲むならば~ ♫ と日本中の酒席で必ず手拍子と共に座を盛り上げるほどの歌となりました。
黒田家一番家老栗山四郎右衛門利安(善助)の弟分として、三番家老が母里太兵衛でした。
江戸城築城の際、石垣を担当しその出来栄えがとても見事であったと、将軍家から感謝状を拝領したが、あて名が毛利友信となっていたので、藩主長政に相談すると「将軍家から頂いた名前なので変えることは差し触りがある。そのまま毛利姓を名乗れ」と言われ、母里家では以後毛利を名乗り、明治になり元の母里に戻したという逸話も残っています。*母里を「もうり」と祐筆が聞き違えた?
太兵衛は黒田家が筑前52万石の大名になると、益富城そして大隈城主となり、福岡県嘉麻の地で逝去、麟翁寺に祀られている。