黒田官兵衛の仕えていた小寺家の御着城祉を訪ねました。
今は役場となっている建物の前の庭に立派な顕彰碑が建っていてその傍に目薬の木が植えられていました。
「九州からはるばるやって来ましたよ」とそのかみの官兵衛公を偲びつつしばし深く頭を垂れこれまでの我々豊前国中津黒田武士顕彰会の活動をご報告しました。
官兵衛公も泉下できっと喜んでくださっていることと思います。
その折、頭を過ったことは、もし主家の小寺の殿様が織田信長についていたら黒田官兵衛の生涯や日本の歴史はどのように変わっていただろうか?ということでした。
官兵衛は人を裏切ることを良しとせぬ生き方を貫いており、かの上杉景勝の軍師直江兼続の如くそのまま小寺家を盛り立てていたのかもしれません。
そうすると官兵衛が居なかった秀吉には天下を取れていたかどうか分かりません。いやきっと取れてなかったでしょう。
小寺家が官兵衛の進言を信じ、信長についていれば播磨かどこかの地で官兵衛の軍略により歴史に燦然とその名を残し数十万石の大名として明治まで続いていたのではないかと想像するのも歴史を学ぶものたちの楽しみではあります、、、が。
皆様は如何お思いですか?
このほど姫路獨協大学内の創立20周年記念ホールにて「播磨歴史講座」第7回セミナー「豊前国中津の黒田官兵衛」の演題で講師を務める事になり行ってきました。
私共豊前国中津黒田武士顕彰会の皆さんが一緒に来て下さることになり、第5回ゆかりの地を巡る旅を兼ねることになりました。*皆さんは小生の講演の間、広峰神社、姫路城の見学です。
「播磨歴史講座」は今年4月から来年1月までの10回に亘り毎月黒田家の来歴や黒田官兵衛の生涯を詳細に検証され学ばれている講座で、会場は播磨の歴史を学ぼうとされている方々で満員でした。
実は豊前中津生まれのオリジナル作「軍師官兵衛」の歌と踊りもご披露したかったのですが会場の都合で講演の前にDVDでの紹介になりました。*未だご覧になってない方はヤフーで「軍師官兵衛」の動画をクリックされるとその中にあります。
中津時代の黒田官兵衛につて、前もってお送りした講演資料をもとにパワーポイントを作りお話しましたが播磨の方々は九州や豊前国、そして中津について地理的に分かりにくいところがあるのではないかと思いなるべく文字でご説明するより図や写真をを多く用いましたがさて講演の内容は如何でしたでしょうか?。
豊前時代は秀吉の九州島津征伐で豊前国に入封、豊前国6郡を下賜されてのち国人一揆制圧、小田原北条氏降伏、文禄・慶長役の朝鮮出兵、石垣原の合戦、関が原の合戦という黒田家にとって非常に大きな波乱の時代でもあり重要な時代でもありました。
講演は意を尽くせたか分かりませんが「播磨歴史講座」の受講者の皆さんもしご質問があればご遠慮なくご連絡くださいますようにお願いいたします。
このほど地元中津で頑張ってこられた「タウンマガジン中津」が30周年を迎えたのでお祝いに行って来ました。
地方のタウン誌が30年も続くと言うのは編集者荻本さんのまじめなお人柄と採算を度外視した発行姿勢によります。
ただ一筋に地元中津を愛する気持ちから30年も続いたのではないかと思います。
まさに継続は力なりですね。これからも市民の皆さんと応援して行きたいと思います。
会場には300名もの方々がお集まりになり30周年を共にお祝いされていました。
我々顕彰会も小野会長と共に駆けつけ新曲「軍師官兵衛」の歌と踊りをご披露しました。
祝賀会の”トリ”を努めさせていただきましたが踊りながら会場の皆さんを窺うと真剣に中津生まれの「軍師官兵衛」をご覧になって下さっていました。
昨年の10月10日、2014年大河ドラマに「軍師官兵衛」決定!!がNHKニュースで発表されてから早1年になります。
あの感動の大河決定の瞬間からもう1年が経ったのだと思うと感慨無量です。
顕彰会の皆さんがいつも集まるスナックで猪鍋を囲み決定1周年のお祝いをしました(なんとスナックは官兵衛一色でこの1年を営業して来たのです。何かあるとメンバーの誰か彼かがブランデーや銘酒、焼酎、鍋の具には鹿や猪、すっぽん、イカや鯉、古鶏などを持ち寄り自分達で調理して宴会を始めます。それがメチャ美味いのです。)。
皆さんあの決定の日から今日までのとても慌しい日々を思い返しながら美味しい酒を戴きました。
各地のサークル、生涯学習教室、総会などから黒田官兵衛について講演依頼が殺到し顕彰会の皆さんとボランティアで東奔西走してきましたがそれはまだしばらく続きそうで嬉しい悲鳴を上げているところです。
我々が出来ることは官兵衛公の素晴らしさを多くの皆さんにお伝えし、来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」をより面白く見て頂きたいということです。
新曲「軍師官兵衛」の歌と踊りも会を重ねるうちに素人の域を超えつつ?あります(軍師官兵衛踊りで動画をクリックすれば見れますよ)。
写真のように何度もかんぱ~い!乾杯!の発声が続き座は大いに盛り上がりました。
中津市伊福にある後藤又兵衛の墓を訪ねました。
後藤又兵衛は幼少から官兵衛に可愛がられ、長政と競い合う如く共に育てられました。
黒田家が中津から筑前52万石へ転封したとき六端城の一つ益富城代に抜擢されましたが官兵衛が亡くなった後、長政と上手くいかず出奔します。
長政は又兵衛を「奉公構え」の処分とし他家へ仕官することを許さず又兵衛は長らく浪人生活を送っていましたが大坂城に軍師として招かれ大坂夏の陣において伊達軍の鉄砲に斃れその生涯を終えました。
しかし、実は又兵衛はその時死なずに生き延びてはるばる中津の地にたどり着き豊臣家再興の日を待ちつつ密かに愛妾の地であるここ伊福の洞窟に籠り日々を暮らしていました。
ところが秀頼が家康に攻められ自害しその望みも絶たれこの地で無念のうちに亡くなったというのが当地に残る悲しい物語です。
いかにも豪傑又兵衛らしい伝説ですね。
NHKさんと鎌倉時代から伝わっている中津市の北原人形芝居を訪ねました。
諸国巡歴の途次、当地を訪れた北条時頼が病に倒れたのを村民あげて親身になって看病したので全快した。そのお礼参りと祝賀のおりに指や掌に人形を描いて面白く芝居仕立てにして慰めたことから時頼はいたく感激し立ち去る時にその人形芝居を当地の世すぎにせよという言葉を残したそうです。
関が原の合戦の前、西軍の石田三成の人質要請の難から逃れ海路無事中津にたどり着いた官兵衛室光姫と長政室栄姫を官兵衛は大いに喜びお城に領民を招きいれ一緒に祝いましたがそのときに呼ばれたのが北原人形芝居でした。
勿論現在のような完成されたものでなくもっとプリミティヴなものであったと思われます。
今では数少ない三人遣い(人形を一人で三人分操る)の名手である古門さんに目の前で実際に演技をしていただきました。
NHKさんも大いに興味を持たれ自分でも人形を操作されましたが首の扱いが特に難しく苦労されていましたが楽しそうでした。
このほど全国的なポーラ文化賞を受賞された素晴らしい北原人形芝居がこれからも郷土のきらりと光る芸能として未来永劫に発展してゆかれんことを願わずにおれません。
NHK歴史秘話ヒストリアさんが来られたのでかねてからの懸案である「如水出陣太鼓」を訪ねました。
当地では昔からの言い伝えで黒田官兵衛(如水)公が1600年九月九日、九州中の西軍の城を攻めるべく如水原で兵を挙げたとき何かと協力したであるところから地名も「助っ人→助部(すけぶ)」と呼ばれ地名としても残っていました。
住民が協力したお礼に官兵衛は戦に使用した出陣太鼓と弓二張をこのに贈ったそうです。
それ以来、出陣太鼓は「如水出陣太鼓」として大切に保管されてきましたが本日特別に見せていただきました。
一本の木の中をくり抜いて太鼓にしており、上部の二個ある鉄の輪に長い棒を通し二人で担げるようにしています。持ち運び用の側部の耳はありません。
革は地元の中津工業高校が甲子園出場した折、応援に持って行き雨の中一生懸命敲いたので破れてしまったので張り替えたそうです。残念!勿体無い!!
古老の植山さんが仰るにはその革には黒田家の家紋「藤巴」が描かれていたとのことです。
ただ、太鼓の外側には軍配(奥平家紋に似ている)が描かれておりお聞きすると出陣太鼓には軍配が画かれていることもあるようですとのこと。
色々謎に包まれた陣太鼓ですがくり貫き太鼓の形体が横から見るとまん丸でなく歪でありかなり古い作りなのは確かなようです。