黒田官兵衛と黒田二十四騎~林掃部直利

2015-09-30 09:21:02 | Weblog

林掃部直利は幼名吉六、信濃国佐久郡軽井沢で生まれ、後に槍の名手としてその名を残した。

先祖は武田信玄に仕えるも長篠の合戦で敗れ伊勢神宮を頼り、伊勢国に移住したがある時たまたま姫路に寄り、そこで幼い吉六(掃部直利)は官兵衛の小姓として出仕することになった。

吉六はその才智と勇猛さで官兵衛に寵愛され、長政から弟のように育てられた。

宇留津城攻め、城井谷攻め、肥後一揆処置、文禄の役で高名。

文禄の役では長政、菅六之助が虎退治をしたのち、我もと一人その場に残って虎を待ち自慢の槍で大虎を射止めた。

長政は3頭の虎を持ち帰り、家康に虎肉を献上。

関ヶ原の合戦では「虎衝きの槍」を掲げて果敢に働く。

寛永6年(1629)福岡で戦に明け暮れた61歳の生涯を終えた。

 

 

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黒田官兵衛と黒田二十四騎~益田与助正親

2015-09-20 08:12:31 | Weblog

 

益田与助は姫路近郊の貧しい農家の九番目の子で、黒田家に借りたお米が返せなくなり、台所の水汲みとして奉公していたところ、辛抱強く寒暑に動じずに一所懸命に奉公する姿を官兵衛に見出された。

 読み書きが出来ぬのも構わず、官兵衛は下僕として戦場に連れ出すと良く働きやがて士分として取り立てられた。

文禄の役や関ヶ原の合戦で高名、三千石の鉄砲組頭となり、生涯29首討ち取る。

農家出身のため足軽にも慕われ人扱いが上手く、無学ではあるが性格は律儀で正直者、根気強く終生下僕の身の心を忘れず自分を見出してくれた殿様に心から感謝した。

慶長16年(1611)69歳で没。

官兵衛が長政に残した言葉「夏の火鉢、日照りの雨傘」。

夏の火鉢や日照りの雨傘は何の役にも立たぬ。火鉢は冬にこそ、雨傘は雨の日にこそ役立つ物だ。人それぞれの長所を見出し、適材適所に用いれば本人も働きやすく、頑張るものだ。心せよ。

例え無学文盲であろうとも益田与助の長所や可能性を見出して台所の水汲みから黒田二十四騎と謳われる侍大将にまで育てた官兵衛の眼力には感服せざるを得ない。

 

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大関ヶ原展と黒田軍~長政の活躍~

2015-09-16 08:29:09 | Weblog

大関ヶ原展の紹介記事が朝日新聞に載っていました。

近年、関ヶ原の合戦の東軍、西軍双方の布陣を見た西洋の戦略研究家は西軍の勝利を予想しましたが、長政の大活躍で東軍が大勝利しました。

関ヶ原の合戦は武力と武力の激突戦ではありましたが、長政が西軍の松尾山に布陣した小早川秀秋を反忠(寝返り)させたり、吉川広家に毛利軍を動かざるべしと約束させたために東軍の勝利となった戦であった。

権謀術策、策略戦、情報戦の中で長政が大いに活躍した関ヶ原の合戦でありました。

後世の逸話では、戦が終わった後、本陣に集まった諸侯の前で家康が長政の手を握り、「この戦での勲一等の働きをしたのはそなたのお陰である徳川家の続く限り黒田家を粗末にせず」としばし感涙に咽んで感謝した話が伝わっています。

その話を中津に帰った長政が誇らしげに官兵衛に話したところ

官兵衛「では握られたのはどちらの手であったか?」

長政「右手でございました、、、。」

官兵衛「その時そなたの左の手は何をしていたのじゃ?」(なぜ左手で家康を差し殺さなかったのじゃ。黒田家が天下を取れる千歳一遇のチャンスを見逃しおって、、、。)

という官兵衛らしい逸話が残っている。

 

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大関ヶ原展と黒田軍展

2015-09-12 07:43:37 | Weblog

10月4日まで、福岡市博物館で徳川家康没後400年記念として大関ヶ原展が開催されています。

 特別展示として黒田長政の「銀箔押一の谷形兜」が注目されます。

義経が峻険な一の谷を駆け下り平家を急襲した逸話にちなんだことをモチーフに福島正則が持っていたものを長政の「水牛脇立て桃形兜」と交換したものと言われています。

これは母里太兵衛が福島家家宝の「名槍日本号」を呑み取り返さなかったことから、黒田家と福島家の中が険悪となったのを、お互いの兜を交換して手打ちをしたと伝えられているものです。

武士には面目があるのです。

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 毛屋武蔵(主水)種久

2015-09-09 08:32:06 | Weblog

毛屋主水正(もんどのかみ)武久は幼名虎千代、俵藤太(琵琶湖の大百足退治の物語で有名)の末裔で近江国神崎郡(滋賀県彦根市)出身。

若くして弧となり、和田氏、六角氏等に仕えたのち柴田勝家に仕え、長篠の合戦で高名。

その後、前田利家、池田信輝、佐々成政に仕えるも成政切腹、中津にて黒田長政に300石で召し抱えられる。

昔、蒲生氏郷危なかりし時、毛屋主水に助けられた芳志を会津42万石の大名となった氏郷忘れず、主水を1万石で召し抱えんと申し出たが、朝鮮出兵の前ゆえ辞退す。

関ヶ原の合戦では敵の人数を適格に家康に伝え褒美を給わる。

四十過ぎまで妻なく、黒田に滅ぼされた城井氏の家臣大剛強と謳われた鬼木掃部の娘が弟妹とともに落人となっていたのを長政の命で娶る。

功名しるき主水は長政より武蔵の名を給わり、寛永5年筑前にて75歳の波乱万丈の生涯を閉じた。

*今、毛屋主水のご子孫が藤香会(黒田武士の末裔の会)でご活躍されています。そのかみの黒田武士の勇猛剛毅の様を伝えるべく多くの末裔の方々が福岡をはじめ各地にいらっしゃいます

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 原弥左衛門(伊豫)種良

2015-09-05 07:46:41 | Weblog

 

原弥左衛門種良は旧姓宝珠山、遠祖は漢の高祖の末裔といわれています。

父宝珠山隆信は大友宗麟より豊前国田川郡(福岡県田川市)を与えられる。

天正14年(1586)秀吉の九州島津征伐の折、黒田官兵衛が豊前国に入ると嫡男種良を人質に出し案内役を務め香春岳城を落とすと秀吉より官兵衛の家臣になるよう命じられた。

その折、官兵衛より原の姓を給わり名を弥左衛門をなのる。

長政が城井谷攻めで大敗した時、殿(しんがり)を務めた。

朝鮮出兵の文禄の役でも晋州城攻撃などで活躍。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の前、官兵衛に従い九州攻めに参戦、西軍の安岐城兵を迎撃し手柄を立てた。

慶長14年(1609)福岡城代を命じられ、隠居後寛永17年(1640)長命を得た83歳の生涯を閉じた。

順心寺に墓がある。

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 三宅山太夫家義

2015-09-01 08:26:30 | Weblog

三宅氏は先祖を摂津国三宅城主(大阪府茨木市)であったが、戦国乱世の中で離散した一族のうち、山太夫の父が仕えていた播磨国別所氏も滅亡。

渡り奉公していたところ、長じた山太夫は武勇を官兵衛に認められ黒田家臣にスカウトされた。

英賀合戦、上月城主赤松氏攻めで手柄。

第一次城井谷攻め(福岡県築上郡)では泥田に馬が動けなくなった長政を担ぎ上げ助ける。

豊前国城井地区国人領主城井鎮房を降伏させるために一人で乗り込み、四度使者として勤め、鎮房は説得に応じて嫡子朝房と娘鶴姫を人質に出した。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦時は官兵衛に従い豊後姫島沖(大分県姫島)で西軍に与して敗戦後、薩摩へ逃げ帰る途中の島津義弘の船を沈める黒田水軍の将として高名。

筑前入国後、3600石の若松城代(福岡県若松市)を預かり、黒田水軍の頭となった。

元和5年(1619)長政より若狭守を与えられた三宅三太夫家義は72歳の生涯を閉じた。

*第一次城井谷合戦で大敗し自暴自棄になった若き長政を、必死で助け出した三太夫であるが、もしこの地で長政が死んでいたら後の日本の歴史は大きく変わっていたであろう。歴史を紡ぐ糸は様々な要素が絡み合いながら事実として残されて行くのですね。

 

 

 

 

 

 

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