閑話休題 能楽堂

2007-09-29 21:33:06 | Weblog
今日は東京の宝生能楽堂に出演しました。一生一度の晴れ姿です。演題は「班女」、ワキを務めさせていただきましたがとても緊張しました。

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伊達政宗

2007-09-28 12:45:08 | Weblog
関ヶ原の合戦より10年前、秀吉の小田原攻めの加勢を命じられた時、近隣の大名に相談したりして遅参した政宗に秀吉は怒り収まらず会おうとしなかった。初め藩内の宿老達は秀吉と戦うべきと言い張ったが、参謀片倉小十郎の進言に従い参候することになった。政宗は髪をかぶろにし、白麻の陣羽織を甲冑の上に着、一見死装束のいでたち、参謀片倉の計らいでかろうじて首がつながった。奥州の覇者となった政宗であるが宿老会議のまま秀吉と戦っていれば伊達家のその後は無かった。その場の空気、天下の情勢を読めるか否かの一瞬の決断で家も家臣の運命も決まった。組織の長は戦国時代のみならず今の世においても黒田如水や片倉小十郎、山本勘助、竹中半兵衛のような名参謀を傍に欲しいところだ。それには己自身がそれに見合った人格と見識を養わねばならない。

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加藤清正

2007-09-27 12:32:22 | Weblog
中津城天守閣より眺めると遥か周防灘の彼方から御船寄せに船がたどり着いた。中に乗られていたのは加藤清正公(写真)の御内室であった。関ヶ原の合戦の前、石田三成の人質要請のお触れから辛くも逃れ、大阪から幾日もかけてやっと辿りついた。お付の女性も無く家臣梶原助兵衛と大友氏の豊後の浜を避けて豊前中津の濱に着いたという。如水の家臣梶原八郎大夫が助兵衛の義兄に当たりそれを頼ってきたとの事。如水は早速衣類、寝衣を調え召使をつけて熊本の加藤清正公まで無事に送り届けた。中津城天守閣より見下ろせば御船寄りがすぐそばに見える。今から407年前、如水、長政の御内室を栗山備後守と母里太兵衛が同じく大阪より三成のお触れをかいくぐってきた同じ豊前中津の濱に清正の御内室もたどり着いたことに、歴史の面白さを感じる。もし皆さんが中津城の天守に登られ遥か周防灘を望むことがあったら、眼下に見える御船寄り(丁度昨日のブログの写真にある海よりの橋の右岸手前辺り)にそんなドラマがあったことを思い出していただければと思う。

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嗚呼中津城3

2007-09-26 10:54:03 | Weblog
中津城の天守台に登り、遥かに周防灘を望む。中津城に天守閣が有ったか無かったか定かではない。貝原益軒の「豊国紀行」には天守無しとあるが、黒田家の歴史書「黒田家譜」には関が原の合戦前、黒田如水がそれまで蓄えていた財貨を天守より持ち出し大広間にひろげ近隣の男子を集め傭兵のためにの費用として配った旨が記されている。どうも天守閣はあったようだ。そうすれば、如水は中津城の天守閣に登り遥か周防灘の彼方から来る天下騒乱の知らせを伝える早船を今か今かと待ちわびていたことになる。太閤亡き後、歴史の表舞台に躍り出ようとした如水がどんな気持ちでその知らせを待っていたかその胸の内や如何に。
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白鳥の槍

2007-09-25 10:48:38 | Weblog
中津城の旧城主奥平家は徳川家の親戚筋に当たるのでそれだけ歴史上貴重な遺品がある。その中でも白鳥の槍は徳川家康の娘亀姫が家康から直々贈られたという奥平家の家宝に当たる業物です。参勤交代の折、この槍を先頭にしていくと天下御免の威力があったそうです。ただ中津市民の方々も余りそのことはご存じない方が多いのは残念に思えます。奥平家は蘭学の殿様として江戸時代末期の日本が文明開化に向けて走り始めたとき、時代を先取りした偉大な泰斗でもあります。今、一市民として歴史の守をしていただいている奥平家を中津市の宝としてより敬い大切に見守っていって欲しいと思うものです。(写真上段が天下御免の白鳥の槍)
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嗚呼中津城 2

2007-09-24 11:23:09 | Weblog
中津城へ入城した。入り口からすぐ奥平家歴代藩主の甲冑や武具が並んで陳列されている。この中には蘭学の開明に功績のあった藩主のものもあり歴史上貴重な品々である。これらはやはり公的な保存が相応しい。個人が所蔵するには限界があることは日本三名槍(母里太兵衛の呑み取り日本号、本多平八郎の蜻蛉切りの槍、結城松平家のお手杵の槍)の一つでもある「お手杵の槍」が先の戦争で塵灰となった例からも言える。なにはともあれ多くの中津市民が後押ししないと市のほうも動けないだろう。どうにかお互いが歩み寄ってよい解決策を見出して欲しいものだ。
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嗚呼中津城

2007-09-23 11:24:47 | Weblog
中津城が売りに出されたニュースが全国に流れ、近年にない大きな話題となっている。先日宮崎に出張の折読んだ地元の新聞にも大きく取り上げられていた。そこで、気になるところとなり早速中津城へ登城と相成った。澄み切った秋空の下、聳え立つ中津城の天守閣は心なしか少し寂しそうであった。中津城は中津のシンボルであり心の拠り所であるといっても過言ではあるまい。故郷を遠く離れた人々が汽車の窓からこの城が見えるとなぜかほっとして「中津に帰って来たんだなー」という思いに浸るのである。どうか中津市との話が上手く折り合って欲しいと念ずるのは私だけではなく多くの市民の切なる思いであろう。
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大河ドラマへ

2007-09-22 15:07:47 | Weblog
今月号の会議所ニュースに小野会長が「好きなところ」というコラムに「黒田官兵衛をNHK大河ドラマに」と熱い思いを述べられた記事が載っていました。黒田官兵衛、長政、黒田武士、黒田24騎、母里太兵衛、後藤又兵衛等の名は日本中に知らぬ人なく、また小田原城開城、文禄・慶長の役、名護屋城、関が原の合戦は教科書にも載っている有名な史実です。それがみな中津の時代の出来事でここ中津から兵は続々と出立して行ったのです。中津市民の方にもっと関心を持って欲しいと思うのですが、もし官兵衛が大河ドラマになったならば中津はとんでもない宣伝になります。今から黒田如水を始めとする黒田武士の歴史を中津の人は誰でも観光客や遠くの知人友人に語られるほどに学んで戴き、この運動を応援して欲しいと思います。黒田武士の生誕地播州姫路、大藩となった筑前福岡と協力しNHK大河ドラマに黒田如水が取り上げられ、その雄姿が画面に踊る日を一日千秋の思いで待ち続けたいと思っています。
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秀吉の家臣

2007-09-21 08:06:48 | Weblog
秀吉は家臣が自分の下を離れ他家に仕えたいというのを許した。また、他家の居心地が良くなく再度戻りたいと思ったら遠慮なく戻れといい、元の石高で召し抱えた。秀吉の器量の大きさと自信のなせるところで、家臣も恩を感じよく尽くした。

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秀吉と家康の宝物

2007-09-20 14:31:59 | Weblog
天下を統一した秀吉はある日家康に自分が集めた宝物を自慢して見せた。そして家康に向かって「家康殿の宝は何かな?」と問うと「私は宝物を何も持ってはいません。しかし私の宝物は私の家臣すべてです」と言い切った。さすがの秀吉も苦々しく思ったが何も言えなかった。家康の家臣は世間が認めるほどの優秀な部下達であった。それをはっきりと言うあたりに家康の大将としての器量の大きさがわかると言うものだ。皆さんの会社でも社員が宝だといえる組織を作り上げるのがトップの仕事でもあります。これが歴史に学ぶということではないでしょうか。

コメント (2)
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