軍師黒田官兵衛おもてなしベンチ寄贈 

2014-07-30 07:11:06 | Weblog

先日、軍師官兵衛おもてなしベンチの贈呈式がありました。

毎日たくさんの観光客がお見えになっている中津城周辺に休憩処が無く、ちょっと一休みできるベンチが欲しいとの観光客の皆さんの声をお聞きしたので早速中津まちづくり協議会と豊前国中津黒田武士顕彰会とで黒田官兵衛おもてなしベンチを40脚贈呈しました。

顕彰会の今治木工社長松本俊昭さんが快く引き受けてくれ、立派なベンチが出来上がりました。

贈呈式には小野会長が出張でしたので代理で小生と顕彰会の皆さんとで出席し、市長にお渡ししました。

これで観光客の皆さんにゆっくり官兵衛に親しんでいただけると思います。

*このほど当ブログが 閲覧150万回、訪問者38万IP を越えました。これも当ブログを応援してくださっている皆様のお陰です。有難うございます。これからも戦国時代稀代の軍師黒田官兵衛公の顕彰に努めますので倍旧の応援よろしくお願いいたします。

 

 

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軍師黒田官兵衛検定 50問

2014-07-28 07:30:48 | Weblog

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も昨夜は有名な「中国大返し」から「天王山」で明智光秀を討ち果たし、官兵衛の智略で秀吉の天下獲りへと向かうという大好評のうちに前半が過ぎ、いよいよ後半が始まり楽しみも倍増してきました。

そこで豊前国中津黒田武士顕彰会では今まで数度にわたって公開してきました『軍師黒田官兵衛検定』を再編してみました。

比較的簡単な設問ですので皆さんに大いに楽しんでいただき、この夏の暑さを吹き飛ばしてください。

正解者には「官兵衛の赤兜ストラップ」を贈呈します。

上記顕彰会FAX0979-24-0222までどうぞ。多数の応募をお待ちしています。

 

 

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軍師黒田官兵衛と長政 長政像

2014-07-25 07:25:18 | Weblog

大河ドラマ軍師官兵衛がいよいよ人気上昇してきました。

秀吉の天下取りに、官兵衛の智略が如何に重要な役目を果たしたか、これからいよいよその歴史的偉業が、全国の皆さんに分かっていただけるのではないかと楽しみです。

さて、官兵衛ブームで各地には官兵衛に関する新資料が出現して、紙面を賑わしています。

ここに二枚の長政像があります。

長政の肖像画は左の 馬上で一の谷形兜像 が有名です。

右は 伝・長政像 ですが、どうも目元の鋭さがありません。

同じ長政でも浅野長政ではないかという方もいらっしゃいます。

館にお聞きしましたら、絵師も書かれた年代も不明とのこと。

少し問題がありそうです。

皆さんは如何お思いですか?

 

 

 

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黒田官兵衛余聞 柳原白 蓮㏌ 日田市 九兵衛茶屋 2

2014-07-23 07:57:47 | Weblog

日田市九兵衛茶屋の女将にいろいろお話をお伺いしました。

「花子とアン」では白蓮の出番は最初数場面の予定が大好評なので視聴者からもっと長く出してほしいとの要望が強くもうしばらく白蓮と竜介、伝右衛門の出番が見れそうです。

今では、炭鉱王伊藤伝右衛門(ドラマでは嘉納伝助)が柳原白蓮(葉山蓮子)のために用意した飯塚の邸宅には、すごい観光客が訪れているそうです。

別府にはつい数十年前まで、白蓮が実際に住んでいたゆかりの赤銅(あかがね)御殿がありました(当時は小生の短歌の友の所有でそこで歌会が開かれ参加した覚えがあります。すごい邸宅と広大な庭が記憶に残っています)が、後に売却の話があり、時の別府市は保存せず、貴重な遺産は取り壊され、幾つもの住宅が建ち、今では何も残っていません。

まったくもって残念でなりません。

白蓮と逃避行をした宮崎竜介(ドラマでは宮本竜一)は父宮崎滔天と共に、1937(昭和12年)盧溝橋事件で険悪になった日中関係を戦争回避のために近衛内閣から蒋介石への密使として渡海しようとしたところを陸軍から阻止された。

孫文たちの辛亥革命を支援し、1956(S31年)孫文生誕90周年には父滔天の遺族として、竜介、白蓮は毛沢東、周恩来と臨席、日中間の友好に尽くし、中国より「井戸を掘った人・(最初に尽力してくれた人)」として5年ごとに招かれ、国賓の扱いを受ける。

中国の周恩来元首相などと一緒に写真に写っているものがありました。

そんな物語は今後のドラマに出てくるのでしょうか?

楽しみです。

また、こんなに波乱万丈な面白い物語は柳原白蓮物語としてNHK大河ドラマ『憂愁の白蓮』などとして制作して頂くと、高視聴率間違いないのではないかと思うのは私一人ではないでしょう。

NHKさんもあまりの好評なのでびっくりしているのではないでしょうか。

 

 

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黒田官兵衛余聞 柳原白蓮 ㏌ 日田市

2014-07-21 08:32:35 | Weblog

日田市中央公民館での講演を終えて、今、NHK朝ドラの「花子とアン」で話題の柳原白蓮ゆかりのお店があるというので訪ねました。

市内高瀬にある「九兵衛茶屋」です。

柳原白蓮や宮崎竜介、そして伊藤伝右衛門ゆかりのものが店内のいたるところに展示されていて、壮観です。

白蓮と竜介の逃避行の新聞記事や短歌の掛軸、手紙、昔の白蓮ゆかりの別府赤銅(あかがね)御殿の写真など、たくさんありますが著作権の関係ですべてをここに紹介することができません。

白蓮さんの写真を見ていると、その気品ある憂いを含んだ姿にしばし魅入られてしまうほど魅力的な面持ちでした。

ここ「九兵衛茶屋」のすごさは日田市の皆さんも知っている方があまりいらっしゃらないようで、残念でなりません。

一度お訪ねになることをお勧めします。

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黒田官兵衛 と 天領日田、 日隈城主 毛利高政 と 官兵衛の魅力講演会

2014-07-19 08:07:47 | Weblog

 

 

 

 

大分県日田市中央公民館に招かれ、「黒田官兵衛の魅力」の演題でお話してきました。

会場は日田市の中心部にある大きな公民館でたくさんの市民の方々がお見えになっていました。

入り口の大きな看板の「~先生講演会」を見てびっくりしました。

記念に写真を撮りましたが、お尻のほうがむずむずして居心地は良くありません。照れますね。

日田は小京都として、また天領として有名です。

本能寺の変の時です。

備中高松城を水攻めしていた時、本能寺で織田信長が光秀の謀反で横死、すぐさま官兵衛の知略で秀吉と毛利家は和睦し、お互い人質を交換します。

秀吉側からの人質に出されたのが、後に日田・日隈城主となった若き日の毛利高政でした。

毛利高政は旧姓は森高政でしたが、人質になって過ごした毛利家当主輝元に可愛がられ、森と毛利が呼び方が似ていることもあって毛利の名を与えら、毛利高政となったという経緯があります。

黒田官兵衛が別府石垣原で大友を破った後、別動隊を西軍の豊後森の角牟礼城そして日田の日隈城を攻めましたが、その時の城主が毛利高政だったのです。

日田市も官兵衛にゆかりのある街なのですが日田の方も知っている方は多くないようです。

 

 

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黒田官兵衛と後藤又兵衛

2014-07-17 07:28:48 | Weblog

豪傑後藤又兵衛は官兵衛にとても可愛がられ、長政と兄弟のように育てられました。

しかし、官兵衛亡き後、筑前福岡52万石の藩主として領国経営をすすめる長政と臣下である大隈城代の又兵衛には大きな溝ができました。

筑前福岡藩黒田家と隣接する豊前国に入封した細川忠興とは転封時の軋轢(米問題)で仲が悪くなっていました。

その豊前細川藩の者と行き来したことを咎められたことで又兵衛は長政に叱責を受けます。

もう立場は、兄弟として育った昔の長政と又兵衛ではありません。

又兵衛は豪傑ゆえにあらぬ疑いを受けたことで黒田藩を出奔した。

黒田藩の全てを知り尽くしている又兵衛が他家へ仕えることにとても危惧した長政は非常事態をとります。

最初に豊前国に入るが、長政が幕府に要請した「奉公構え」令により、豊前国に居られぬようになるとその後各地を流浪することとなった。

後年、豊臣家の招きで大坂城に入り、夏の陣では負け戦と知りつつ堂々と戦い、戦死します。

この新聞記事は、又兵衛が福岡藩を出奔したあと、豊前国行橋(福岡県)に潜伏したのではないかとの史実を解き明かしています。

又兵衛伝説は各地にありますが、大河ドラマのおかげで、新発見があるのは喜ばしいことですね。

 

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黒田官兵衛と中津西蓮寺

2014-07-14 07:34:43 | Weblog

この度、大分県法人倫理女性会のお招きでお話ししてきました。

場所は中津市西蓮寺です。

寺の由縁には官兵衛の末弟市衛門が父小寺職隆(もとたか)を弔うために、建立したとあります。

官兵衛の系図には出てきませんが、住職は歴代黒田姓で二十数代続いて寺を守ってきたのです。

今回も浦橋さんの歌と中尾さん、向野さんの踊りが皆さんの大喝采を浴びていました。

 

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地を巡るツアー 第8弾 いざ関ヶ原へ!

2014-07-11 08:35:04 | Weblog

豊前国中津黒田武士顕彰会では関ヶ原の合戦の日に合わせて、9月15日、16日、第8弾黒田官兵衛ゆかりの地を巡るツアーを催します。

今回は信長の安土城祉、秀吉の長浜城祉と賤ヶ岳古戦場、家康の関ヶ原古戦場と3人の天下人ゆかりの地を巡る豪華ツアーです。

今から心躍るほど楽しみなツアーです。

どこをとっても魅力あるゆかりの地です。きっと楽しい旅になることと思います。

ただ今参加の方募集中です。ご一緒しませんか?

 

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軍師黒田官兵衛の切支丹洗礼名印

2014-07-08 07:36:33 | Weblog

先日の新聞に黒田官兵衛の切支丹洗礼名印「SIMEON JOSUI」の押印された書状が発見されたとの記事が載っていました。

これまで、1通だけでしたが、3通も発見されそれも筑前福岡時代、家臣などに宛てた書状に押印されているということで歴史的にとても重要な発見ではないかと思われます。

官兵衛は秀吉の伴天連追放令のあと、表面上キリスト教は棄教したことになっていますが、最晩年まで切支丹洗礼名印を押印した書状を発送していたことに、驚いています。

何時頃からこの印を使用し始めたか不明ですが、天正11年(1583)38才のときに高山右近の勧めで受洗したといわれていますが、棄教しなかったのは晩年の秀吉には石田三成などが取り入ったことに対する反発心もあったのではないかと思います。

秀吉が亡くなり徳川幕府の世となりますが、二代将軍秀忠の切支丹禁止令の発令前だったのでまだ使用されてもお咎めが無かったのでしょう。

 

 

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