新説 九州の関が原

2008-07-31 19:47:49 | Weblog
小学館から「新説 九州の関が原」が出ました。新説と言ってもすでに旧聞に属することばかりで新鮮味はないのですが、表紙には如水と中津城が堂々と載っています。嬉しい限りです。関が原の合戦が今まさに起きようとしているとき九州は豊前中津の地で中津城にいた黒田如水は早船で上方の風雲急を告げたる様を知った。黒田軍の主力部隊六千余は長政と共に家康軍と上杉征伐に向かっていて中津には幾許も兵は残っていなかった。が、しかし黒田如水の天才たる智謀は生涯を懸けた行動に出る。今まで蓄えた金銭を城内の大広間に積み上げ領内の男子に分け与え俄兵士として徴集した。その数三千有余人。九州の豊臣方の城を征伐しようとして国東から別府へ向かい、石垣原にて大友氏を撃破。後、合戦を重ね北九州から筑後、佐賀、久留米と向かうところ敵なしの快進撃であった。あと残すところ鹿児島の島津家のみとなったところ家康から停戦命令が届く。関が原の合戦がもう2~3ヶ月かかると踏んでいたのだが皮肉にも息子長政の大殊勲の働きによりそれは1日で終わる。如水は九州を征伐した後中国地方から攻め上がり血縁縁者の多い播磨で兵力を増し関が原の勝者と天下分け目の合戦をするつもりであった。そんな野望を持っていたのだ。1日で終わったと知ったときの如水の無念さは如何ばかりであったろうか。この本は如水が生涯で最も生き生きと歴史の中で躍動していた時代を余すところなく記している。黒田如水フアンとして必読の一冊である。是非多くの方々に読んで欲しいと思うものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田如水による小田原城開城

2008-07-27 12:08:50 | Weblog
かねてからの懸案であります小田原城の開城の際に如水が鱧を贈ったことに対して多くの歴史学者先生の説が幾つかあるようですので真実のところを知るべく小生も首を突っ込んでみたいと思います。戦国時代の末期、九州征伐を終えた秀吉は天下統一まで残すところ小田原城の北条氏のみとなった。秀吉は20万を超す大軍にて小田原城を囲み、配下の子飼い武将に城攻めを命じるも中々城は落ちず焦っても居た(軍内には呼び寄せた家族を始め芝居小屋や遊女といったおよそ戦たらざる態のーある面余裕の小田原攻めであったが、時間がかかりすぎても居た)。有る時、徳川家康に相談するも諸都合(家康と北条は姻戚関係/家康の二女督姫は北条家当主氏直の正室、また家康は秀吉と小田原城落城後は北条氏の領土を徳川のものとすると約束ができていた)により断られる。仕方なしに秀吉は如水に相談するといともたやすく如水は小田原城を開城させたのだ。その様子が「武徳編年集成/徳川家康の伝記」に載っている。如水は北条氏の籠城の誉れを讃えるために良酒2樽と糟漬けの鱧10尾を贈ったとある。その鱧であるが本文では多少読みずらく崩し字のようでもあり「魴」とも読める。鱧か魴かちなみに魴は魴鮄(ほうぼう)のことであれば「カサゴ目の海魚食用にして美味、日本各地の沿岸の砂泥底に分布し、殿様が愛でた魚「君魚」とも呼ばれる、味は淡白で鯛にも匹敵する旨い白身魚」とある。安藤英男先生の「史伝 黒田如水」の1987年版には魴と載っていたが2001年版には鱧と訂正されている。小和田哲男先生の最新の本には魴となっている。その歴史的な背景を考察せねばならないが(例えばその当時よく食されていたのか,
又は贈答に相応しい魚という意味があったのかにもより鱧か魴鮄かが分かるというものだが)書体から言えば魴に近い。今後の研究を待たれるところだ。さてこのブログを読まれている貴方は何とお読みになるでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中津城復元の行程

2008-07-21 10:31:23 | Weblog
中津城復元の行程が詳しく載っています。今まで謎の多かった中津城ですが発掘調査の結果色々な新しいことが分ってきました。まだ完全に調査完了までは行ってないようですが貴重な文化財として末永く大切にして市民の宝として保存していかなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中津城発掘調査

2008-07-19 15:45:57 | Weblog
今日は南部公民館で中津の歴史を語る会があり聴講してきました。題目は「中津城発掘調査の報告」で教育委員会の方が講師でした。1時間30分にわたって発掘調査のことを詳しく説明されていました。黒田如水が築いた頃のことや九州最古の石垣、金箔瓦、桐の紋入りの瓦が出土したこと、お囲山(城を含む町全体を土手で囲んだもの)がどうも黒田の時代に作られたのではないかということなど新発見の数々を熱っぽく語られていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中津城石垣

2008-07-16 10:57:15 | Weblog
中津城石垣の復元工事の記事が大分合同新聞に載っていましたのでご紹介します。何年もかけて慎重に修復・復元された様が詳細に記述されています。如水が築いた石垣の上に細川忠興が増築した様子がこの発掘調査で明らかにされました。又、九州最古で穴太積の貴重な石垣であるということも判明されました。中津には凄い歴史的遺産が残っているのですね。後世まで大切に保存しなくてはなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中津城石垣修復

2008-07-11 11:10:00 | Weblog
今月号の「タウンマガジン中津」に中津城南側の石垣の修復・復元をした教育委員会の話が載っていた。石垣の石を一個ずつ取り外して調査しまたもとのように積み上げたのだ。そのときお堀も綺麗に修復し満々と水を湛えるようになった。これなら見学に来られた人にも満足感を与えるのではないでしょうか。ついでに以前から有る北側の天守閣の姿を映すお堀にも常に豊かな水を湛えてほしいものだ。川にしろ水路にしろ手を浸したくなるような澄んだ清らかな水が流れているさまは見る者にとってこの上なく心が安らぐ。古来より人は綺麗なもの、清潔で美しいものに心癒されるものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田サミットin姫路

2008-07-07 12:38:28 | Weblog
来月の3日、姫路にて黒田サミットが催される。姫路のお城祭りに際して黒田武士に所縁のある町の方々が集まり黒田武士をPRし盛り上げていこうという趣旨だ。姫路は黒田で熱く燃えています。黒田武士の館・神沢館長さん、美声で観客をとりこにする新福さんを始め播州姫路の黒田武士顕彰会の皆さん頑張ってください。全国の黒田武士のフアンの皆さん、8月には是非姫路へおいでください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田如水大名となる

2008-07-03 18:04:52 | Weblog
今日7月3日は黒田如水が初めて大名になった日である。天正15年(1587年)7月3日、赤間ヶ関(下関市)で行った秀吉の九州(島津)征伐の論功行賞により黒田如水は豊前6郡12万3千石を賜った。秀吉からの朱印状には
京都(みやこ/福岡県苅田町、勝山町、行橋北部)郡、
築城(ついき/福岡県築上郡築城町、椎田町、豊前市角田町)郡、
仲津(なかつ/福岡県京都郡犀川町、豊津町、行橋市南部)郡、
上毛(こうげ/福岡県吉富町、新吉富町、大平村、豊前市)郡、
下毛(しもげ/大分県下毛郡、中津市)郡、
宇佐(うさ/大分県宇佐郡、宇佐市)郡
・・・いずれも分かり易い様に旧町村名にて表記・・・の6郡であるが豊前1国にはあと2郡ある。また宇佐郡のうち大友氏の旧領は除かれた。九州征伐の前に秀吉は如水に1国を与えると約束していた。けれども備中松城の水攻め、中国大返しによる光秀との山崎の合戦、中国征伐、四国征伐、そして九州征伐と秀吉の天下取りの為に勲1等の働きをした如水であるが、その智謀を恐れた秀吉は大国を与えなかった。しかしそのお陰で天下の名軍師黒田如水が初めて大名となりこの中津の地に入部し中津が城下町として発展した礎となったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中津城の石垣解説板 4

2008-07-01 11:37:39 | Weblog
中津城の石垣が補修復元され4基の説明板が新しく設置されましたが、そのうちの4枚目の板です。丁度細川忠興公が築かれた三斎池の前方の石垣前にあります。黒田如水公が築城した前後のことが詳しく解説されています。中津城南側の石垣と満々と水を湛えたお堀が復元され優美な姿を見せている中津城を皆様是非一度お訪ねになってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする