黒田武士干支人形 & 《 黒田武士検定 Ⅴ 》 の解答

2009-12-31 10:52:53 | Weblog
当顕彰会会員のYさんのもとへ来年の干支である虎の置物が届きました。虎君が大杯と名槍日本号持って「黒田節」を舞っている姿は可愛さとともになんとも言えない風格があるのは一針一針丁寧に縫い上げられているからでしょうか。名のある人形師の手による作品は見るものを圧倒します。さて本日をもって平成21年も終わります。月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。月日というのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり来ては去り去っては来る「年」もまた同じように旅人である。私たちも時なるものの上をただ歩んでゆく旅人のようなもの、今というはかない空間を足で後ろに蹴飛ばしながら、、、。この旅は一体何処まで続くのでしょうか。ともあれ来るべき平成22年が皆様にとって良い年となりますように祈念申し上げます。1年間、豊前国中津黒田武士顕彰会のブログをご愛読、ご支援戴きましたことに深甚なる感謝の意をお伝えし本年最後のご挨拶と致します。有難うございました。

《黒田武士検定Ⅴの解答》*12月8日出題

【問41】③圧切長谷部 【問42】②左足 【問43】①円応寺 【問44】③鉄砲 【問45】③囲碁
【問46】③上関 【問47】①如水原 【問48】①右手 【問49】③黒田光之 【問50】②貝原益軒
如何でしたか?少し難しい問いもありましたでしょうか?又次回の検定Ⅵをお楽しみに。
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黒田藩と天領

2009-12-29 15:59:19 | Weblog
歴史書で馴染みの藩と天領という呼称であるが江戸時代には藩や天領という名称は公的には存在してなかった。明治維新の廃藩置県で藩というものを無くしたと歴史教科書で習いましたので江戸時代を通してそう呼ばれていたと思いがちですがそれは明治維新のころに中国の所領を表す「藩」を借りてきたもので江戸時代には黒田藩ではなく黒田家中、その家臣を黒田筑前守家来○○、黒田惣士○○と呼ばれておりました。「天領」は明治維新後に幕府領のほとんどが朝廷の領地になったので「天領」という名がついたのです。大分県日田地方は昔徳川幕府の天領であったというのは間違いで江戸時代には「御領/幕府御領地」「公領/公儀領地」というのが正しい呼び名なのです。ちなみに幕府の御領、公領は四百六十三万石余あったそうです。我々がよく用いる「黒田藩士母里太兵衛は福島公より無理強いされた大杯の酒を一気に飲み干し~」というのも便宜上使用しているだけですが、黒田惣士母里太兵衛よりやはり黒田藩士母里太兵衛のほうが何やら強そうな感じがしますね。
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黒田官兵衛 合格団扇

2009-12-27 12:20:25 | Weblog
このほど豊前中津黒田武士顕彰会中尾企画担当より「あ!官兵衛 絶対合格団扇」が発表された。ご存知のように黒田官兵衛(如水)は生涯57度にわたる戦に全戦全勝、負け知らずであった。この団扇を持ってすれば戦国時代の名軍師黒田官兵衛(如水)公の魂が乗り移りこれから受験に望む学生さんに強い味方となるに違いない。
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豊前国中津黒田武士顕彰会 忘年会

2009-12-24 11:46:29 | Weblog
年の瀬も押し迫り我が豊前国中津黒田武士顕彰会も総勢26名で忘年会を催しました。写真は当会の小野真六会長、中津大津絵音頭保存会の川上正子会長と小野京子おみの会主宰のご三人です。川上会長と小野主宰のご一行は姫路であった松平定知氏の講演会の前夜祭と講演前のアトラクションで見事に中津大津絵音頭”時は天正夏の頃、中津の城主黒田侯は扇の城を築かんと姫路より大工、石工を連れてきて~”を披露していただきました。姫路市民の方々に深い感動を与えたのもつい昨日のような感があります。一門の島田さんにその美声で再び中津大津絵音頭を歌っていただきましたが皆さん聞きほれていました。振り返ると本年はTV,新聞、雑誌に「あ!官兵衛」がこれでもか?というくらいに取り上げられいろんな素晴らしい出合いがたくさんあり密度の濃い一年でした。「黒田官兵衛(如水)をNHK大河ドラマへ」という熱い思いと「あ!官兵衛」といういやし系の素晴らしいキャラクターゆるきゃらを天下にご披露できた賜物と深く感謝しております。それもこれも多くの黒田武士フアンの皆様のお陰です。ありがとうございました。
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黒田如水の水五訓

2009-12-18 18:57:18 | Weblog
有名な「黒田如水の水五訓」であるが出典は意外と知られていない。というより不明である。世に「如水の水五訓」として知られているが如水が常に座右の銘としていたことから後世に伝わっていったと思われる。谷沢永一氏(文芸評論家・司馬遼太郎の盟友)の「古今東西の珠玉のことば 名言の智恵・人生の智恵/PHP研究所発行」には王陽明(伝)として載っている。内容も多少の語句が違っているがほぼ同意である。中国の実践儒学者王陽明は1472年ー1529年、黒田如水は1546年ー1604年の生涯なので王陽明のほうが70数年前に生まれ活躍した陽明学の大家ゆえに如水はすでにその著書を読んでいて水五訓を知っていた可能性もある。ただ水五訓が王陽明の著書や口伝にあるならの話であるが。また日本に(如水の存命中に)陽明学がそんなに早く伝わって来たか(明治以降に陽明学と命名されそれ以前は王学と呼ばれていた)であるが、どなたかご存知の方が居れば教えを請うにやぶさかではないのですが。
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毛利元就と三本の矢の伝説

2009-12-12 14:26:41 | Weblog
黒田官兵衛(如水)が戦国時代に頭角を現す一時代前の武将毛利元就が死の間際に3人の息子を枕元に呼び有名な「3本の矢」の例えを語り、毛利家の為に息子たちの結束を促した話であるが、後世の作り話であることは意外と知らない方が多い。
父毛利元就は元亀 2年(1571年) 6月14日逝去(74歳)。
長男隆元は永禄 6年(1563年) 9月 1日逝去(40歳)。
次男元春は天正14年(1586年)11月15日逝去(56歳)。
三男隆景は慶長 2年(1597年) 6月12日逝去(64歳)。
こう見るとよくわかります。つまり毛利元就が死の間際に3人の息子を枕元へ呼び1本の矢、3本の矢の話をして見せたという時には長男隆元はその8年前に既に逝去していたのでその場に居るはずがないのです。3本の矢を束ねて「このように結束したら矢は折れない。お前たちもこのように仲たがいすることなく力を合わせて毛利家を盛り立てていくのだぞ」と言い残したわけですが教訓としては良くできているので好感をもって伝承されてきたのでしょう。ただ毛利元就は長男隆元健在の折、三人の息子に十四ヶ条の書状を送り三人が結束して毛利家の安泰に務めるように諭したことからこの「三矢の訓」の伝説が生まれたとも言われています。因みに次男元春(吉川家へ養子)、三男隆景(小早川家へ養子)はいずれも素晴らしい武将で長男毛利隆元の嫡子輝元(元就の孫)をよく補佐して戦国時代の荒波を乗り越えました。
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《 黒田武士検定  Ⅴ 》  中級編 2

2009-12-08 12:53:12 | Weblog

久しぶりの黒田武士検定です。ジョージア缶10人の武将に選ばれた黒田官兵衛ですがマスコミの注目度も大いに増して来ました。黒田官兵衛(如水)公のさらなる顕彰が今こそ求められています。もっと多くの方々に黒田官兵衛(如水)という天下にその名を喧伝された凄い武将を知っていただきたいものです。

【問41】小寺家家老時代の若き官兵衛が岐阜城の信長に謁見した時に信長から与えられた物は?
①名槍日本号  ②名刀日光一文字  ③名刀圧切長谷部

【問42】黒田官兵衛が伊丹有岡城に荒木村重に幽閉された時に痛めたところは?
①左足  ②右足  ③右手

【問43】朝鮮へ渡ろうとして遭難した黒田官兵衛の次男熊之助を母上光(てる)の方が弔った中津の寺は?
①円応寺  ②心光寺  ③崇福寺

【問44】朝鮮征伐の折黒田長政が虎退治をした時に使った武器は?
①刀  ②槍  ③鉄砲

【問45】朝鮮役で秀吉の使者として石田三成達が訪ねて来た時、官兵衛が使者を待たせて怒らせる程熱中していたものは?
①将棋  ②お茶会  ③囲碁

【問46】官兵衛(如水)が中津城主の時上方の情報が3日で届く様に備えた港は備後の鞆と?
①中関  ②下関  ③上関

【問47】関が原の合戦の前、官兵衛が中津で近在の男子を集め訓練した場所は?
①如水原  ②石垣原  ③豊前原

【問48】関が原の合戦の後、殊勲甲の働きをした長政が徳川家康から感激の余りに押戴かれた手は?
①右手  ②左手  ③両手

【問49】黒田家譜(黒田家の歴史書)の編纂を命じたのは
①黒田官兵衛(如水)  ②黒田長政  ③黒田光之

【問50】黒田家譜の編纂者は?
①母里太兵衛  ②貝原益軒  ③栗山利安


さて如何でしたか?難しかったですか?解答は後日のお楽しみに。尚、今までの黒田武士検定はⅠ-6月11日。Ⅱ-7月14日。Ⅲ-8月9日。Ⅳ-10月6日。Ⅴ-本日。どうぞ再チャレンジしてみてください。

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黒田如水の後悔

2009-12-05 13:02:22 | Weblog
「死ぬときに後悔すること25/大津秀一緩和医療医著」という本を読んだ。人は死ぬ間際に後悔すること25の項目を挙げられています。1000人以上の死を見届けた終末期医療の専門家医師の目から人間の今際の生の声を聞いた事柄です。自分のやりたいことをやらなかったこと、他人に優しくしなかったこと、夢をかなえられなかったこと、自分の生きた証しを残さなかったこと等々少なからず後悔しつつ彼の岸へ旅立って行った様子がさらりと紹介されています。それは後悔しないためには如何に生くべきかという問いかけにもなっています。皆さんにもぜひ読んでいただきたい一冊です。戦国時代の名軍師、智将と謳われその名を深く歴史に刻んだ黒田官兵衛(如水)に思いを馳せる時、天の時を得ること無くついに天下を取れなかったことにたいして後悔することなくその一生を終えたりしやという思いに到る。一度も負けを知らぬ輝かしい戦歴の数々、筑前52万石の太守となった黒田家であるが果たして黒田官兵衛(如水)はその生涯を終えんとしたときに後悔の思いは無かったであろうか?さてあなたは如何お思いでしょうか?そして、今のうちに成したき事を成す準備(この25項目を一つづつ消していく?)をしておくべき、、、、かも?。
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