5月22日(日)中津城内にある城井(きい)神社の例祭に豊前国中津黒田武士顕彰会より6名が参列しました。この日は旧暦4月20日にあたり宇都宮(城井)鎮房公の命日(天正16年/1588年中津城で黒田長政に討たれる)にあたり御霊を祀っている城井神社に宇都宮家ゆかりのご子孫の方々が参集し毎年例祭を催しています。我々顕彰会も昨年から参列させて頂いていますが宇都宮家のご子孫の多く残っている中津市近郊では420年前のこととはいえ黒田と宇都宮は未だ修復叶わざる雰囲気があるのです。小野会長はじめ顕彰会では昨年初めてお参りさせていただきましたが雰囲気としては少しつらいものがありました。しかし黒田官兵衛(如水)公をNHK大河ドラマへと活動している上は避けて通れないことでありますので宇都宮鎮房公はじめ城内外で討たれた多くの家臣の方々の御霊に礼を尽くすことは大事なことではないかと思えるのです。
中津池永城祉を囲むように空堀の跡が残っています。落ち葉が深く降り積もり今では訪れる人も稀なようです。池永城主池永氏はこの地を治めてきた豪族の中でも最も古い一族であり有名な宇佐神宮の元宮である中津薦神社の宮司を今もって勤められています。小生とは同じ中津沖代ライオンズクラブの会員で友人である池永宮司は77代目にあたるそうです。我々豊前国中津黒田武士顕彰会は黒田官兵衛(如水)をNHK大河ドラマへと活動して歴史を調べたり、ゆかりの地を訪ねたりしていますがある時池永宮司は笑いながら俺の先祖は黒田家にやられたんぞと言っていました。中津、豊前、苅田、行橋などこの地方では多くの国人豪族はほとんど黒田家が入封してきたときの戦で滅ぼされています。420年前の事なのですがそのご子孫達の中には黒田家を良く思われていない方も多いのもむべなるかなといえます。そのことを踏まえて歴史を検証し活動してゆかねばなりません。
池永城址は今、中津市上池永地区の住宅街の小道を抜けて鬱蒼とした木々に囲まれた中に若宮神社として残っています。古色蒼然とした鳥居をくぐり抜け、落ち葉の深く積もっている境内を歩み行くとそこには簡素な社殿がありました。この地に立て篭もり強力な黒田軍と対峙したのです。
同じく中津市福島にある田丸城址は黒田軍との戦いに敗れその跡は名刹長久寺として今に伝わっています。黒田家が福岡52万石に転封していったのち中津藩主となった細川忠興は関が原の合戦の直前、石田三成の人質要請を撥ね付け細川屋敷と共に焼死した最愛の妻ガラシャ(お玉)の33回忌をこの長久寺で催しています。この地方の多くの城跡を訪ねると寺や神社となっていることが珍しくありません。
戦国時代にあって武士は功名を上げることが家名を上げることでありその為に戦略を学び体を鍛え技を磨きました。戦場での働きや手柄で俸禄や地位はどんどん上がります。ゆえに棟梁ともなれば一族郎党をまとめ家の存続に腐心し戦には必ず勝ち続け領地を増やし手柄を立てた家臣に報いねばならない。しかしひとたび戦ともなれば勝つか負けるか、負ければ斬首、切腹、または相手の軍に組み込まれ次の戦には先陣となって切り込んでゆかねばならないのです。死はいつも隣り合わせにあった。ゆえに一番乗り、一番槍や兜首を取ることが誉れとなり家名を上げ高禄を得ることにつながったのでした。とはいえ、多くの兵士達はその願いも叶わないまま戦場の露と共に散っていったのです。今この地に立てばせつない気持ちにさせられますが幾百年の時を越えて、志を得ず虚しく死んでいった数多の武士達の霊はこのように土地の人々の厚志により手厚く祀られているのを見るとなぜか心安らぐ思いがします。全国の黒田武士フアンまたは大友氏フアンの方々もし別府市へ行かれたならば古戦場公園にて線香の一本でも手向けていただければ幸甚に存じます。
別府石垣原の合戦ではかなくも命を落とした多くの戦死者を古戦場公園として地元の方々が慰霊しています。ここで黒田軍と大友軍が主家の存続を賭けて激突したのですが多くの武士や兵士達がここの川原で討ち死にし露と消えさりました。その霊たちも今となっては安らかに鎮まっているのでしょうか。後になって歴史を辿りみれば敗戦した大友軍を責めるのは簡単ですが当時の大友家棟梁の義統に思いを馳せれば朝鮮の役で没収させられた大友家のお家再興に一縷の望みを託した戦でしたし捲土重来を期したのですから止むを得ないところもあったかと思えます。ただ時局を見誤ったことにより大友家は滅んでしまったのですが大将の決断次第で繁栄もし没落もするのは現代社会にも通じることのようです。思えば文禄・慶長の役より豊臣秀吉に翻弄された大友家であった。
別府は坂道の多い町です。別府駅から山側へ上って甲状腺の治療で有名な野口病院(美智子皇后様も治療されました)を過ぎ、九大温研医療センターの傍らを境川沿いに上って行くと別府市荘園町七ッ石古戦場があり、そこから300米ほど通りをさらに上ってゆくと古戦場公園があります。石垣原の合戦で戦死された兵たちの霊を祀っています。実は七つ石古戦場跡もこの古戦場公園も小生が高校生の時、3年間通学した往還の道でした。朝は軽々と坂道を下って行ったのですが帰りは授業で疲れた体を重いかばんを抱えて坂道を登っていったのを懐かしく思い出します。(もちろんその当時は古戦場跡の説明板も古戦場公園もありませんでした。)その毎日通った道の一帯が黒田如水の天下を窺いつつ九州の豊臣方の城を攻めて行った折に大友方と戦った石垣原古戦場激戦地の跡とは当時は皆目知りませんでした。小生と黒田官兵衛(如水)公とは何か縁があるようです。稀代の軍師黒田官兵衛(如水)公の偉大さ素晴らしさを世の中の皆さんにもっと知っていただければ嬉しく存じます。