黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 小河伝右衛門信章

2015-07-30 23:11:46 | Weblog

小河伝右衛門は九州征伐や城井谷攻めで活躍。

官兵衛が拝領した豊前国の馬が岳城代となり五千石の準家老格の重臣となる。

太閤秀吉の朝鮮征伐では当初連戦連勝であったが、朝鮮の援軍として押し寄せた明の攻撃を受け、平壌より退却してきた全滅寸前の小西軍を小河勢は竜泉城に受け入れ、明軍を退却させた。

後に明の大軍に全滅させられただろうと小西軍の救援に向かわず退却した大友軍は秀吉の怒りを買い豊後国の領地を召し上げとなったが、その時退却せず小西軍を迎え入れ明軍と戦ったのが小河勢であった。

小西行長はわずかな手勢で明軍を追い払った小河伝右衛門軍を「日本一の大剛の大将は黒田なり。日本一の勇士は小河伝右衛門なり。」と絶賛した。

その話を聞いた秀吉から加増の命が来て急ぎ帰国途中の対馬で亡くなった。

文禄二年(1593)享年三十一歳の短い生涯であった。

黒田家にかような勇猛な侍大将が幾人も育ち、大活躍したことにはただただ驚嘆するばかりである。

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 吉田壱岐長利

2015-07-24 07:47:39 | Weblog

 

吉田壱岐(六郎太夫)長利は天文16年(1546)姫路生まれ。

一年前に生まれた官兵衛は母の乳の出が悪く、長利の母が授乳したので官兵衛とは乳兄弟である。

幼少時の官兵衛について参戦し幾度も手柄を立て、長じては備中高松城水攻めや山崎の合戦、城井攻め、朝鮮役などで黒田軍の軍策に提案し何れに於いても見事に敵を撃破せしめた。

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の時は官兵衛に従って中津より出立し九州中の西軍の城攻めに参戦。

筑前入封後は息子又助と共に高碌を賜る。

元和9年(1623)77歳で波乱の生涯を終えた。

生涯五十九度戦場に臨み挙げた首級は五十、常に一番乗りなど、その勇猛果敢な戦いぶりに官兵衛も長政も称賛の声を惜しまなかった。

黒田官兵衛にはこのようなつわものが綺羅星のごとく付き従い黒田家を盛り立てた。

 

 

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黒田官兵衛(如水)異聞 戦艦ミズーリ号と大分四人衆

2015-07-20 06:46:00 | Weblog

真珠湾の穏やかなれる波の上戦艦ミズーリの砲門光る    (達)

 

今回ハワイに来てぜひ訪ねたいところが戦艦ミズーリ号でした。

1945年8月15日、大日本帝国はポッダム宣言の無条件降伏を受諾し、9月2日東京湾上に浮かぶ戦艦ミズーリ号艦上でマッカーサー司令長官ら連合国代表の並ぶ前で降伏文書に署名した。

天皇陛下と日本政府を代表して重光葵外相(大分県杵築市出身)、大本営から梅津美治郎参謀総長(大分県中津市出身/陸軍の最高実力者)の当初より戦争回避を唱えていた二人が推されて署名しました。

駐英大使であった重光葵は日独伊三国同盟に反対し辞表を提出、帰国の挨拶に来た重光を英国チャーチル首相は熱い涙を流し見送った。

梅津は陸軍大学校を首席で卒業したほどの俊才でしたが、ソ連の仲介による講和を期待して時を稼ぎ本土決戦を回避すべく動くも叶わず(ソ連は既にヤルタ秘密協定でドイツが降伏した後、対日参戦を決定していた)、原爆がヒロシマ、長崎に落とされ、弱体した日本を見てソ連が日ソ中立条約を破棄し参戦したことにより終戦を迎えたが「ああ、また後始末に駆り出されたよ」と呟いたごとく最初から戦争反対論者でした。

この二人の大分県人が世界史上有名なポッダム宣言の無条件降伏文書署名の任に推された(受けざるを得なかった屈辱の任でもある)のです。

今、戦艦ミズーリ号の甲板にあるポッダム宣言署名の記念プレートの前に立ち、両名の署名の筆跡を眺めつつその心中は如何なるものであったか、暫し思いみるに曰く言い難い感情を抑えるのを禁じ得ないのでありました。

そして、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣(大分県竹田市出身)と豊田副武軍令部総長(大分県杵築市出身/海軍の最高実力者)も忘れてはならない。

ポッダム宣言は国体の護持、天皇制の維持が明確でなく、国体護持の保証を得るための一撃和平論が軍部の考えであったが、そのなかでこの四人の大分県人は日本国の将来を憂え、一身を賭して画策した。

日本が軍部の暴走を抑え平和的にポッダム宣言を受諾できたのは阿南陸軍大臣のお陰だと時の鈴木貫太郎総理大臣の回想です。

もし阿南惟幾なくば、連合軍による九州上陸のオリンピック作戦、関東平野上陸のコロネット作戦、そしてルーズベルト大統領の日本占領計画は米・英・ソ・中華の四か国による分割占領であり、本土決戦が遂行されれば日本国土は徹底的に破壊され焦土と化し多くの国民が亡くなり、九州は英国、福島県から北はソ連、東京はベルリンのように4か国で分割占領となっていた。

阿南は日本国を救った大恩人です。

先の大戦で日本を救ったのは奇しくも四人の大分賢人だったのです。

日本の皆さん、もうすぐ終戦記念日ですが日本国を救った大分県の4人の恩人のことをぜひ忘れないでくださいね。

*歴史家による終戦時の諸説あり。当時のことゆえ無実の戦犯に処された人々も多数いました。

 

 

 

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)異聞 小野ガバナー誕生

2015-07-16 07:48:11 | Weblog

この程ライオンズクラブ国際協会第98回世界大会INハワイにて、我々豊前国中津黒田武士顕彰会小野会長が337-B地区(大分県・宮崎県/会員3200人)のガバナーに就任し、その任命式が素晴らしいオアフ島コンベンションセンターで開催されました。

小生がキャビネット幹事、中尾英治顕彰会企画部長がキャビネット会計に任命され、同じ釜の飯を食った顕彰会の者がキャビネット三役を務めることになり、一緒にハワイへ行ってまいりました。

世界中から2万人、日本から4千人余のライオンズクラブ会員がハワイに集まり盛大な大会となりました。

ダイヤモンドヘッドを望む有名なワイキキビーチに沿ったカラカウア大通りを各国のライオンズクラブ会員がお国の民族衣裳を纏い行進しましたが朝9時から始まって午後4時頃まで延々と続く様子にはただ驚くばかりでした。

初めてのハワイでしたが、日立のCMソングで有名な「この木 何の木 気になる木~」を訪ねたり、ワイキキビーチで泳いだり、ポッダム宣言に重光葵と梅津美治郎(何れも大分県人)が署名した戦艦ミズーリ号を見学したり、サンセットクルージングではハワイ民族舞踊を見学しながら夕食会を楽しみました。

これから1年間重責を担いますが、小野ガバナーのために協力してゆかねばなりません。

*実は昨年でNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が終わり講演活動なども一段落してほっとしていたのですが、ライオンズクラブキャビネットの役を頼まれ、宮崎・大分県69クラブの取りまとめや諸会議・行事の準備、議事録作制、各クラブ訪問などなどより忙しくなってしまい大変です。

「頼まれ事は、試され事」「人は頼まれるうちが花」と箴言にあるように世間様から試されていると思い頑張ります。

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 野村太郎兵衛祐勝

2015-07-12 07:33:49 | Weblog

野村太郎兵衛は黒田節のモデル母里太兵衛の弟で、先祖に仇討で有名な曽我兄弟が居ます。

秀吉の島津征伐の後の国割で、伊予転封に逆らった城井領主宇都宮鎮房を秀吉の命で中津城で誅殺した時、長政の一声「太郎兵衛肴を」の合図のもと三宝を投げつけて鎮房に切りつけたことで知られています。

勇猛果敢な黒田軍の中でも高名数知れず、小牧長久手の戦、豊前宇留津城攻め、薩摩の財部城攻め、朝鮮役の幾多の戦などで大暴れし功名を挙げた。

朝鮮出兵の後、病を得た太郎兵衛は慶長二年(1597)中津の地で38年の生涯を終えた。

中津市寺町の円応寺にその墓があります。

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 黒田美作一成

2015-07-07 07:40:34 | Weblog

黒田官兵衛を語る時に、その命運を分けた有岡城の牢に幽閉された一時期の苦難を忘れてはならない。

有岡城主荒木村重が信長に反旗を翻したのを、説得に入った官兵衛はそのまま劣悪な牢に丸一年ほど幽閉された。

その時の牢番が一成の父加藤重徳であり、生死の境を彷徨っていた官兵衛を陰ながら労わった。

「もしわしが生き伸びたらそなたの子を預かり我が子同然に育てたい」と官兵衛は感謝の意味を込めて申し出た。

有岡城が落城し、九死に一生を得たものの、歩くのもままならぬほど衰弱して生還した官兵衛は約束どうり加藤重徳の子玉松丸を預かる。

それが後に黒田の名を与えられた黒田三左衛門(美作)一成である。

数々の戦で高名数知れず、城井攻め、朝鮮役、関ヶ原の合戦など黒田軍に黒田三左衛門一成あり!とその名が轟いた。

黒田家が筑前52万石の大名となった時、黒田三左衛門は三奈木黒田家(福岡県朝倉市)1万6千石を賜り、幕末まで高碌で仕えた。

荒武者の印象が強いが、一成は花鳥風月を愛し、和歌を詠み絵を描く文化人としても才能豊かな武将であった。

黒田二十四騎のうちでも猛将と称された黒田八虎に選ばれており、最も長命を得て、明暦二年(1656)86歳の生涯を福岡の地で終えた。

*この程当ブログが閲覧190万PV,訪問者43万IPを越えました。これも偏に日々応援してくださっている皆様のお陰と感謝しています。正統な黒田武士の研究をモットーにこれからも頑張ります。宜しくお願いいたします。

 

 

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)異聞 おんせん県おおいたデスティネーションキャンペーン

2015-07-03 07:54:18 | Weblog

この程7月1日から始まる、大分県が「おんせん県おおいた」を全国にPRする「デスティネーションキャンペーン」に豊前国中津黒田武士顕彰会が中津市を代表して選ばれ、訪れる観光客の皆さんへおもてなししましょうと一肌脱ぎました。

その記事が大分合同新聞に、観光客の皆さんへガイド役を引き受けた中尾企画部長の官兵衛甲冑を纏った凛々しい姿が、大きく載りました。

取材は数日前でしたが、顕彰会の有志も駆けつけ記者さんを巻き込んでの楽しいひと時を過ごしましたが、顕彰会の皆さんの官兵衛に対する造詣の深さ、愛情の深さにびっくりしていました。。

笑顔もバッチリ決まって「これは官兵衛殿!!」と観光客の皆さんからの掛け声も飛び交う中、中尾官兵衛は颯爽と中津城のお濠端を歩いて行くのでした。

 

 

 

 

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