別府石垣原の合戦は9月13日立石山から大友軍が小高い丘を下り、実相寺山から下った黒田軍と激突しほぼ一日で黒田軍の勝利で終わった。
大友軍の当主義統は9月15日黒田官兵衛(如水)に降伏した。その日は奇しくも関ヶ原で東軍が勝利し合戦が終わった日でもあった。
もちろん官兵衛はそのことは知らずに黒田軍はその後二つの隊に別れ本隊はまた国東半島の西軍安芸城と富来城を開城させ中津へ戻る。別働隊は別府から豊後森の角牟礼城(穴太積の石垣が残存)、日田の日隈城(この城にも穴太積の石垣あり)を開城させ中津で本隊と合流しそのまま小倉城攻めへへと進軍した。
黒田軍は意気高く、小倉城、佐賀城、柳川城を開城させ熊本の加藤清正と共に島津を攻めんと南下し八代、水俣付近まで来たときに家康からの停戦命令が届き中津へと帰着した。
黒田軍の本隊(如水軍)は杵築城を後にして大友軍の籠る別府へと向かった。
大友軍は別府立石山に本陣を構えたので先に到着した黒田先遣隊(井上九郎右衛門隊)は角殿山に本陣を敷いた。
9月13日両軍は一気に山を下り、間に広がる石垣原で激突した。ほぼ黒田軍の勝利が決定した報告が別府へ向かっていた本隊(如水軍)に届いた。すぐに別府に着いた本隊(如水軍)は実相寺山に本陣を敷く。
大友軍の当主義統は9月15日、奇しくも関が原の合戦と同じ日に降伏し義兄弟(父宗麟の娘婿、実妹婿)の黒田家家老母里太兵衛に付き添われて官兵衛の前に頭を垂れた。後に九州の関ヶ原(黒田家譜には九州陣)と呼ばれた「石垣原の合戦」は黒田軍の井上九郎右衛門と大友軍吉弘嘉兵衛の一騎打ちなどの名勝負を残し、黒田軍の圧勝で終わり400年続いた名家大友家はここに滅んだ。
今、実相寺山には「黒田本陣跡」の石碑が建っている。
黒田官兵衛が九州中の西軍の城を席捲せんと中津を出立してからの行軍跡を鳥瞰しました。
中津城→中津如水原→宇佐時枝城→宇佐高森城→豊後高田城→あかね峠→先遣隊(→石垣原)・本隊(→国東富来城・安芸城)→杵築城→石垣原⇒本隊(→安芸城・富来城→中津を素道りして小倉城へ)・(別働隊→豊後森角牟礼城、日田日隈城)→中津(→本隊と小倉城攻めへ。)
こうして鳥瞰するとその足跡がよくわかります。仏の里で有名な国東半島の山の中を上り赤根峠に着陣していた時に杵築城(細川忠興の飛び地)より大友義統(宗麟の息子)に攻められている報を受け杵築城に向かった。黒田軍が援軍に来ることを知った大友軍は別府の立石山の本陣に退き黒田軍と対峙することになった。
1600年9月15日奇しくも関が原の合戦当日、九州の関が原と呼ばれる石垣原の合戦は大友義統(宗麟の息子)の降伏を持って400百年続いた豊後の名家大友家は滅びた。
その後、黒田軍の本隊(如水)は再び国東に戻り安芸城、富来城を降伏させ中津へ向かうもそのまま城に寄らず小倉城攻めへと向かう。また、別動隊は石垣原から豊後森の角牟礼城、日田の日隈城を開城させ中津へと向かい小倉城攻めへ合流した。
中津城へ寄らなかったのは戦の途中に里心が付き戦意が鈍るからである。軍師官兵衛(如水)の軍師たるゆえんなりと言えよう。