黒田長政と母里太兵衛

2007-06-30 07:30:54 | Weblog
ある時、黒田長政(写真)が下手な謡曲を披露した。多くの家臣が褒めそやすなか母里太兵衛が「殿の歌はとても聞けるものではありません。今後は人前では歌わない方がいいでしょう」とはっきり伝えた。すると長政は怒るどころか「お前の申したことは正しい。今後は歌わないようにする」と答え、腰の名刀を太兵衛に与えた。豪放磊落な太兵衛、名君長政の面目躍如といったところか。歌の余り上手くない方々、カラオケで褒められて喜んじゃいけませんぞ!もう人前で歌わない方がいいと言ってくれる部下(友)が本当の部下(友)なのです。えっ、もう何度も言われたけどまだ人前で歌ってるって?

栗山四郎右衛門利安ご子孫

2007-06-29 07:37:45 | Weblog
先日大阪吹田市の栗山さんに外郎(ういろう)と「幻の味豊前中津の糟漬け如水はも」を送ったところお礼状が来ました。その中に栗山家の一族の方々が団結され姫路の近くの小野市に住んでおられるということです。如水の一番家老栗山利安の子大膳は長政の跡を継いだ第二代藩主忠之の不行跡(幕府禁止の大型船の建造、浪人を多数召抱える等、当時幕府より最上藩や熊本藩〈加藤清正没後〉の取り潰しや福島公の改易があっている)に藩の将来を憂え身を挺して幕府に訴え藩を救った忠臣です。その後、藩主忠之は謹慎、栗山大膳は盛岡の南部藩にお預けとなり黒田騒動と呼ばれた事件は一件落着、如水から貰った合子形兜とともに盛岡に一族は移って行きました。そのご子孫の方々が小野市にいらっしゃるのです。盛岡に行かれた一族の方々と残った方々がいるというわけです。(勿論中津にもいらっしゃいます)とても興味深いことでいつの日か栗山家の歴史を是非お聞きしたいものである。


運命

2007-06-28 10:09:49 | Weblog
豊後石垣原(別府市)の合戦で黒田軍勢に敗れたのは大友宗麟(写真)の嫡男義統、宗麟の側室の娘を妻としたのが黒田の重臣母里太兵衛、宗麟の妹を妻としたのが赤壁で有名な合元寺の変の城井宇都宮鎮房である。戦国時代とはいえ縁戚同士が敵味方に分かれ戦わざるをえなかった運命の非情さに思いを馳せるとき、思わず落涙拭うを禁じえないのは私一人ではないであろう。


幻の味

2007-06-27 07:19:52 | Weblog
400年ぶりに復活した幻の味豊前中津の如水はもの記事が昨日発行されたタウンマガジンに載ってました。小野会長が味見している顔とメンバーが勢揃いしている写真付きです。黒田武士ゆかりの味です。全国の黒田武士ファンの方々にぜひ一度味わって戴きたい逸品です。


如水と荒木村重

2007-06-26 07:45:47 | Weblog
如水が小寺家の家老(小寺官兵衛と名乗っていた)のとき伊丹有岡城の荒木村重が毛利に寝返りしたのを翻意させるために小寺家から使わされたがそのまま地下牢に一年ほど閉じ込められた。助け出された時はあたかも死人の如く毛髪は抜け皮膚病と右足の間接は曲がらずという状態だった。生死を分けたこの入牢生活が如水の精神力を一段と強固にした。荒木村重はあろうことか有岡城落城直前、家臣を見捨て一人城を抜け出し落ち延びた。その後許しを請い秀吉に仕えその相伴衆となる。茶道に精通し千利休七哲のひとりとなった。これも戦国時代に生きたひとりの武将の生き様であった。


後藤又兵衛基次

2007-06-25 06:28:08 | Weblog
後藤又兵衛基次は黒田二十四騎のうちでもさらに勇猛な黒田八虎に称される猛将です。幼時より如水に可愛がられ朝鮮出兵や関ヶ原で大活躍し其の名は天下に鳴り響きました。黒田家が筑前五十二万石に移封後は六支城のうち大隈城代に任命されるが如水没後、長政と合わず出奔し浪人となり豊臣の七大軍団長の一人として大坂夏の陣で奮戦するも伊達正宗の軍勢に討ちとられ戦死した。


栗山四郎右衛門利安

2007-06-24 06:44:21 | Weblog
これが黒田の一番家老栗山四郎右衛門利安(幼名善助)です。伊丹有岡城に幽閉された如水を母里太兵衛と共に助け出し、関ヶ原前に大坂屋敷に人質寸前の如水夫人幸圓、長政夫人ねねを三成から救い無事中津まで送り届けた。豊前中津時代は一つ戸や平田城代として耶馬溪地方を治めた。朝鮮出兵の文禄慶長の役では大活躍をし黒田が筑前52万石に移封後は左右良(まてら)城代二万石を勤め、如水死後長政を補佐した黒田家の重鎮。如水が最も信頼した家臣のひとりである。


如水と毛利元就の孫

2007-06-23 07:30:25 | Weblog
三本の矢の誓いで有名な毛利元就の次男吉川元春(吉川家に養子)の子広家(岩国藩祖)は如水が家督相続や結婚の世話をした。広家は関ヶ原の合戦の時如水と共に家康側につき、西軍に祭り上げられた毛利軍の動きを牽制した。そして如水を終生慕い、自分の墓は如水の墓のそばに建てて欲しいと遺言した。如水の人柄が偲ばれるエピソードである。貴方のそばに墓を建てて欲しい(死んでも側にいたい)と言ってくれる人ははたして、、、?


如水と加藤清正

2007-06-22 08:17:21 | Weblog
豊臣子飼いの武将の中でも加藤清正(写真)は如水とは仲が良く、文禄・慶長の役では朝鮮出兵で共に戦い、関ヶ原の前の九州征討にも如水に協力した。豊臣恩顧ゆえに秀頼を守りたい気持と家康につくことに迷いつつもただ三成等文治派と合わなかったからだった。



栗山堂の外郎

2007-06-21 07:54:05 | Weblog
これが日本一美味しい中津栗山堂の「外郎(ういろう)」です。如水の一番家老栗山四郎右衛門利安のご子孫が伝統の味を守っています。昨日、大坂の旧友(見目麗しく情けある)とその友人の栗山四郎右衛門のご子孫に「外郎」と小田原城北条氏を開城させた「幻の味豊前中津の鱧の糟漬如水はも」を送りました。もちろん優れものの「豊前中津の黒田武士」カセットテープの特別サービス。全国の皆さんにも是非味わって欲しい戦国時代の勇士黒田武士を偲ばせる味です。美味しいですよ。