NPO法人鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会よりお城だより7月号が届きました。黒田候を始めとする黒田武士の顕彰、福岡城に天守閣を復元、また各地の黒田武士に関する史跡訪問といった素晴らしい活動をされています。福岡城跡は石垣のみを残すばかりでやはり天守閣が欲しいところです。会員の方々が福岡の歴史遺産を後世に残そうと頑張っておられますので全国の黒田武士フアンの皆さんのご協力をお願いいたします。中津黒田武士の会も会員になっています。
中津大津絵音頭の楽譜です。中津大津絵音頭は江戸時代近江の国大津宿(西国の大名が参勤交代の折、必ず大津の宿に泊まった)でお土産に売られていた戯画(大津絵)の画題を綴り合わせて作った歌詞に節をつけたのが大津絵節と称する三味線歌曲で、各地で祝い唄、座興唄等おびただしい数の替唄が作られ地方民謡になったものもある。中津では地域の方々が初盆の家々を廻りその庭先で供養踊りをし、踊り子達は両手に抱えきれないくらいのお菓子をもらって帰るのが楽しみだったそうです。日本一長い民謡で口説きの出来る方が徐々に少なくなっているそうです。姫路の地で興されるとは黒田公も草葉の陰で苦笑いしているかも、、、、。
播州黒田武士顕彰会の神沢さんから神戸新聞の記事を送ってきた。その中の写真には中津市に伝わる中津大津絵音頭を姫路の方々が練習されている風景が大きく載っていた。遠く播州姫路の地で中津の踊りが姫路の方々によって大々的に踊られているとは何と嬉しいことではないか。三味線は神沢さんの奥様の社中が、歌は新福さんが、、、と。お城祭りが楽しみです。この中津大津絵音頭は歌詞にあるように時は天正夏の頃に姫路から中津へ来られた黒田候が扇のお城を築いたとき、姫路から一緒に来た大工左官、石工へのねぎらいとともに完成したお祝い、そして工事中不慮の事故で犠牲となられた人々の霊を慰めようと盆踊りとして供養したのが今に伝わっているようです。これからも中津と姫路で末永く踊り伝えていって欲しいものです。
姫路お城まつりに播州黒田武士顕彰会の神沢さん作のうちわで昨日紹介した中津大津絵音頭の表面です。母里太兵衛を背景に黒田武士祝い唄の歌詞が載ってます。「朱塗りの大杯両手で受けてぐっと飲み干す男意気 酒は飲め飲め飲まねばならぬ~」なかなか勇壮な唄のようです。当日が楽しみです。
姫路の播州黒田武士顕彰会の神澤さんから姫路城お城まつりのうちわが届いた。表面に母里太兵衛の紹介、裏面はなんと中津大津絵音頭が載っている!先日中津にお見えになったとき臼田さんが中津大津絵音頭のことを紹介し一緒に踊ったら大層気に入れられて今度の姫路城お城祭りで一緒に踊ろうということになった。そして中津大津絵音頭の歌詞まで刷り込んだうちわを作ってくださったのだ。これで益々中津と姫路の絆が強く結ばれてきた気がする。神沢さんありがとう。さすがに姫路の方々は黒田武士の故郷だけあって心の広い方々が多いのでしょう。中津も見習わなくてはなりません。中津大津絵音頭の一部ですがご紹介します。
1.時は天正夏の頃 中津の城主黒田候は ハソウジャソウジャ
扇の城を築かんと 大工左官や石工をば はるばると播州姫路より
春夏秋冬としを経て 築きあげたるその祝い 犠牲者の霊をも慰めんと
ハソウジャソウジャ 踊り始めた大津絵を ハソウジャソウジャ
郷土の誇りと姫路町 ハヨイトサッサ 伝え伝えて今もなお
のちのコリャサ世までも名を残す ハヨイトサッサ
これが二番三番と続いている。なんでも日本一長い民謡だとか。姫路のお城祭りが楽しみです。
1.時は天正夏の頃 中津の城主黒田候は ハソウジャソウジャ
扇の城を築かんと 大工左官や石工をば はるばると播州姫路より
春夏秋冬としを経て 築きあげたるその祝い 犠牲者の霊をも慰めんと
ハソウジャソウジャ 踊り始めた大津絵を ハソウジャソウジャ
郷土の誇りと姫路町 ハヨイトサッサ 伝え伝えて今もなお
のちのコリャサ世までも名を残す ハヨイトサッサ
これが二番三番と続いている。なんでも日本一長い民謡だとか。姫路のお城祭りが楽しみです。
藤香会の中島副会長さんより藤香会だよりが届きました。8月4日崇福寺にて築城400年祭、黒田長政公385年忌が催されるのでぜひおいでくださいとのお誘いだったが姫路のお城祭りとダブったので残念ながら行けない。中津より盛会を祈念するばかりだ。また、その中で福岡桜ライオンズクラブが如水公のブロンズ像を寄贈した記事がありました。福岡の人々が黒田公を愛してやまないその熱意に頭が下がります。福岡は勿論、姫路も市を挙げて黒田候を顕彰しお城祭りを盛り上げ、JC始め多くの団体も催しに参加されている。中津はまだまだ豊臣秀吉、徳川家康に優るとも劣らない戦国時代の英傑黒田公の偉大さが市民の方々に認知されていないのに歯がゆい思いがする。中津黒田武士の会としては今後も大いに顕彰していかねばならない。
三本の矢の誓いで有名な毛利元就の次男元春は吉川家に養子に行きました。元春が年頃になったので周りの者は嫁の心配をした。「まだその気はないがどうしてもというなら熊谷信直の娘を」と言う。信直の娘は世間に聞こえた醜女(しこめ)。「熊谷信直の娘は醜いことは知っている。誰も娶ろうとしないし信直の嘆きも目に見える様だ。私が娶れば信直は喜び私の為に死力を尽くしてくれるだろう。信直は勇敢な侍大将、先陣となればどんな強敵でも打ち破ることが出来る。私は美女を妻にして女色にふけるつもりはない。これは父上への孝養でもある。」それ以来信直は元春の忠実な家臣となり、命を惜しまずに戦場で大暴れし数多くの手柄を立てた。元春は如水の心を許した数少ない親友の一人でもあり、小早川隆景と「両川」と称され戦国時代にその名を残した武将である。組織の長たる者、志の高き者は美女を妻に迎える事よりもっと大事なことがあると、、、、?そういえばソクラテスやチャイコフスキーの妻は鬼のような悪妻だったとか、、、、。恥ずかしながら我妻は観音様の生まれ変わりのような、、、、ので、小生はおとなしく身を低くし生きているので歴史に残るような仕事が適わないでいるのかも、、、。ごほん・・・。
信長は蒲生氏郷の非凡さを見込んで末娘冬姫を妻に与えた。会津九十二万石の領主のとき文禄の役に出兵したが名護屋城下で発病し京都で逝去。秀吉は美人のほまれ高い未亡人冬姫を側室に望んだが拒絶された。蒲生家は宇都宮十八万石に減封。秀吉の嫌がらせだった。これも戦国時代に翻弄されたひとつの運命である。
肥前名護屋城跡には名護屋城博物館があります。肥前名護屋城図屏風(写真)には当時の城郭が描かれていてその大きさ立派さに驚かされます。絶頂期の太閤秀吉の命で黒田如水の縄張り(設計)により全国の大名(特に西国)に工事の分担をさせ築城させた城郭建築の最高傑作とも言える城です。中央最上段の本丸を二の丸、三の丸等が取り囲み城下町には10万人を超える人々が住んでいました。まだまだ名護屋城のすごさが認識されていないのが残念です。佐賀県には吉野ヶ里遺跡がありますが、この名護屋城はそれに優るとも劣らない価値ある遺跡です。おおいにアピールして欲しいところです。
当時大阪城と並び称された名護屋城であるが、その雄壮な城構えは五層七重の天守閣や櫓、書院、数奇屋などが聳えその中心より3キロの範囲に130ヶ所の大名陣跡があった。徳川家康、黒田長政、福島正則、前田利家、加藤清正、上杉景勝、毛利秀頼、島津義弘、伊達政宗、鍋島直茂ら戦国時代を代表する錚々たる武将達の陣屋である。日本中の大名がこの地に陣所を設け文禄・慶長の役でここから何十万の武装した兵士達が朝鮮に渡った。