軍師黒田官兵衛ミニ講演会 in 吉富町

2013-02-27 08:55:29 | Weblog

中津市の隣町吉冨町の有志の皆さんから黒田官兵衛について話しをしてくれませんかと依頼があったので行って来ました。

吉冨町は黒田官兵衛ともゆかりがあり大河ドラマが決まって住民の方々にも興味があるところです。

大型タンカー出光丸元船長さんの浦橋英男さんに歌を、中尾英治、和才正美ご両名に舞を披露していただき無事に講演会も終了しました。皆さんとても喜んでくださったようです。

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軍師黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 8 石垣原

2013-02-25 07:45:34 | Weblog

別府石垣原の合戦は9月13日立石山から大友軍が小高い丘を下り、実相寺山から下った黒田軍と激突しほぼ一日で黒田軍の勝利で終わった。

大友軍の当主義統は9月15日黒田官兵衛(如水)に降伏した。その日は奇しくも関ヶ原で東軍が勝利し合戦が終わった日でもあった。

もちろん官兵衛はそのことは知らずに黒田軍はその後二つの隊に別れ本隊はまた国東半島の西軍安芸城と富来城を開城させ中津へ戻る。別働隊は別府から豊後森の角牟礼城(穴太積の石垣が残存)、日田の日隈城(この城にも穴太積の石垣あり)を開城させ中津で本隊と合流しそのまま小倉城攻めへへと進軍した。

黒田軍は意気高く、小倉城、佐賀城、柳川城を開城させ熊本の加藤清正と共に島津を攻めんと南下し八代、水俣付近まで来たときに家康からの停戦命令が届き中津へと帰着した。

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軍師黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 7 別府大友本陣

2013-02-21 08:24:56 | Weblog

別府立石にある大友本陣跡です。この小高い地に大友軍は本陣を敷き、対岸の加来殿山に敷いた黒田軍と対峙しました。

9月13日大友軍と黒田軍が激突したのが石垣原です。お互いに家の存続を賭した戦でした。

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軍師黒田官兵衛の足跡 in豊前国→豊後国 6 黒田本陣跡

2013-02-18 08:23:27 | Weblog

黒田軍の本隊(如水軍)は杵築城を後にして大友軍の籠る別府へと向かった。

大友軍は別府立石山に本陣を構えたので先に到着した黒田先遣隊(井上九郎右衛門隊)は角殿山に本陣を敷いた。

9月13日両軍は一気に山を下り、間に広がる石垣原で激突した。ほぼ黒田軍の勝利が決定した報告が別府へ向かっていた本隊(如水軍)に届いた。すぐに別府に着いた本隊(如水軍)は実相寺山に本陣を敷く。

大友軍の当主義統は9月15日、奇しくも関が原の合戦と同じ日に降伏し義兄弟(父宗麟の娘婿、実妹婿)の黒田家家老母里太兵衛に付き添われて官兵衛の前に頭を垂れた。後に九州の関ヶ原(黒田家譜には九州陣)と呼ばれた「石垣原の合戦」は黒田軍の井上九郎右衛門と大友軍吉弘嘉兵衛の一騎打ちなどの名勝負を残し、黒田軍の圧勝で終わり400年続いた名家大友家はここに滅んだ。

今、実相寺山には「黒田本陣跡」の石碑が建っている。

 

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軍師黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 5 杵築城祉

2013-02-15 07:52:10 | Weblog

黒田軍は急遽先遣隊(井上九郎右衛門隊)を杵築城の救援に向かわせますが官兵衛の本隊は富来城、安芸城を攻めるも城内の意気高く後回しにして杵築城に向かった。大友軍は官兵衛来る!の報を受け別府立石山に退き本陣を構えた。先に救援に向かった先遣隊は既に大友軍に攻められ本丸のみを残すだけとなっても勇敢に戦かっていた杵築城(細川家の飛び地)を間一髪で助けた。

杵築城は別府湾を望む海に突き出た小高い丘の上に建つ天然の要塞です。城跡に佇つと遥かに眼下の大海原があくまでも青く広がり水平線の上には海の色を映して晴れ渡った紺碧の空が天を覆っています。とても風光明媚なところです。

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軍師黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 4 安芸城祉

2013-02-12 08:25:47 | Weblog

黒田軍は赤根峠を越えて富来城を攻めた後、安芸城へ向かいました。安芸城跡は別府湾の海岸沿いを南下した所にあり小高い丘の上にに小さな社があり、安芸城址の石碑がひっそりと建っています。

安芸城主は石田三成の妹婿熊谷直盛です。ここも城兵の士気高く後回しにして黒田軍は大友軍に攻められていた杵築城へと兵を進めました。

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軍師黒田官兵衛の足跡n豊前國→豊後國 3 赤根峠から富来城

2013-02-09 08:43:20 | Weblog

黒田官兵衛の足跡を案内するうちに城井谷、求菩提山、中津城、宇佐時枝城、高森城、豊後高田城を過ぎいよいよ国東半島を縦断し赤根峠を越えて行き富来城にたどり着いた時はあたりはもう暗くなっていました。現在は本丸の一部が残っていました。

杵築城が大友軍に攻められている報を受け官兵衛は急遽赤根峠で兵を二つに分け、先遣隊(井上九郎右衛門)を杵築城救援に向かわせ本隊(如水軍)は三成の腹心である垣見一直の富来城を攻める。しかし城内の意気高く自軍の損傷を少なくするために戦わずそのまま海岸沿いに南下して同じく西軍で三成の妹婿熊谷直盛が城主の安芸城へと向かいました。

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黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 2 行軍跡・石垣原まで

2013-02-05 07:49:25 | Weblog

黒田官兵衛が九州中の西軍の城を席捲せんと中津を出立してからの行軍跡を鳥瞰しました。

中津城→中津如水原→宇佐時枝城→宇佐高森城→豊後高田城→あかね峠→先遣隊(→石垣原)・本隊(→国東富来城・安芸城)→杵築城→石垣原⇒本隊(→安芸城・富来城→中津を素道りして小倉城へ)・(別働隊→豊後森角牟礼城、日田日隈城)→中津(→本隊と小倉城攻めへ。)

こうして鳥瞰するとその足跡がよくわかります。仏の里で有名な国東半島の山の中を上り赤根峠に着陣していた時に杵築城(細川忠興の飛び地)より大友義統(宗麟の息子)に攻められている報を受け杵築城に向かった。黒田軍が援軍に来ることを知った大友軍は別府の立石山の本陣に退き黒田軍と対峙することになった。

1600年9月15日奇しくも関が原の合戦当日、九州の関が原と呼ばれる石垣原の合戦は大友義統(宗麟の息子)の降伏を持って400百年続いた豊後の名家大友家は滅びた。

その後、黒田軍の本隊(如水)は再び国東に戻り安芸城、富来城を降伏させ中津へ向かうもそのまま城に寄らず小倉城攻めへと向かう。また、別動隊は石垣原から豊後森の角牟礼城、日田の日隈城を開城させ中津へと向かい小倉城攻めへ合流した。

中津城へ寄らなかったのは戦の途中に里心が付き戦意が鈍るからである。軍師官兵衛(如水)の軍師たるゆえんなりと言えよう。

              

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黒田官兵衛の足跡n豊後路 1 豊後高田城祉

2013-02-03 08:40:06 | Weblog

豊前國宇佐を過ぎ国境(くにさかい)を越えると豊後の国豊後高田市に入ります。ここは仏の里で有名な国東半島の北部の付け根に当たる町で豊後高田城があります。今は「昭和の町」で有名です。

官兵衛の実弟利高に宇佐高森城を治めさせていたのは国境の守りを堅くするためだからです。豊後高田城は幼少時信長に人質に出されていた松寿丸(長政)の命を救った黒田家の恩人竹中半兵衛の従弟にあたる竹中重利の居城で、西軍に属していましたが黒田官兵衛の説得で東軍に組しました。

今、石垣の一部が残っています。

 

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黒田官兵衛の足跡n豊前国 17 宇佐・高森城祉

2013-02-01 08:06:00 | Weblog

中津・如水原から出立した黒田官兵衛軍が時枝城の次にに寄ったところが宇佐市にある高森城です。官兵衛の実弟黒田利高が城代として治めていました。広大な城祉は県道がその真ん中を通ったので城祉は二分されその面影はありませんが本丸跡はお宮となっているようです。

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