大河ドラマ「軍師官兵衛」決定と一年間ご愛読御礼

2012-12-31 07:38:21 | Weblog

 豊前国中津黒田武士顕彰会のブログを1年間ご愛読戴きまして誠に有難うございました。拙いブログでしたが戦国時代稀代の軍師・初代中津城主黒田官兵衛公の素晴らしさを日本中の皆様にお伝えしたいとの一念で今日まで頑張って参りました。十分に意を尽くすことが出来たのだろうかと常に三省しながら日々発信してきましたが隔靴掻痒の面もあったように思います。ご容赦下さい。

 本年は10月10日、2014年の大河ドラマが「軍師官兵衛」に決定!との電撃的な発表がありその日から我々顕彰会に対する好意的な報道や行政の対応に一喜一憂しながら本日の大晦日を迎えました。先日、年末のご挨拶に大分合同新聞本社、NHK大分放送局、大分県庁を特製幟を持ってお訪ねしましたところ各所ともねぎらいと暖かい励ましの言葉をかけていただき皆さん大歓迎してくださいました。ありがたいことです。

 思えば小野会長以下顕彰会会員の皆さんの「忘己利他」の精神を頑なまでも守ってきたことから皆さんに受け入れられたのではないかと思います。しかし、我々のボランティア精神もここまでになるともう限界があります。これからは行政と財界によるリーダーシップのもとで大河ドラマの受け入れ対策をお願いせざるを得ませんし必ずやってくださるものと信じています。顕彰会も出来る範囲で協力して行きたいと思います。そして、黒田家ゆかりの長浜市、瀬戸内市、姫路市、福岡市の皆様とも、より緊密なつながりを深めてゆきたいと思っています。

 来るべき2013年が皆様にとって人生の転機になるかもしれない素晴らしい年となりますように祈念申し上げ一年の御礼とさせて頂きます。ありがとうございました。


黒田官兵衛の足跡n豊前国 7 城井の上城址登り口

2012-12-30 08:04:56 | Weblog

川幅の少しずつ狭くなってゆく城井川をさらに上って行くと、宇都宮氏の「城井・上城址登口」の石碑がありました。ここから杣道をさらに上ると城井の上城があります。城井川のせせらぎがなぜか物悲しく響いてきます。案内の方に聞きますとこの地は下流と比べて5℃ほど気温が低いとか。冬は寒そうです。


黒田官兵衛の足跡n豊前国 6 宇都宮一族の碑

2012-12-29 07:54:23 | Weblog

宇都宮家菩提寺である天徳寺をあとに城井川をさらに上ってゆくと城井の上城の入口にあたるところに「宇都宮一族の碑」がありました。宇都宮氏一族の鎮魂の碑です。悲劇の武将宇都宮鎮房をはじめ一族の魂がここに眠っています。一族の誇りを今に伝えているのです。先日地元の新川築上町長が黒田官兵衛が大河ドラマで全国発信されれば宇都宮氏の築上町も登場して欲しいと言っていました。400年の恩讐を越え広く大きな心でお互いに手を携えて地元の町おこしに繋がって欲しいものです。


黒田官兵衛の足跡n豊前国 5 宇都宮家菩提寺 天徳寺

2012-12-27 07:46:23 | Weblog

宇都宮氏の居館跡を後にして城井川を少し上ると宇都宮氏の菩提寺である天徳寺があります。駐車場から落葉の散り残る石段を登ってゆくとそう厳しくも無いが存在感のある山門がありそこをくぐると掃除の行き届いた境内が見えます。本堂の裏手にはなだらかな山裾に沿って墓地があります。丁度その真ん中辺りに悲劇の将、宇都宮鎮房とその父子の墓が並んでいます。この城井谷一帯を400年もの長い間統治していた宇都宮氏であるが太閤の転封命令に従わず命を受けた黒田氏に滅ぼされました。

時代も大きく変化し、群雄割拠の世から天下統一されてゆく戦国時代後半の荒波に翻弄されましたが、ある意味、400年もの間滅ばずに居られた一族というのは希有な存在です。


黒田官兵衛の足跡n豊前国 4 宇都宮氏居館跡

2012-12-25 07:48:33 | Weblog

大野小弁墓碑を後にして宇都宮氏の居館跡を訪ねました。鎌倉幕府よりこの地の地頭として任命された宇都宮氏は400年の間、代々城井川沿いの小高い丘の上のこの地に屋敷を構え居館として住んでいました。今は個人の土地となっていましたので地主さんにお願いして見学させてもらいました。周囲には空堀の跡がまだ残っています。戦になるとここより上流の「城井の上城」に籠りました。


黒田官兵衛の足跡n豊前国 3 大野小弁正重墓碑

2012-12-23 07:59:09 | Weblog

広峰神社を後にして若き侍大将大野小弁正重の眠る峰に向かう。

 黒田家重臣の止めるのも聞かず若き猛将黒田長政は宇都宮鎮房の籠る城井谷を攻めた。既に軍師として高名な武将である父官兵衛の助けを借りずに己の力のみで反旗を翻した宇都宮鎮房を討つべく父の許可を得ずに出陣した。結果は入り組んだ城井谷の地理に不案内な黒田軍の惨敗であった。重臣たちは一端退却を進言するも自暴自棄になった長政は聞かず黒田軍は益々窮地に陥る。その時、大野小弁正重が長政の陣羽織を脱がせ「我こそは黒田長政なり!」と身代わりとなって敵陣の前に立ちふさがった。九死に一生を得た長政はかろうじて馬が岳城に辿り着いた。黒田家の窮地を救った大野小弁正重はその地で宇都宮兵と戦い壮絶な戦死を遂げる。大野小弁正重、恋も知らぬ弱冠18歳の生涯であった。

 もしこの地で大野小弁正重の身代わりなく長政が戦死していたらその後の日本の歴史は大きく変わっていたと言える。長政なくして関ヶ原の合戦で東軍の勝利なく徳川の世も無かったであろう。大野小弁正重は黒田家、ひいては徳川家の大恩人である。もっと顕彰されてしかるべき武将であると私は思う。

 墓碑は木々が鬱蒼と生い茂る山の中にあった。訪ねてくる人も少なく播磨学研究所長中元さんと一緒にカメラの中に納まって戴いた。同郷播磨人ゆえその魂は少し安らいで頂けたのではなかろうか。播磨で生まれ遠く九州の地でその若い命を落とさざるを得なかった無念の生涯を偲びつつ、惜別の情止まざる中その地を後にしたのであります。


黒田官兵衛の足跡n豊前國 2 広峰神社

2012-12-21 07:49:42 | Weblog

播磨の黒田武士顕彰会の新福さんよりこの地に広峰神社があるはずだから見て来て欲しいと頼まれていたので築上町の村上さんの案内でやって来ました。道沿いに立つ大きな鳥居から境内までしばらく歩いて行くと少し急な石段がありそこを上ってゆくと立派な社がありました。屋根の瓦もそう古くなく社殿には大きな注連縄が架かっています。社務所がありませんでしたので宮司さんはどこかのお宮と兼任されているのかもしれません。

黒田家が姫路の広峰神社を頼り備前福岡の地からやってきて御師に家伝の目薬を配ってもらい大きな財を成しました。この広峰神社と姫路の広峰神社が牛頭天王のつながりで関係があるようです。

 


黒田官兵衛の足跡n豊前国 法然寺

2012-12-20 07:50:29 | Weblog

姫路より播磨学研究所の中元所長さんと山本さんが豊前の黒田官兵衛ゆかりの地を案内してくださいとお見えになりましたので豊前国中津黒田武士顕彰会から小生と中尾英治、浦橋英男の三名が担当することになりました。

JR築城駅にて待ち合わせ、早速官兵衛が豊前国六郡を拝領し最初に滞在したのが山城の馬ケ岳城でしたが、その後少しの間滞在した築上町の法然寺を訪れました。案内は築上町の村上さん、中津市役所からは観光振興課の直田課長と矢野目係長が後学のために同行しました。

法然寺は官兵衛を調べるうちに何度となく文献に出てくるお寺なので一度は訪れてみたいと思っていましたが念願かなって良かったです。

今から425年前豊前国六郡12万3千石の大名となってこの地に赴任されてきた黒田官兵衛や黒田家臣の思いは如何ばかりであったろうかと法然寺の境内から遥かに嫡子長政とともに滞在した馬が岳城祉を望みました。


求菩提山と黒田官兵衛 桜狩り御膳

2012-12-18 08:00:03 | Weblog

黒田官兵衛が豊前国に入封して間もなく求菩提山(先日探訪しましたので報告は後日に)で桜狩りをした史実が残っていることからこのほど友人の割烹瑠璃京主人中島さんに創作料理「黒田家・桜狩り御膳」を創って戴いた記事が大分合同新聞に大きく掲載されました。創作料理ということで先ず桜狩にちなんだちらしずし、北条氏の小田原城開城に持参したほうぼうを使い見事に完成しました。

黒田官兵衛の大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映され、訪れた多くの観光客の皆様にぜひ召し上がっていただければ旅の思い出になるのではないかと思います。

 何しろ豊前の地は山海の食材に恵まれその料理は顎が外れるほどに美味いのです。


黒田サミットn瀬戸内 11 本会場 

2012-12-16 21:43:02 | Weblog

黒田サミットn瀬戸内は大盛況でした。長浜市、瀬戸内市、姫路市、中津市、福岡市の活動報告が順次発表され我々中津は「中津大津絵音頭」「豊前中津の黒田武士」をご披露しました。本会場の雰囲気も素晴らしくとても緊張しましたがなかなかの出来栄えでした。

その後、場所を移して黒田家ご当主長高様を囲む会があり記念撮影ののち最近作った新曲「軍師官兵衛」を発表しました。舞を小野京子先生にお願いしましたがとても素晴らしく一同呆然と見とれていました。