姫路が生んだ智将 黒田官兵衛 IN 姫路獨協大学 Ⅱ 

2014-06-29 07:10:30 | Weblog

『姫路が生んだ智将黒田官兵衛』の出版が大分合同新聞に取り上げられました。

すぐさま書籍購入希望の電話があちこちからかかってきて、何やら嬉しい感じがしました。

また、関ヶ原の合戦の日である9月15日、16日、豊前国中津黒田武士顕彰会では第8回黒田官兵衛の足跡をたどるツアーを催しますが、その企画と参加募集要綱も載せてくださいました。

信長の安土城祉、秀吉の長浜城と賤ケ岳古戦場、家康の関ヶ原の古戦場という、三人の天下人のゆかりの地を巡ります。

きっと楽しい旅になると思います。ただいま参加募集中です。ご一緒しませんか?

 

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黒田官兵衛講演集 ㏌ 姫路獨協大学

2014-06-26 08:01:50 | Weblog

このほど、『姫路が生んだ戦国の智将「黒田官兵衛」』が神戸新聞総合出版センターより出版されました。

昨年四月より姫路獨協大学で毎月1回ずつ、全10回に亘る黒田官兵衛について各方面の方々が講演したものです。

小生はそのうちの第7回の講座「豊前国中津の黒田官兵衛」について、担当しましたが、いざ活字になるともう少し加筆すれば良かったと思われるところもありました。

第1講が作家の加来耕三さん、第10講がNHK大河ドラマ軍師官兵衛の時代考証を担当されている小和田哲男さんです。

他に黒田二十四騎研究の第一人者本山一城さん、先日中津黒田武士顕彰会がお訪ねしてお世話になった広峯神社の幸田宮司さんなど官兵衛に関わりのある方々が講演されていて、とても読みごたえがあります。

皆様におかれましては是非一冊お手元に置かれますようお願いいたします。

 

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黒田官兵衛余聞 ~毛谷村六助~

2014-06-24 08:16:22 | Weblog

先日、黒田官兵衛について講演を頼まれた中津市山国町槻木公民館に行ったときに、近くにある毛谷村六助の墓を訪ねました。

毛谷村六助はこの地で生まれ、加藤清正の家臣として文禄の役で朝鮮へ出兵し大活躍しました。

その物語が歌舞伎の演題「彦山権現誓助剣」となり、広く知られるようになりました。

山深い村落の小高い所にひっそりとその墓はありました。

 

 

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黒田官兵衛と馬が岳城と後藤又兵衛

2014-06-21 08:12:25 | Weblog

黒田官兵衛が九州島津征伐で武功をあげ、秀吉から拝領した豊前国十二万三千石は豊前国八郡のうち、北の二郡(企救、田川)を除く六郡(京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐)でした。

官兵衛はまず従来からある北端の京都(みやこ)郡にある馬が岳城(福岡県行橋市)に入城しましたが山城でしたので、新しく国の中央あたりの中津に築城しました。

馬が岳城は麓から歩いて一時間ほどかかるので、有岡城の牢で一年間ほど幽閉され足を痛めた官兵衛は平地の法念寺(福岡県築上町)に数か月滞在しました。

このほど、馬が岳城のパンフレットが届きました。

後藤又兵衛ともゆかりがあり行橋市には資料館が建てられ市をあげて軍師官兵衛を応援している姿は素晴らしいものがあります。

皆さんも一度は行橋市と馬が岳城祉を訪れることをお勧めします。

各地の官兵衛ゆかりの地は何処も盛り上がっています。

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの求菩提山と桜狩り和歌

2014-06-18 08:47:44 | Weblog

求菩提資料館が「NHK大河ドラマ軍師官兵衛」の放映が決まり、新しく官兵衛と求菩提山との関わりを詳細に紹介したパンフレットが届きました。

大河ドラマ「軍師官兵衛」が好評なので、ジャストタイミングです。

官兵衛が催した桜狩りの和歌の直筆短冊も紹介されており、良くまとめられています。

求菩提山は黒田官兵衛にとっても、とても重要なゆかりの地です。

今まであまり知られていませんでしたが、これから官兵衛研究者や歴史学者の方々に注目される場所です。

まず、この地と桜狩りの和歌にいち早く注目し、全国に紹介した豊前国中津黒田武士顕彰会の誇りでもあります。

嬉しいですね。

ぜひ、多くの官兵衛フアンの皆さんに訪れてほしいと思います。

 

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黒田官兵衛の足跡をたどる~黒田利安・大膳と白米城祉(別名平田城址)

2014-06-16 08:03:11 | Weblog

日田の日隈城祉を後に国境を越えて豊前国へ入り、一つ戸城祉をバスの窓から眺め、耶馬渓町の白米(まったけ)城址へ辿り着きました。。

長岩城の野仲鎮兼を破った黒田家の一番家老栗山利安(善助)の治めていた白米城は別名平田城と呼ばれ、山国川や周辺の里を眼下に見下ろす小高い丘の上にあります。

この城で後に江戸時代の三大お家騒動の一つと言われた黒田騒動の主役栗山大膳(栗山利安の嫡子)が生まれたのです。

大膳は黒田家が筑前福岡52万石に転封したのちも、黒田家の筆頭家老として活躍していましたが、主君で二代藩主黒田忠之の行い(幕府禁止の大型船建造、浪人雇う)を諌めるために幕府に訴え、陸奥の南部藩にお預けとなり、その地で生涯を終えました。

官兵衛が息子長政の行く末を託して贈った赤兜も大膳と共に陸奥へ行って今では盛岡市にあります。

栗山家の一つのルーツがここ中津市耶馬渓の白米(まったけ)城にあるのです。

一同、黒田家を身を挺して守った栗山大膳の生涯を偲びました。

 

 

 

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黒田官兵衛の足跡をたどる~栗山利安(善助)と 日田 隈城

2014-06-13 08:00:00 | Weblog

穴太積の見事な石垣の豊後森(大分県玖珠郡玖珠町)角牟礼城をあとにして、大分県日田市にある日隈城址を訪ねました。

別府石垣原の合戦に勝利した黒田軍は栗山利安(善助)を総大将にして別動隊を豊後森の角牟礼城を攻め、そのあと日田市にある日隈城を開城させます。

この日隈城は毛利高政の居城で、角牟礼城はその支城でした。*毛利高政はかの中国大返しの時、人質交換として秀吉から毛利輝元に遣わされ、輝元に気に入られ森姓から毛利の名をもらった。

関ヶ原の合戦では最初西軍に属ししていましたが、東軍武将藤堂高虎の説得で東軍に寝返りしたので栗山軍とも激闘することなく開城しました。

 その後、一時栗山利安(善助)が城代として治めていました。

日田は江戸時代、幕府直轄地として明治維新まで続きました。

 *下側の所以板には栗山大膳とあるのは間違いで、正しくは父親の栗山利安(善助/1550~1631)です。大膳(1591~1652)は関ヶ原の合戦(1600)当時まだ子供で9歳でした。父利安と息子大膳はよく間違えられます。

 

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黒田官兵衛の足跡をたどる 余聞~合格祈岩~

2014-06-11 07:26:07 | Weblog

黒田官兵衛の足跡をたどりつつ走り行くバスの窓から奇岩が立ち並ぶ一帯に目を奪われました。

豊後森の角牟礼城へ向かう途中、耶馬渓町の山深く分け入ると、火山活動の名残でしょうか、幾つもの名勝風景に出くわします。

1600年9月15日、別府石垣原合戦で勝利した黒田軍は、討ち取った大友軍の首実検を黒田本陣のある実相寺山で済ませると、すぐさま別動隊を西軍である豊後森の角牟礼(つのむれ)城攻めに向かわせます。

その途中このような景勝地に驚きながら、黒田軍は山中を行軍して行ったと思われます。

我々が出くわした光景は「合格祈岩」という奇岩で、落ちそうで落ちない大岩が見上げる巨岩のてっぺんに鎮座ましましているのです。

面白くてバスを止めて一同しばらく見上げて感嘆の声をあげていました

受験などを控えぜひ合格したい方は、この「合格祈岩」に願をかけるときっと願いがかなうのではないかと思います。

 

 

 

 

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黒田官兵衛の足跡をたどる ~ 角牟礼城址

2014-06-09 07:49:22 | Weblog

後藤又兵衛の墓碑、潜んだかまど岩を後にバスは山道を幾度も曲がりつつ玖珠町の角牟礼城祉へと向かう。

別府石垣原の合戦で大友義統軍を破った黒田軍は、本隊の如水軍は国東に引き返し再び安岐城、富来城を攻め中津へ向かうも、栗山利安率いる分隊は西軍の豊後森(玖珠町)の角牟礼城を攻める。

この角牟礼城址は穴太積の見事な石垣が残る中世の山城です。

麓からバスで三の門まで行くと穴太積の石垣が目の前に聳えています。

これほどの石垣はなかなか無いのではないかと思われるほどの見事な穴太積の石垣です。

そこから石垣に沿って少し上ると二の門に辿りつき、遠く遥かに玖珠町の街並みが見渡せます。

中世の山城を訪ね歩くことの面白さはここに極まるのではないかと思います。

ぜひ一度みなさんお訪ねください。

 

 

 

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黒田官兵衛の足跡をたどるツアー~後藤又兵衛のかまど岩

2014-06-07 07:52:44 | Weblog

後藤又兵衛の墓碑から少し山手に上ると又兵衛が潜んだかまど岩と呼ばれる洞があります。

奥行きは15米くらいとそう深くはないのですが、入口の高さは5米ほどで横幅は7米ほどでしょうか。

中はひんやりして天井から水滴が落ちてくるところがあります。

ここで後藤又兵衛が豊臣家の再興を胸に恃みながら密かに日々暮らしていたという伝説も真実味がありそうです。

何やら後藤又兵衛がぬっと出てきそうな感じがします。

 

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