中世武士団・鎮西宇都宮氏の研究

2011-07-30 07:56:52 | Weblog

 

宇都宮氏の研究の第一人者、則松弘明さんから新著「中世宇都宮氏の研究」が届きました。則松さんとは一緒に福岡県築城(ついき)町城井谷(きいだに)地区の宇都宮氏の史跡や黒田氏の付け城を訪ね色々と教えていただいたことがあり、そのお人柄の崇高さと謙虚さそして純粋な研究者としての奥深さは並ぶものがないと私には思えるのです。鎌倉幕府の地頭として派遣された鎮西宇都宮氏の起源から黒田氏との戦いを経て滅亡に至る400年に亘る一族の詳しい歴史は読むものにとって新しい感慨をもよおすものです。多くの宇都宮、黒田両家の関わりのある方、研究者、歴史作家そしてゆかりの方々に読んで欲しい一冊です。

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中津祇園祭りと豊前中津の黒田武士

2011-07-27 07:36:40 | Weblog

中津祇園祭が賑やかに催されました。今夏は祭りに協賛して市民総踊りが夕暮れ迫る町筋に登場し多くの市民がうちわ片手に浴衣姿で見に来ていました。その中で最も拍手を浴びたのは「豊前中津の黒田武士」の踊りでした。我々の踊りの師匠である小野京子先生率いる小美の会の皆さん30名ほどが豊前中津の黒田武士の新作の踊りを素晴らしい振り付けで踊りながら進むさまはまるで大名行列のようでした。厳かで気品豊かそして優雅な手先のしなり足の運びにじっと見とれていましたがそれは息を呑むほどの素晴らしい踊りでした。よりいっそう豊前中津の黒田武士が多くの市民の方々の心の中に強く残ったことでしょう。豊前中津の黒田武士がまた新しいバージョンでご披露されたことに驚きと嬉しさ一杯のひと時でした。

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中津城新作切り絵

2011-07-23 07:44:57 | Weblog

友人の切り絵作家工家(くげ)清人さんが中津城を描いた新作切り絵をご披露してくれた。中津城を北側から望み黒田如水が築いた石垣やお堀、そして堂々と聳える天守閣が中央に据えられています。工家さんは福沢諭吉旧居や名勝耶馬溪、宇佐神宮の元宮である薦神社など中津の名だたる名所旧跡を作品にして地元の皆さんや観光客に親しまれて居ます。多くの作品は絵葉書となっていますので中津へお出での折りは駅の観光案内所などにありますのでどうぞお買い求めください。本当に素晴らしいですよ。

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城下町中津市の礎 京町と黒田官兵衛(如水)

2011-07-19 07:56:42 | Weblog

秀吉の九州征伐の恩賞で豊前6郡12万3千石を拝領した黒田官兵衛(如水)公は南北に長い豊前国に入封し周防灘に面した今で言う北九州から宇佐に渡る広い地域の中から何処に城を築くか思案したのち海上交通や商業の発展に適した地としてこの中津の浜を治世の本拠地として選んだ。ゆえに城下町中津の礎を築いたのは黒田官兵衛(如水)公であり豊前国中津の恩人である。その官兵衛(如水)公が築城を始めた時、最初に出来た町並みが姫路町と京町であった。その名のとうり京町は京都から移り住んだ商人や職人さん達が住んだ町でこの城下町の発展に大いに貢献しました。この町筋では京言葉が飛び交い当時は雅(みやび)な京文化もあわせて伝えたことでしょう。今では往時の賑わいには遠いものがありますが何かしら落ち着いた風情のある通りが残っています。

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城下町中津市の礎 姫路町と黒田官兵衛(如水)

2011-07-15 07:40:49 | Weblog

中津市に姫路町があります。この地に初めて城を築き城下町としてその礎を築いた黒田官兵衛(如水)公が遠く故郷の播州姫路から築城のために連れて来た左官、石工(いしく)などの職人や商人達がまだ町作りの始まったばかりの一角に住んだのが今に残る姫路町です。その町割りは中津城に近く歩いてもすぐに隣町へ抜けるほどですが今では往時の賑わいを偲ばせるものはこの町名板ばかりとなりました。今、町角にひとり佇み静かに眼を閉じると420年前、この通りを黒田武士のつわものどもが行き来し官兵衛の信頼厚く日々築城に精を出して働いた職人達や生活用品や反物などを仕入れてきて町の発展に尽くした商人達の元気の良い挨拶の声が飛び交う様が想像され少し切ない気持ちにさせられます。願うらくは何時までもこの町名が消えないことをと祈るばかりです。

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大河ドラマ 平成25年版 「八重の桜」

2011-07-11 07:54:22 | Weblog

平成25年のNHK大河ドラマが新島八重の生涯を描いた「八重の桜」と発表された。幕末の戊辰戦争では自ら銃を持ち会津若松城に籠城、アメリカより帰国し同志社大学を創立した新島襄と結婚し同大学を盛り立てる。晩年は日清、日露戦争にて篤志看護婦として活躍した。幕末から明治にかけて封建制度の抜け切らない世の中において自ら信じる道を歩んだ一人の強き女性であった。今回は東日本大震災の被災地への応援歌として選ばれた物語であるという。以前会津若松へ旅行したことがあり会津磐梯山の雄姿、会津若松城や白虎隊の哀史に心震えたのを覚えている。一日も早い被災地の復興と「八重の桜」が皆様の癒しとならんことを切に祈念する次第です。

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豊前中津の黒田武士 参上Ⅱ

2011-07-07 08:24:04 | Weblog

先日友人の主宰する中津絆歌謡会の歌の祭典に豊前中津の黒田武士の舞を是非友情出演してと依頼されましたので出場しました。今回は何と6名で舞いました。6名で舞うことは初めてなので立ち位置の確認や舞の合わせをきっちりしようと猛練習しました。6名の黒田武士が舞台上に舞い上げる姿は圧巻で会場のお客様はうっとり?と見惚れていました。黒田官兵衛(如水)公を大河ドラマへと活動する上は多くの市民の方々に目で見て知っていただき、初代中津城主黒田官兵衛(如水)公をしっかりと印象に残していただくこともとても重要なことです。そして多くの市民の方々に大河ドラマへの熱い思いが伝わり徐々に盛り上がって行くことを願っています。呼ばれれば何処へでも出かけていく中津の黒田武士です。応援よろしくお願いいたします。

 

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名槍 日本号 Ⅱ

2011-07-04 07:22:47 | Weblog

福島家家宝の名槍日本号を呑み取った母里太兵衛です。母里太兵衛は黒田家の三家老の一人に数えられ栗山備後守利安、井上周防守之房とともに重臣として黒田官兵衛を支えてきました黒田軍の中で勇猛な侍大将である黒田24騎、その中でも最も勇猛果敢と謳われた黒田八虎の一人に数えられ数々の戦場での武功により黒田家最多の生涯76首級を挙げました。黒田家では戦で33首級を挙げたときにその武勇伝を讃える意味で首供養塚を建て誉れとなす慣わしがあり母里太兵衛も中津城内西御門そばに首供養塚を建てたと黒田武士研究家の本山一城氏より教えていただきました。中津市には古くから後藤又兵衛の屋敷跡と地区の古老より言い伝えられている一角がありますが残念ながら母里太兵衛の屋敷跡と伝わるところは現在まで不明です。その屋敷には伏見の福島正則屋敷で呑み取り中津まで持って帰った「名槍日本号」が暫く飾られていたのです。是非見つけたいものです。

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名槍 日本号

2011-07-01 08:18:20 | Weblog

天下三槍と謳われる名槍「日本号」は文禄5年(1596年)黒田家が中津藩主のとき重臣母里太兵衛が福島正則邸で呑み取り、その物語が福岡県民謡黒田節となったことで知られていますが、「黒田家臣伝」にはこの槍を秀吉の朝鮮出兵の時に持って行き大活躍をしたとあります。以前、福岡市立博物館で見た実物は柄の螺鈿や刀身の龍の彫り物はまるで美術工芸品のようでしたので「この槍を以ってつきふせ、或はこの槍を以ってよこさまに切り伏せなぎふせしけるが日本朝鮮所々の軍に、此槍にて度々手柄を顕はしけるとぞ聞こえし。」と書かれているのには少し驚きました。思えば当時は何時死ぬか分からない状況の中、たとえ天皇家から下賜された名槍であろうが己の身を護り敵を討つ道具でしかなかったのですね。この美しい槍が多くの敵を突き伏せ薙ぎ倒したとは何か信じがたい思いがします。

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