後藤又兵衛屋敷跡と井戸跡

2009-07-31 18:50:26 | Weblog
戦国時代の豪傑黒田藩士後藤又兵衛の中津時代の屋敷跡と井戸跡を我々豊前国中津黒田武士顕彰会の会員で100年以上続く高橋印刷三代目高橋社長(初代は明治維新のころ福沢諭吉の招き(福沢諭吉は郷里中津から有望な若者を東京に呼んで大いに学ばせた)で東京の印刷局に勤務、伊藤博文はじめ明治の錚々たる要人や政治家の御用達として名刺等を製作、博文から揮毫してもらった掛軸、名刺や版が残っている・・・余談ですが)に案内してもらいました。彼の家はその屋敷跡の並びにあり子供の頃その付近でよく遊んだとのこと。この地域の古老の話では後藤又兵衛屋敷跡は昔から言い伝えられていることだそうで、この地域では後藤又兵衛の屋敷跡だと聞いていると多くの方々が言っています。井戸跡はその屋敷跡に棲まれている堤さんと高橋印刷社長の記憶によりお二人が指差しているところにあったとのことです。この写真の奥あたり広大な土地すべてが又兵衛の屋敷跡であったということですが、中津城の南側、片端町にありますので中津に来られた時は是非お訪ねください。
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後藤又兵衛の墓

2009-07-25 10:23:19 | Weblog
中津市伊福に後藤又兵衛の墓(と言い伝えられている)があります。先の松平定知さんの著書のあとがきに「歴史には事実として記されているものもあれば、風聞や伝説の類もありますが後世まで伝わっているということは事実があったかどうかが問題ではなくその人となりを伝えるのに相応しいから残ったのだと思う、、、。作家の井沢元彦氏は記録に残っていないから歴史になかったとは言えない。」と含蓄のある文章で括っています。まことにその通りだと思います。後藤又兵衛は大阪夏の陣で伊達藩との戦闘で戦死したのが史実のようですが、実は死なずに生きながらえてここ中津までたどり着き豊臣家の再興を待ったが叶わず伊福の地で亡くなったと伝えられています。伊福の地には又兵衛が篭っていたといわれるお洞も残っており、中津城の傍に後藤又兵衛の旧居が古老の言い伝えで残っていますが(どうもこれは真実のようです。又兵衛井戸が現存しています)歴史とはロマンでもありますので義経が海を渡って蒙古大国のチンギスハーンになった話や明智光秀が本能寺の変の後、山崎の合戦で死なずに実は天海和尚となって徳川幕府の参謀になった話も100%否定は出来ません。ただ想像することは歴史を学ぶものとして楽しいことではありますね。
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松平定知さんの著書「歴史を本当に動かした戦国武将」

2009-07-22 13:12:38 | Weblog
来月23日に姫路市で講演をされる松平定知さんの「その時歴史は動いた」の番組から思い起こされたであろう著書「歴史を本当に動かした戦国武将」を読みました。歴史の陰には必ず「ナンバー2」がいたということで黒田官兵衛、直江兼続、石田三成、本多忠勝、片倉小十郎、藤堂高虎、細川幽斎の7武将を取り上げています。いずれの武将もも己の主君を懸命に補佐し護っていったが、仕えるに足る主君にめぐり合えた者とそうでない者、その生涯には表面だけでは知りえない内面の苦悩との葛藤が窺え流石は松平定知氏ならではの括り方でありました。官兵衛フアンの方ならずともビジネスマンや部下を持つ方々には是非お読みいただきたい一冊である。
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美人編集長「あ!官兵衛」取材に来津

2009-07-19 18:30:28 | Weblog
大分市から「シティ情報おおいた」の相原編集長が何処で嗅ぎつけたかゆるキャラ「あ!官兵衛」の取材に来られました。早速小野会長の会社(株)九州機設内にてインタビューや写真撮影。中尾堅太郎企画広報委員と殿畑銅鑼焼担当委員?が親切丁寧に応対していました。う~ん、中々の美人であったものだから二人の鼻の下はいやがおうでも延びて傍から見ていても武士としての?プライドもどこかへ吹っ飛んでいるのではないかという感じでした。あ!官兵衛ストラップやステッカーそれに銅鑼焼をじゃんじゃんプレゼント。それでも途中で帰ってきた小野会長を交え「黒田官兵衛を大河ドラマへ」の大望に向かって地道に一歩ずつ前進している豊前国中津黒田武士顕彰会の活動状況や今後の思いを熱く伝えましたので黒田武士の里中津を大いに宣伝してくれ、素晴らしい記事になることでしょう。楽しみです。
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あ!官兵衛 新バージョン * 《 黒田武士検定Ⅱ解答 》

2009-07-17 12:16:35 | Weblog
当会の企画室より新「あ!官兵衛」が登場しました。あ!官兵衛公が肘掛けに肘を預け、杯を傾けています。キーホルダーとストラップの2パターンで丸と角バージョンの中々しゃれた優れものです。これからも可愛がってください。宜しくお願いします。

前回の中級編の解答です。皆さんの黒田武士度は如何だったでしょうか?

【問11】②扇城 【問12】③名護屋城 【問13】②黒田二十四騎 【問14】①黒田八虎
【問15】②有岡城 【問16】②藤の花 【問17】③松寿丸 【問18】①長浜城 【問19】②魴の糟漬け 【問20】①名刀日光一文字
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《 黒田武士検定 Ⅱ 》中級編 *6/11《 初級編解答 》

2009-07-14 10:39:37 | Weblog
黒田武士検定 中級編です。さてあなたの黒田武士度は?

【問11】黒田官兵衛(如水)が築いた中津城の別名は?
①白鷺城 ②扇城 ③鯉城

【問12】黒田官兵衛(如水)が縄張り(設計)をした城は?
①江戸城 ②姫路城 ③名護屋城

【問13】黒田武士でも特に勇猛な武士の呼称は?
①黒田十騎 ②黒田二十四騎 ③黒田四十八騎

【問14】その中でも特に強かった武士の呼称は?
①黒田八虎 ②黒田八竜 ③黒田八獅子

【問15】黒田官兵衛(如水)が荒木村重の謀反を説得に行き囚えられた城は?
①広島城 ②有岡城 ③高松城

【問16】その時、囚えられた黒田官兵衛(如水)が牢の高窓に咲くのを希望を持って待った花は?
①桜 ②藤 ③梅

【問17】黒田長政の幼名は?
①長寿丸 ②百寿丸 ③松寿丸

【問18】幼い黒田長政が信長の人質として暮した城は?
①長浜城 ②岐阜城 ③清洲城

【問19】黒田官兵衛(如水)が秀吉の命で小田原北条氏を降伏させる際に持参した物は?
①鮭の糟漬け ②魴の糟漬け ③鯛の糟漬け

【問20】その労をねぎらい黒田官兵衛(如水)が北条家から贈られた北条家の家宝は?
①名刀日光一文字 ②名刀備前長船 ③名槍日本号

*少し難しかったですか?頑張ってくださいね。解答はまた後ほど。お楽しみに。


前回6月11日初級編の問題の解答です。少し易しかったようですね。
【問1】③姫路 【問2】③万吉 【問3】③竹中半兵衛 【問4】①赤合子形兜

【問5】①中国大返し 【問6】②光姫【問7】①播州山崎 【問8】③穴太積

【問9】③長政 【10】①ドン・シメオン
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あ!官兵衛Newファミリー誕生

2009-07-12 13:47:25 | Weblog
新しく官兵衛ファミリーが誕生しましたのでご紹介します。今回の優れものは「あ!官兵衛キーホルダー」です。当会の中尾堅太郎企画広報委員が日夜仕事の合間に頭をひねりひねりして製作しました。今までのグッズも大変素晴らしいのですがより親しみやすい感じがします。新しい仲間として皆さん可愛がってくださいね。
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松平定知氏講演会 In 姫路

2009-07-07 11:05:25 | Weblog
来る8月23日(日)姫路市市民会館大ホールでNHKの名アナウンサー松平定知氏の講演会が催される。NHK放送番組「その時、歴史が動いた」は全国の歴史を学ぶ皆さんにはおなじみの素晴らしい番組でしたがそのキャスターとして長年番組に関わってこられた松平さんが「戦国最強のNO.2黒田官兵衛」と題して講演されます。「その時、歴史は動いた」のなかでは数百人の歴史上の人物が取り上げられましたが松平さんはその中で最も好きな武将が黒田官兵衛ということで今回の講演会となったようです。主催される姫路市や播磨の黒田武士顕彰会さんもなかなか味なことをなさる!勿論、豊前国黒田武士顕彰会も盟友神沢、新福両氏や播磨の黒田武士顕彰会の皆さんのために大挙押しかけ「正調中津大津絵音頭・豊前中津黒田武士の舞」にて応援する予定。世界遺産・国宝の姫路城も来年から修復工事が始まります。白鷺城の全容が見れる今年是非見ておきたいものです。全国の黒田武士フアンの皆さん8月23日(日)姫路で会いましょう!!
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中津城に天守閣はあった!

2009-07-04 18:03:40 | Weblog
先日、中津地方文化財協議会で「中津城に天守閣があったか?」という演題で九州大学名誉教授丸山雍成(やすなり)先生の講演があった。結論は中津城に天守閣があったということで会の中尾七平氏の研究とあいまってそれはまさしく揺るぎのない事実であるということを諸文献を調査されて証明された。発掘調査の結果天守閣はあった(最近の発掘調査で出土した金箔瓦は天守に用いられるものということだ)と以前の朝日新聞の記事をこのブログでも紹介したが関が原の合戦の前九州地域の豊臣方の城を攻めるに当って「如水侯本丸天守ニ御上リ、勘定奉行ヲ召レ天守ニ詰オク金銀夥敷取出サセ広間ニ積マセ、、、。」その金銀を以って近郷の農民や浪人を募集し兵士に雇ったとあるし、また井出家の「長政様御直筆書之御書」にある「天守之番衆」の名前が中津時代に当てはまること、如水の後の中津城主細川忠興(在籍は1600年~1632年)が中津城天守を小笠原忠真に贈るとした約定のこと、そして忠興が家老に当てた書状に「天守乃台ヲモ惣地形ホドニ取オロシ、、、」また、四日市村年代記に「(元和6年)9月中津城普請成就、上壇書院、数奇屋等出来、天守も修復相調、、」とあることからもはや疑うことなく天守閣はあったとの結論に到った。1627年(寛永4年)幕府の隠目付が描いた諸国探索書や貝原益軒の豊国紀行には「天守なし」と記述されてそれが今までの定説になっていましたが如水が中津城を築いたのが1587年(天正15年)。隠目付は1627年、そして貝原益軒が中津に来たのが107年後の1694年(元禄7年)ですのでその間に天守閣は取り壊されたとみるのが真実のようです。徳川幕府が一国一城令と武家諸法度を出したのが1615年(元和元年)その後各地の大名は徳川幕府に恭順を示す意味で城の天守閣を取り壊したようです(福島正則は勝手に石垣を補修したということで武家諸法度に触れたと安芸広島49万石から川中島4万石へと改易された)。中津城も中尾氏や先生の調査の結果1620年くらいまでは天守閣はあったとの結論でした。司馬遼太郎も貝原益軒の説を信じていましたが今この事実を知ったらまた違った「街道を行く・中津宇佐のみち」になっていたと思われます。
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