本日、中津市ホテルグランプラザの大分政経懇話会にてNHK大河ドラマ軍師官兵衛の時代考証をされる静岡大学名誉教授小和田哲男先生が講師に来られて2時間ほど「戦国武将の経営戦略 軍師黒田官兵衛に学ぶ」の演題でご講演をされました。
我々豊前国中津黒田武士顕彰会も有志8名でお話を聞きに参加してきました。
黒田官兵衛の生涯を淡々とお話になられましたが長い間戦国武将の研究をされているだけあって内容はとても濃く研究に裏打ちされた史実の解説は多くの文献を紐解いてきた重みのような風格を感じさせるほどでした。
官兵衛の生涯はほとんど我々が知っていることでしたが好感をもたれるそのお人柄とお話しぶりに2時間がアツという間に過ぎてゆき,鋭い質問にも気持ち良くお答えくださりもう少し詳しくお聞きしたかったほどでした。
顕彰会の皆さんと一緒に記念撮影をしていただき先生の今後のご活躍を祈念申し上げました。
中津駅で出陣式、顕彰会小野会長、中津沖代ライオンズクラブ殿畑会長、中津駅長の歓迎の挨拶のあと定刻どうり中津駅前を出発。今回も募集人員を越えて満員御礼の大人気ツアーである。
212号線を南上し途中黒田家三家老の一人栗山備後守利安(四郎右衛門)が預かり嫡子大膳(黒田騒動)が生まれた平田城(中津市耶馬溪町)そしていち早く黒田家に従属した中間氏の一つ戸城址(中津市山国町)を車窓から見学し日田ICを抜けて真っ青に晴れ渡った快晴の空の下、一路バスは肥前名護屋城祉へ向かう。
車内は一度は名護屋城祉を見ておきたいという歴史を学ぶ方々で熱気むんむんです。
顕彰会の浦橋さんによる「豊前中津の黒田武士」「軍師官兵衛」の熱唱が期待感をいよいよ逸らせる。
今回は歴史の勉強だけでなくグルメも旅の中に入っており楽しみにしている方も多い。
丁度お昼頃、呼子の海の中に浮かぶイカ料理専門店「萬坊」に着きイカの活き造りを堪能する。
大皿にはみ出すほどの大きなイカがピクピクまだ生きている状態でずら~りテーブルに並ぶ。圧巻である。一同目を輝かし思わずごっくんと唾を飲み込む音があちこちで、、、聞こえる。
細く短冊切にされた新鮮なイカを箸で二、三片すくい取りわさびを落とした刺身醤油にちょいとつけて一気に口に運ぶ。
噛むとこりこりとした歯触りのあと口の中でトローリ解けてゆくような舌触りの感触がたまりません。そのまま喉に流し込む。
う~ん たまらん!最高である。
ドイツハンブルグの旅から無事帰ってきました。世界のライオンズクラブから3万人弱の会員がこの町に参集していました。無事役員投票を終え後は観光です。
40年ぶりのハンブルグでしたが町は昔そのままの建物が立ち並んでおり、通りを歩くとそこはまるで中世にタイムスリップした錯覚に陥りすれ違う人たちの中には槍を持って今にも突き進んでゆくかの如き鉄火面を彷彿させる兵士や優雅なドレスを纏った貴族の淑女のような感じの方々もいました。(少し大げさかな?)
今回はチェコ・プラハ(モルダウ川に架かるカレル橋)、ドイツ・ハンブルグ(立ち食いソーセージの店)、オランダ・アムステルダム(ゴッホ美術館・国立博物館・クレラーミュラー美術館・アンネフランクの家)、アントワープ(フランダースの犬の舞台)、ベルギー・古都ブルージュ(愛の湖)、古都ゲント、ブリュッセル(グランプラス、小便小僧)などを訪問しました。 *写真の説明をかねて記入しました。
町並みは勿論のこと一番の興味はレンブラントの「夜警」フェルメールの「牛乳を注ぐ女」とゴッホの「糸杉」「アルルの跳ね橋」「ひまわり」「夜のカフェテラス」「自画像」の絵を鑑賞することでした。
それぞれの美術館でそれらの絵の前に立つと身震いがするほどの感動をおぼえました。それはそれらの作者や絵にまつわる物語が見るものを惹き付け胸を打つからかもしれません。
日々の仕事に追われ余裕の無い人生の中で、心の安らぎを得ることが出来たひと時でした。
この度、豊前国中津黒田武士顕彰会小野眞六会長がライオンズクラブ国際協会337B地区(大分県と宮崎県)第二副地区ガバナーに就任され、ドイツハンブルグで開催されるライオンズクラブ国際大会に出席することになりました。
殿を一人で遠い見知らぬ国へ旅立たせるのは忍びないと小生を含め顕彰会の仲間のライオンズクラブ会員十名ほどで一緒にお供をする事になりました。
ハンブルグは40年ほど前、リュックサックを背負いユースホステルに泊まりながら数ヶ月間ヨーロッパ各地を放浪した旅の途中訪れた懐かしい町です。その時味わった美味しいドイツパン、ビールやワイン、ハムやソーセージ、鰊の酢漬けや赤蕪の味が今でも忘れられません。
明日早朝の便で出発します。しばらくブログは留守にします。皆様におかれましては誠に申し訳ありませんがご容赦ください。
連載第8回目は「秀吉の天下統一と官兵衛」です。
信長の後を受けて天下統一を目指した秀吉に楯突くものがいた。それは関東の雄小田原の北条氏であった。
秀吉の上洛命令を草履取り上がりの秀吉何するものぞと名門北条氏は首を縦に振らなかった。
このことは九州の島津氏と全く同じ反応であるのが面白い。名門意識と時代を見誤る判断は斯くなるのですよと歴史は教えてくれる。
我々は結果を知っているので後の世から見れば何とでも言えるが当時の当事者から見れば名門であるがゆえに武士としての誇りにかけてもそう容易く言うことを聞くわけには行かない意地があった。
とまれ、小田原城内に一人で乗り込み諄々と世の中の流れを説き名門北條家を説得した官兵衛のお陰でここに秀吉の天下統一は成しとげられたのである。
いったいに歴史を紐解くと真に示唆に富んだ事柄が数多くあり、我々の生き方にも教えられることが多い。
しかし人間の弱さからか、今まで育ってきた環境や己の至らなさ等によりどうしても様々な欲に駆られ道を見誤ることが往々にして、 ある。
それが人生なのかもしれない。
フリーペイパーの連載7は官兵衛の隠居の話です。
余りにも知略が優れていたので秀吉に「俺が今死んだら次に天下を治めるのは官兵衛であろう」と警戒され隠居を申し出た話が伝わっていますが、それで怯むような官兵衛であったか否か、この頃思われるのです。
一応隠居を申し出るわけですがまだまだ秀吉様は私を必要としているという自負は官兵衛自身持っていたと思います。そのくらいの矜持を持っていない方がおかしいくらいです。
しおらしく隠居して余生を静かに暮らしたいと言えば秀吉はビックリするだろうとの読みもあった。
本能寺の変で信長が討たれた報に接し水攻め中の備中高松城を目の前にして途方にくれていた秀吉に「殿、天下をお取りなさいませ」と進言したのが秀吉に警戒されはじめた、それからその事がずーと今日まで心に引っ掛かっていたことは官兵衛自身薄々感じ取っていたに違いありません。
故に隠居を申し出た一件はお互いに切れ者同士の秀吉と官兵衛の駆け引きでもあった。
官兵衛にとって、秀吉様もう少し自分を大事にしなさいよとのメッセージでもあったと思うのですが、皆様は如何お思いですか?